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第37話 で、いつだい?

 カツカツカツと黒い革靴、かっぽかっぽと左右サイズ違いの焦茶のローファーが市民課の前を足早に進む。始業前の庁舎内は点灯している蛍光灯も疎で薄暗い。そんな中でも小鳥の顔はほんのりと色付いていた。



(お、近江さん!)

(何だよ、急げよ!)

(待って下さい、ちょ)

(遅ぇなぁ、さっさと歩けよ)

「だっ、だって近江さんが!」



 職員の視線が2人に集まった様な気がした。小鳥はぺこりと頭を下げ、近江隆之介はその背中をバン!と平手で叩いた。



(デケェ声、出すなよ)

(だって近江さんが)

(悪ぃ、悪ぃ、明日はやめとくわ)

(そうして下さい!)



 蛍光灯が映るビニールの床を足早に、エレベーターホールへと向かう2人の足音。この数十分前、小鳥はパイン材のベッドの上で近江隆之介に組み敷かれていた。金曜日の夜以降、降り注ぐキスの嵐。今朝は支度をしスカートを履いた所でバージョンアップした抱擁妖怪が出現した。



『ちょ、近江さん。出勤ですよ!』

『すぐ終わるから。』

『あ、ちょ。』


ギシッ


『あ、ん。駄目、ですっ・・・あ。』


ギシッツギシッツ



 この様な具合で出勤時間が20分程遅れてしまった。遅刻では無いが、エレベーターホールの電光掲示板には田辺、藤野、久我議員の名前が既に点灯表示されている。



「あ、ちゃぁ」

「久我議員、もういらしてますね」

「マジか、テンション下がるわ」

「御愁傷様です」



チーン


 エレベーターに乗り込む市役所職員の間をすり抜けて一番奥の壁際に立った。スーツの内ポケットからネームタグを取り出し首に掛ける近江隆之介、もその仕草に見惚れた。3階、4階と職員が降りて行く、も人混みが減る度に高梨小鳥の姿が顕になり女性職員だと気が付いた。



 ふと2人の視線が絡まった。



(何だよ)

(何でもありません)



 5階、6階、国主党フロアでエレベーターの扉が開く。



「あ、降ります」



 一歩足を踏み出した瞬間、近江隆之介の手が小鳥の指先をきゅっと握って扉の向こうへと消えた。



(・・・び、びっくりした)



チーン

 最上階、7階で扉が開く。




「高梨さん、降りないの?」

「あ、は、はい」



 議会事務局の職員に声を掛けられ慌ててエレベーターホールに出た。ふかふかの沈み込みそうな紺色のカーペット、議会事務局のカウンター、全面ガラスの窓から降り注ぐ日差し、廊下の背の高い観葉植物。週末と何も変わらない同じ景色が、小鳥にはまるで違って見えた。



(私、近江さんと、とうとうしちゃったんだ)



