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第30話 初めての♡デート

 柔らかな日差しの中、いつものように静かな朝が訪れる。


今日は土曜日。


 目覚ましアラームもなくゆっくりと自然のリズムで起床。トーストと目玉焼き、濃いめのアッサム紅茶でミルクティーを飲みながらぼんやりとすごす筈が、とんでもない騒音で目が覚めた。



(近江隆之介、こんなにいびきが凄いとは)



 地響きかと思うようないびき、ふごっつ。

ふごじゃねぇよ、と思いつつベッドから起き上がった小鳥は洗面所で顔を洗い、歯を磨き、コンタクトレンズを右、左と入れた。クリアな視界には金曜日の朝とはまるで違う、全く別の異空間が広がっていた。

 ヘソを出しながら片膝を立て両腕は万歳、豪勢ないびきをかいているのは、付き合いたてホヤホヤの恋人。小鳥は今、そのホヤホヤを目前に呆然と立ち尽くしていた。



(こ、これからどうすれば)



 とりあえず、朝ごはん。冷凍庫から角切り6枚の食パンを二枚、冷蔵庫から卵を二個、ハムもあったな、ハムエッグにしよう。アッサムの茶葉をティーポットに一杯、二杯、濃いめに。食パンをトースターに放り込みタイマーをセット。フライパンを取り出してオリーブオイルを引き、ガスコンロに点火。

くっついたハムをベロベロと剥がしていると抱擁妖怪が近付いてきた。朝食の準備をしている音で目が覚めたようだ。ガスコンロの火を止める。


 背中に感じる人の気配、腹の前で握られた両手。出たな、抱擁妖怪。



「こっとり〜こっとり〜」

「また、その歌ですか」

「おはよう」

「オハヨウゴザイマス」

「何、その機械的なおはよう、冷たいなぁ」

「近江さんは寝起きでよくそんなにご機嫌ですね」

「別なトコロもご機嫌になっちゃったりして」

「顔、洗って来て下さい!」

「へいへい」



 自分の部屋にもう一人増えたこの違和感。



が洗面所で顔を洗っている)



 落ち着かない。近江隆之介が同じ部屋に四六時中一緒に居るとか、オナラも出来ないじゃない!落ち着かない、気が休まらない。


グゥ


 まぁ、とりあえず、ハムエッグ。ハムはもう二枚必要だな。うん。


近江隆之介がもしゃもしゃとパン屑をこぼしながらトーストを齧っている。

お腹が減っていたらしく、これで三枚目だ。ミルクティーをズズズと啜る。



「なぁ」

「ゴックン飲み込んでから話をして下さい」

「ゴックン」

「別にそれ、言わなくて良いです」


「今日、無印行こうぜ」

「無印良品?」

「良いじゃん、俺の衣装ケース欲しいし」



 なるほど。近江隆之介が指差す先には、インナーや靴下、部屋着が山と盛られている。



「どうやって衣装ケース運ぶんですか」

「タクシー」

「金銭感覚おかしいですよ」

「あ、昨日のタクシー代」



 スーツのポケットから財布を取り出し、千円札を一枚小鳥に手渡した。



 話し合った結果、バスで金沢駅まで出て無印良品で買い物。帰りは荷物も増えるので結局、マンションまでタクシー片道1,500円。



「Amazonで買えば良いじゃ無いですか」

「届くの明後日か明明後日だろ、受け取りも面倒」

「で、でも」

「ケチケチすんなよ。初めてのデートじゃん」

「デート、ですか」


「ご馳走さん、はぁ、食った食った」

「お、お粗末さまでした」



 そして小鳥が皿洗いをしていると、再び抱擁妖怪が近付いて来た。背中に感じる息遣い。腹の前で握りしめる拳。まぁ、いきなり抱き付かれるよりは良い。


(これは許容範囲)


