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第33話 嫉妬のち初めての喧嘩

 久我議員に呼び付けられた近江隆之介の帰宅は遅かった。リビングテーブルの上にはラップが掛けられた白い皿に青々としたピーマン、豚こま肉の青椒肉絲。


『どうぞ食べてください』


 メモ帳にボールペンを走らせたまでは良いが、近江隆之介がリビングの明かりを付ければ目も覚めるだろうと起きて帰りを待つ事にした。そして、こんな暇な時間があると宜しくない事ばかりが頭を過ぎる。



(ペアルックの女の人が、あのベッドに寝ていたのか)



 インダストリアルなベッドを眺め、そのマットレスの上で近江隆之介が見知らぬ女性と行為に耽る姿を想像し、胸のモヤモヤが大幅増量してしまった。



(だって、35歳でしょ。冷酷で女性を取っ替え引っ替えしてた訳でしょ)



 庁舎内で耳にした印象と、今の近江隆之介の印象があまりにもかけ離れ過ぎていてううむ、と唸ってしまった。



(じゃぁ、その女の人にもパンツ被って見せたりしたの!?)



 自分しか知らない素の近江隆之介。いや、そんな筈は無い。35歳男性。当然、恋人、結婚を考えた女性が居てもおかしくない。一晩限りの付き合いだって有るかも知れない。実際、自分自身も近江隆之介にされた訳で、その可能性は高い。



(そ、そうだよ!健康な肉体には正常な性欲が!これが普通!)



 そう言い聞かせたものの胸のモヤモヤは募る一方だ。 


バタン 


 外で自動車の扉が閉まる音がした。飛び上がった小鳥は黒いクロックスを突っかけて玄関ドアを開け、外廊下の手すりから玄関エントランスを覗き込んだ。いつの間にか雨が降っていた。傘を忘れた近江隆之介が、タクシーで帰って来た。


 小鳥は姿見でルームウェアの皺を伸ばすと跳ねた髪の毛を撫で付けた。ガチャガチャと鍵が回る音。玄関に飛び出したい欲求を抑え、ベッドに澄ました顔で腰掛けた。



「お、起きてたのか」

「あ、うん。近江さん、帰って来たら目が覚めるかと思って」

「そか、すまん」



 近江隆之介の手には白いコンビニエンスストアの袋がぶら下がっていた。そのシルエットからは弁当である事が推測された。



「あ」

「お、何。なんか作ってくれたの!?」

「え、いや。これは」



 小鳥が必死で白い皿を隠そうとしたがその腕は呆気なく広げられ、ラップされた青椒肉絲が『ヤァ。』と顔を覗かせた。その脇には、『どうぞ食べてください』のメモ。



「うお。マジか」



 小鳥の焦った頬に、近江隆之介がちゅっと軽いキスをした。



「な、なななななな」

「マジか、感動したわ、マジで」

「そ、そうですか」

「弁当、明日の昼に食うわ。冷蔵庫入れといて、シャワーするし」

「は、はい」



 近江隆之介は着替えを持つと洗面所に向かった。ガラガラガラガラとうがいの音。バスルームの扉がギィ、パタンと閉まる。



「こ、これが。ど、同居という事か」



 勤務先でも近江隆之介、帰宅しても近江隆之介が居る生活。24時間、コンビニエンスストア状態、いつでも開店中。小鳥の胸はドクンドクンと跳ね上がった。

 そしてふと見ると、白い袋の中に小さな茶色い紙袋。触ると軽い、四角い、ちょっと硬い、箱、かな。


(いやいやいや。お互いプライベートの一線は超えちゃ駄目)


 それも一緒に冷蔵庫に仕舞い、ドアを閉めた。


チーン

 電子レンジの中で青椒肉絲が湯気をあげ、小鳥は近江隆之介の前に黒い箸を置いた。流石に小鳥模様、短い箸では食べ難いだろうと、百貨店で買って来た。



「何、この箸、どした」

「か、買って来ました。ピーマンと豚肉のに!」

「ふぅん、ついで、ねぇ」

「なんですか、その顔」

「サンキュ」

「いえ」



プシュ

 2人でハイボールのプルタブを開けごくごくと飲んだが、小鳥の胸はやはりモヤモヤしていた。このモヤモヤを晴らすにはどうしたら良いのか。



「なんか言いたそうじゃね?」

「そうですか?」

「うん、そんな顔、してる」



 駄目だ。もう、全身からモヤモヤが滲み出しそうだ。ここは直球で尋ねるべきなのか、いや、直球ってどの辺りが直球なのか範囲が微妙だ。



「これ、うめぇ」

「あ、味付け濃くないですか」

「んー、そうだな。ちょい濃いめかな」

「今度は薄味にします」

「すんません、正直で」

「その方が助かります」



 小鳥は缶を両手で持ち、チビチビと口を付けた。舌先にヒリヒリと刺激を感じる。アルコールが染みる。土曜日の晩、吸い上げられた時に傷が付いたのかも知れない。



(は、激しすぎ)