 秘密の職場恋愛。きっと今日も議員控室で9月定例議会に向けての作業が行われる。どんな顔で一緒に仕事をしたら良いんだろう。



「あら、大丈夫?熱でもあるんじゃない?」

「あ、いえ。遅刻しそうになって走って来ちゃいました」

「そう、はい。これ今日の郵便物」

「ありがとうございます」



 出勤簿に印鑑を押す指が震えた。


 マホガニーの机に突っ伏した久我今日子はのんびりと出勤して来た第一秘書おとうとの顔を見た途端、不機嫌になった。



「なに。その晴々しい顔」

「いつもと変わんねぇよ」

「敬語!」

「申し訳ありません」

「コーヒー淹れて頂戴」

「はい」



 回れ右、議員に背を向けた給湯室。この時点で頭の中では小鳥がパタパタと羽ばたいている。自然と口元が緩む。


パカっ

 コーヒーフィルターを赤い箱から出そうとして5枚、6枚とばら撒いた。



「あっ」

「何よ」

「申し訳ありません、手元が」



ガチャン

 コーヒー豆を挽いた所でスプーンを持った指先がシンクの縁に当たり、黒い革靴もフローリングの床も焦茶の粉まみれだ。



「ああっ」

「うるさい!」

「申し訳ありません」



ポコポコポコ

 議員控え室に芳しいコーヒーの香りが漂う頃、久我今日子のこめかみには青筋が何本も浮いていた。



「遅い!」

「申し訳ありません」

「何、その顔、腹立つわぁ!」



 NIKKOの金で縁取った白いカップでコーヒーを一気に飲み干し、カップソーサーに少しばかり力を込めて置いた。



「隆之介」

「なんだよ、いきなり」

「あんた、小鳥ちゃんと何かあったわね」

「何もねぇよ」



 久我今日子は椅子をくるりと回して黒いパンプスの踵を鳴らして立ち上がり、近江隆之介に詰め寄った。その姿はやはり女豹。真っ赤なネイルをその鼻先に突き付けた。



「あんたは近江の家の跡取りなのよ、いい加減落ち着きなさい!」

「お、おう」


「このままダラダラ同棲なんてしないでよ!」

「お、おう」


「逃げられない様にサッサと指輪、買って来なさい!」

「そ、それは大、丈夫」


「小鳥ちゃんのご両親にご挨拶する事、いいわね!?」

「お、おう」



 山程に積み上げられたバインダーを指差しそれを持てと睨みつけた。



「さぁ、定例議会まで飛ばすわよ」

「お、おう」

「敬語!」

「は、はい」

「小鳥ちゃんの部屋議員控室に行くわよ!」

「はい」

「そのクソムカつく晴れやかな顔はやめて頂戴!」

「はい!」

「あー!情けない弟!」

「はい!」



 田辺、藤野、そして久我今日子議員の爆弾が、9月定例議会に落とされるまであと5日。


 自主党議員控室には、久我今日子を含む臙脂色のバッジを付けた9名の国主党議員が田辺五郎の手元を凝視していた。

 田辺が書類を一纏めにして藤野に差し出し、藤野が分厚い青いバインダーを閉じ、久我今日子に手渡した。老眼鏡をくいっと右手の人差し指で上げた田辺は満足げな顔で安堵のため息を吐き、革のソファーから立ち上がった。