 と、泡だらけのスポンジを水で洗い流しつつ目線を下に落とすと、抱擁妖怪の握られていた拳が静々と開かれ、ジリジリと腕が小鳥の胸に向かい上がり始めた。



「近江さん」

「何」

「抱き付いたら1回、500円ですよ」



 抱擁妖怪はスーツのポケットの財布から五千円札を取り出した。



「10回分」

「・・・・」


 着替えは洗面所で済ませた。狭苦しい場所でスカートやワンピースも無かろう、しかも行き先はホームセンター、小鳥はシンプルな紺色の開襟綿シャツとジーンズに着替えた。近江隆之介はいきなり小鳥の前でカットソーのパーカーを脱ぎだし、慌てふためく小鳥に向かってニヤリと笑った。



「俺ら、もうそういう仲じゃん。素っ裸も見たし、もう良いじゃん」

「私は酔っていたので覚えていません!」

「起きたら真っ裸だったろ?」

「そ、そうですけれど!」



 はじまりが始まりなだけにぐうの音も出ない。近江隆之介は紺色のTシャツにジーンズ、何気にぺ、ペアルック。サンダルを履くその背中を見ながら小鳥の頬が緩んで赤らむ。今のこの状況は満更でも無い。



「ほら、行くぞ。モタモタすんな」

「は、はい!」



 何故にそこまで上から目線で自分は敬語、解せぬ。



「こっとり〜こっとり〜」

「またその歌ですか」

「気に入ってるんだよ」

「周りの目とか気にならないんですか?」

「え。馬鹿っプルで良いじゃん」

「な・・・!」

「な?」



 無駄に爽やかな笑顔、冷酷な近江隆之介は何処へやら、だ。バス停に並んで立つと赤信号が2回切り替わった頃にバスが到着した。


 広小路の右折レーンでは身体が左に持って行かれる。相変わらずこのバス会社の運転は荒い。ふと横を向くと近江隆之介がニヤニヤしている、またろくでもない事を言い出すに決まっている。



「ラッキー」

「何がラッキーなんですか」

「小鳥の胸、触っちゃった」

「な」



 ハッと気がつくと腕組みをした左手が、遠心力で左に傾いた小鳥の胸にちょこんと触れている。そう、触れている、ほんの少しだけ触れている。



「くだらない」

「へっへっ」



 小学生か。


 犀川大橋の坂を下り、バスは二人を乗せて片町の金劇パシオンビルの前を通り過ぎた。そう、このビル前のタクシー乗り場で二人の関係は始まったのだ。

小鳥がそれを何となく感慨深く眺めていると、近江隆之介も身を乗り出して人の流れを見た。



「ここで俺が小鳥をお持ち帰りしたんだよなぁ」

「ここで私が飛び跳ねる近江さんをタクシーに押し込んだんですよ」

「え。俺、飛び跳ねてた?」

「はい、手ぇ繋いじゃう?とか言いながら飛び跳ねてました」

「マジか」

「マジです」



 見慣れた香林坊の人混み、静かな南町、雑多な武蔵ヶ辻、幾つかのバス停に停まっては進み、進んでは停まりながら二人はゆらり揺られて金沢駅へと向かった。



「俺、無印無印良品でもうひとつ買いたいんだよなぁ」

「何、買うんですか」

「ふっふっふっ」

「気味が悪いですよ、その顔、やめて下さい」

「小鳥とお揃いのルームウェア欲しいなぁって」

「ルームウェア」

「うん」

「ルームウェア。お揃いの」

「うん」

「近江さん、いつまでうちに居るつもりなんですか?」


「近江さん、いつまでうちに居るつもりなんですか?」

「え、いつって?」

「何でそこで疑問形なんですか」

「ま、それは置いといて。降りるぞ」

「置いておくって、近江さん!」



プシュー

=金沢駅、金沢駅、終点金沢駅です=



「はぁ、混んでんなぁ」

「土曜日の昼ですから」

「そうだよなぁ。ま、メシ、食おうぜ」



 乗り継ぎ路線バスのアナウンス。バス待ちの行列。観光客のキャリーバッグがガラゴロと音を立てる。タクシープールの黒と、白、開閉する後部座席のドア。螺旋を描いた芸妓の鼓をモチーフにした高さ10メートル以上はあると思われる金沢駅東側、兼六園口のシンボル、鼓門を潜り抜けた。



