カポカポと焦茶のローファーの踵を鳴らした小鳥は沈んだ面持ちで金沢市役所職員玄関のインターフォンを押した。眠そうな警備員の声、ガチャと鍵が開く。ネームタグを提示、入庁時間と氏名をバインダーの一覧表に記入した。エレベーターは動いて居ない。
7階までの階段を、一歩づつゆっくりと上った。
昨夜、無言でベッドに滑り込んだ近江隆之介の冷ややかな背中が頭から離れず、熟睡出来なかった。今朝は隣の303号室の玄関ドアが閉まる音で目が覚めた。
(顔、合わせ辛いな)
小鳥は物音を立てないように気を遣いながら身支度をし、いつもより2時間も早く出勤した。そっと下ろすドアノブ、ゆっくりと締めるディンプルキー。
靴底に感じるザリザリとした外廊下の質感が今の気持ちを表していた。
「なんであんな事、言っちゃったんだろ」
木の質感とリネンのファブリックで統一された小鳥の部屋。その壁際に置かれたアイアン調のベッドは異質な存在だ。
これまで知らなかった近江隆之介の暮らしが自己主張しているような気がした。打ち消そうとしても思い浮かべてしまう過去の女性の存在。それはどんな女性で近江隆之介はどんな言葉を掛けていたのだろう。
意味の無い嫉妬心。
実際、そのベッドで誰かとセックスしたのかと尋ねた瞬間、近江隆之介の身体が強張ったのを感じた。それが普通の事なのだと理解していてもショックだった。我慢できなかった。
責めるような口調に返された言葉。
『お前、処女じゃないだろ』
お互いさま。けれど実際、そう口に出して言われると心臓が鷲掴みにされ頭を左右に強く揺す振られたような気がした。いっそ近江隆之介が初めての人だったら良かったのに。そんな事、今更言ってもしょうがない。
「ふぅ」
ゴミを回収するスタッフと廊下ですれ違う。軽く会釈をして議員控室のドアノブに手を掛けた。施錠されていない扉は重くギイと音を立てた。やるせ無さから逃るには丁度良い。給湯室の鏡には少しやつれた目元が写っていた。
(眼鏡に掛け替えようかな)
それにしても、このままボンヤリと開庁時間を待つのも勿体無い。機械的な動きでポットの蓋を開けて水道のハンドルを上げる。水はまるで小鳥の後悔の様に流れ出し、やがてポットから溢れ出ていた。
「おま、溢れてんじゃん」
キュッ
背後から伸びた手が水道のハンドルを下げ、グリーンウッドの香りが小鳥を抱き締めた。深い紺色のスーツから白にグレーの細かいストライプのシャツの袖口がのぞいている。
「近江さん」
「おまえ、起きたらいねぇし」
「だって」
小鳥が振り返ろうとしてもその手は力を緩めず、耳元に近江隆之介の荒い息遣いを感じた。きっと自転車で桜坂を降り、全速力で鱗町の交差点を駆け抜けて来たのだろう。
近い。何度こうして抱き締められただろう。けれどその度に胸の鼓動が弾んで鼓膜の中がボワッとなる。血脈を感じる。
「ごめん、喧嘩する気はなかった」
「喧嘩、とか」
「ごめん、大人げなかった」
近江隆之介の謝罪の言葉は、昨夜までのムカムカやイライラ、後味の悪い後悔を押し退け、喉がきゅっと詰まって鼻の中がツンとした。気が付くと頬に一筋の涙が流れ、顎を伝ってシンクに落ちた。
「ごめん」
「私も、ごめんなさい」
「ホント、悪かった」
「うん」
小鳥がコクリと頷くと、近江隆之介はその背中の向きをクルリと変えて厚みのある胸に抱き締めた。それは息が苦しくなるほどに力強く、左の鼓膜にドクドクと近江隆之介の心臓の音を感じた。
「小鳥、今夜、上書きさせて」
「は?」
「あのベッドのデータ更新」
「データ更新?」
ブーブーブー
その時、近江隆之介のスーツの胸ポケットの中で携帯電話が震えた。
「ちょ、ごめん」
『隆之介!今、どこにいるの!』
「あ、あ!」
『あ、じゃないわよ!色ボケするなんて10年早いわ!』
携帯電話の向こうでギャイギャイと怒鳴っているのは久我今日子。今朝は額の議員自宅まで迎えに行くスケジュールだった。それをすっかり失念していた近江隆之介は青ざめた。
「今夜、早く帰るから!」
「うん。いってらっしゃい」
「じゃあな!」
踵を返す。慌ただしく議員控室の扉が閉まった。
(上書き?データ更新、ベッドの、データ更新)
近江隆之介の言葉は抽象的でそれが正解が如何かは定かではないが、今夜は
小鳥は布巾でポット側面の水気を拭き取り、コンセントをカチリと差した。沸騰の赤いランプが点灯する。
(そ、それって、とうとう、
小鳥は息を胸いっぱいに吸い込んで思わず咽せた。