「皆さん、お疲れ様でした。これでは揃いました」



 その場に居た皆が胸を撫で下ろし、その中の1人が田辺へと手を差し出した。



「田辺先生、こうして政党の壁を越えて活動出来たのは先生のお陰です」

「あら、私は?」

「勿論、久我さんの活躍も。初めは突拍子もない話で面食らいましたが、藤野先生の熱い思いに心動かされました」

「いやぁ。それほどでも」



 田辺が壁際にいた小鳥と近江隆之介に向き直った。



「近江くんもありがとう」

「はい」

「小鳥くんも新人、初めてにしては助かったよ。ご苦労様」

「あ、いえ。そんな」



キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン

 昼休憩のチャイムが鳴り田辺、藤野、久我今日子を残し、議員たちは辺りを窺うようにして自主党議員控室を後にした。



「はぁ。やれやれ、久我くん、後は頼んだよ」

「はい」

「自主党も議席が多ければね」

「藤野くん、言っても詮無い事だよ」

「そうですね」



 近江隆之介が広げたコピー用紙やバインダーを纏めていると、田辺がポンポンとその肩を叩いた。何でしょうか、と涼しげな顔で手を止めたが、次の言葉に狼狽した。



「近江くん、で。いつだい?」

「何が、でしょうか」

「いつ、小鳥くんのご両親に挨拶に行くんだい?」

「え、え」

「僕としては、仲人は田辺さんが適任だと思うけどなぁ」



 藤野が腕を組んでニヤニヤとその姿を見下ろした。



「あら、隆之介、田辺さんが仲人、良いんじゃない?お願いしなさいよ」

「え、どういう」

「僕たちが気が付かないとでも思ってたの。心外だなぁ」

「君たち、付き合っているんでしょう?」

「え」



 久我今日子に背中を押された小鳥が真っ赤な顔で近江隆之介の隣に並んだ。

やはり議員は勘が鋭い。それでなければ選挙を勝ち抜き、何期にも亘り議員を務める事は難しい。



「い、いつから」

「6月定例議会の前かなぁ。君、僕に壁ドンしたでしょう」

「も、申し訳ありません」

「おかしいなぁって思ってたんだよ」

「そんな、前から」

「あぁ、ここで資料作成していた時にね。近江くん、小鳥ちゃんの手、机の下で握ってたでしょ。ちょっとショックだったなぁ、でもあれで確定だったね」

「も、申し訳ありません」


「小鳥くんも最近、何やら落ち着かなかったね。久我くんに聞いて納得したよ」

「あ、ご、ごめんなさい」

「ね。お見通しよ」



 藤野がデスクの引き出しを開けると、シワシワになった街頭配布のビラを取り出して近江隆之介の顔に近付けた。印刷された爽やかな藤野の頭には花が咲き、鼻毛が3本伸び、目からは涙がドバドバと流れていた。



「これ、酷いなぁ」

「あ、あ」

「僕が小鳥ちゃんと付き合っているって勘違いしていたんだってね」

「え、は、はい」

「君、発想が貧困すぎるよ。そんなんじゃ議員にはなれないよ」



 爽やかな笑顔がチクチクと嫌味さを倍増している。これは以前、近江隆之介が嫉妬に任せて落書きし議員控室でゴミ箱に捨てた物だ。姉がそれを拾い藤野に手渡したのだろう。キッと久我今日子を睨みつけたが明後日の方向を向いて口笛を吹いている。小鳥は思わずブッと吹き出してしまった。



「小鳥ちゃん、こんな事するんだよ。こんな彼氏で良いの?」

「あ、はい!」

「い、良いのかよ」

「仕方ないじゃ無いですか」

「し、仕方無いって」



(さて、と)


 各々が鞄を手に『外回りに出掛けるから後はよろしく。』と議員控室のドアを閉めた。静けさが広がる空間に取り残された2人は顔を見合わせた。



「み、皆さん気が付いていらっしゃったんですね」

「そうみたいだな」

「これからどうすれば」

「どうって、何がだよ」

「どんな顔をして仕事をすれば良いんでしょうか」

「堂々としてりゃ良いんだよ」

「そうです、か」



 近江隆之介は照れくさそうに鼻先をポリポリと掻いた。



「で、いつにする?」

「何がですか?」

「おまえんち、挨拶に行くんだろ」

「だろって、他人事みたいに!」



 小鳥が近江隆之介の胸を叩こうと手を振り上げた瞬間、それを止めた手がぎゅっと背中を抱き寄せ、唇が・・・・重なって・・・、とそこで扉がガチャ!と勢いよく開いた。弾け飛ぶように離れる2人。そこに仁王立ちしていたのは久我今日子だった。



「あんたたち、職場で淫らな事はしない!」

「あ、げ」

「ご。」

「そういう事はお家でして頂戴、分かったわね!」

「お、おう」



 久我今日子は壁に掛けられた日めくりカレンダーをペラペラと捲ると真っ赤なネイルでそれを突き刺した。薄い紙を10日分貫くような勢いだった。



「隆之介、小鳥ちゃん!」

「おう」「はい」

「定例議会翌日は大安吉日!その日にご挨拶に行ってらっしゃい!」

「マジか」



 9月定例議会は今週の金曜日。

 小鳥は『土曜日、紹介したい人が居るから。』と津幡町の実家に電話を掛けた。父親は無言になり、母親は相手が金沢市議会議員秘書と聞くや否や大喜びをした。2人が同居している事は伏せておいた。


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