「何、もう酔ったのか。真っ赤だぞ」

「つ、疲れたのかなぁ」

「無理すんなよ」

「あ、はい」



ううむ。

 やはりモヤモヤが止まらない。近江隆之介が『ごっつおさん。』と手のひらを合わせ、キッチンに立ち皿を洗っている。泡立つ食器用洗剤のハーバルミントの香り、流れる水、背中。抱擁妖怪の気持ちがほんの少し分かった。


「うおっ、な、何!?」



 気が付くと小鳥は近江隆之介の背中に顔を埋めて腕を腹に回していた。



「な、何」

「近江さん」

「お、おう。もう洗い終わったから離れて」

「やだ」

「やだ、て。このまんまじゃ顔、見えねぇし」



 腕を振り解かれそうになった小鳥は握った手に力を込め、ぎゅっとその身体を抱き締めた。近江隆之介の手はビシャビシャ、下腹部に当たったシンクの縁から、ルームウエアの上半身の裾に水気が滲む。ジワリと気持ちが悪い。



「ちょ、冷てぇし」

「近江さん」

「何、500円徴収するぞ」



一呼吸。



「近江さん、あのベッドで他の人としましたか」

「は?」

「セックス、したんですか」

「あ、と」


 近江隆之介の身体が強張るのが二の腕から伝わった。モヤモヤは少し解消したが、今度はムカムカが顔を覗かせた。


 近江隆之介の喉仏がごくりと上下した。



「やっぱり、してますよね」



 小鳥は腕を解くとペタペタと歩いて猫の額のようなリビングの床にペタンと座り込んだ。その瞼はフローリングの床を見つめて表情は分からない。



「こ、小鳥」



 近江隆之介はキッチンペーパーで手とシンク周りの水気を拭き取り、濡れたルームウェアの裾を摘みながらその向かいに座った。少々、困り顔である。



「こ、小鳥。その、どした」

「何だかモヤモヤするんです」

「あぁ、この前も言ってたな」

「ペアルック」



 一瞬、首を傾げる、近江隆之介。はっと表情が閃いた。


「あ、あーーーーそれは」



 半ば怒り気味の小鳥は立ち上がった。


 小鳥は続いて近江隆之介のベッドを指差した。



ベッドでセックスしたんですよね」

「誰とだよ」

「し、知りません!」

「そんなん」



ぎしっ

 近江隆之介は頸をポリポリと掻きながら、自分のベッドに腰掛けた。



「はぁ、何なんだよ」



 立ち上がり冷蔵庫の扉を開ける。白いコンビニエンスストアの袋の中の茶色い紙の小袋を取り出した。



「冷てぇ、入れんなよ」

「それ」



 近江隆之介は袋に指を入れるとガサガサとそれを取り出した。超うすうすと表示された長方形、赤いコンドームの小箱だった。



「買って来た」

「は、はい」



 小鳥はリビングテーブルの上を凝視した。



「これまでも使えるように買ってあったんですよね!」

「そりゃ。男のたしなみだろ」

「女の人、連れ込んでいたって聞きました」

「35歳にもなりゃあるだろ、童貞な訳あるかよ」

「そ、そうですけど」




 あぁ、やっぱりそうだよね。小鳥も頭の中では理解していた。未婚、子どもを望まない深い関係になればコンドームは必需品だ。



(でも、何だか嫌!)


ベッドの上で胡座を組んだ近江隆之介は鋭い視線で小鳥の目を見た。



「おまえだって男、いたろ」

「え」

「処女じゃねぇだろ」

「え。な、んで」

「前、うち来た時、酔っ払って言ってたぞ」


「え」

「どっちもどっちだろ」

「だけど」

「悪ぃ、俺、寝るわ」



 そう言い残した近江隆之介は洗面所に向かった。水道から流れる水音。歯磨き粉の蓋が開く音。


「え、と」


 リビングテーブルには少し汗をかいた缶のハイボールが二本。その底に輪を作っている。



「お、おやすみなさい」



 小鳥は力無く呟くと、ベッドの羽毛布団にもそもそと潜り込んだ。モヤモヤもムカムカも治ったが、今度は後悔の念が押し寄せて来た。

 トイレの水が流れる音。しばらくしてリビングのシーリングライトが消えた。隣のベッドに人の気配が滑り込む。近いのに遠い、小鳥は背中を海老のように丸めた。


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