「何食べるんですか」

「8番ラーメン」

「混んでいませんか?」



 金沢駅、もてなしドームのスチール製の編笠の下、人の波に逆らいながら小鳥と近江隆之介は”あんと”と名付けられた観光客向けの土産物物産館に立ち寄った。中には石川県内の”美味いもん”銘店がずらりと並ぶ。そして入店待ちの行列もずらりと並んでいた。



「ゴーゴーカレーにしませんか、空いてますよ?」

「俺、カレー胃にもたれるんだよな」

「年寄りですか」

「年寄りだよ、敬えよ」

「ゴーゴーカレー」

「8番ラーメン」



 両者、譲り合う事なく何となく二人は握り拳を作って構えていた。



「最初はグー、じゃんけんポン!」「ポン!」

「あ、ずるっ!」

「政治は駆け引きが必要なんです」

「何、言ってるんですか!」



 後出しジャンケンで近江隆之介の策略にハマった小鳥はラーメンを啜った。


 ラーメン丼から立ち昇る湯気、熱々のキャベツともやし、具沢山のスープ。

ちゅるちゅると口元で跳ねるちぢれ麺。



「はぁ、美味かった、食ったくった」

「・・・そうですね」


「何、むくれてるんだよ」

「別に、今度はゴーゴーカレーですよ」

「胃薬飲んでから来るわ」

「ジジィ」

「ジジィです」



 次は近江隆之介希望の無印良品。駅前の大型商業施設、フォーラスのエスカレーターの手すりに掴まった。独特のアロマオイルの匂い。



「これ、よくね?」

「あぁ、パイル生地、秋口まで着れますね」

「手触り最高じゃん」

「柔軟剤で洗うともっと気持ち良いですよ」

「マジか、頼むわ」

「はい」

(はい!?何、自然にはい!?いつまで、はい!?)



 結局、『お揃いは必要ない。』と小鳥は言い張ったが、最終的には会計レジの行列に並び、ベージュとグレーの半袖短パンのルームウエアをカウンターに置いた。



「え、自分で買います!」



 小鳥が自分の物は自分で買うとショルダーバッグに手を伸ばしたが、次の瞬間にはPayPay!と可愛らしい掛け声と共にレジスタッフの満面の笑み、小鳥の手に茶色いペーパーバッグが手渡された。



「あ、ありがとうございます」

「ペアルックって良いよな!」

「はぁ」

「ほれ。手、繋ごうぜ」



 そう言って手のひらを差し出した近江隆之介は満面の笑顔だが、小鳥は少し違和感を感じた。


(それって前にもペアルックした人が居るって事だよね)

「ん、どした?」

「え、いえ、何でもないです」

(そうだよなぁ、35歳なら付き合った人も居るよなぁ)



 小鳥は手にぶら下げた茶色いペーパーバッグを眺めながら、ラーメンが胃で消化不良を起こした様な気がした。


 小鳥は茶色のペーパーバッグを右手に、近江隆之介は黒いタクシーのトランクから3個の衣装ケースを受け取るとエレベーターのボタンを押した。4階、3階降りてくる黄色いランプ。小鳥はその横顔をまじまじと見た。



「近江さん」

「ほい」

「いつまでうちに居るつもりなんですか?」

「んむむむむ」

「このまま居座るつもりですか」

「そうとも言う」

「テレビ、見れませんよ」

「え、問題、そこ?」



 衣装ケースを抱える手が痺れるからと、上から目線の物言いで玄関ドアの鍵を小鳥に開けさせ、衣装ケースをぞんざいに置いた近江隆之介は自分のベッドの上で大の字になった。小鳥は玄関先で脱ぎ散らかしたサンダルを揃え、その姿を上から眺める。



「近江さん」

「ほい」

「狭いと思いませんか」

「だよなぁ」



 小鳥はリビングテーブルの上に積まれた衣装ケースを跨ぎ、ベランダの窓を開けた。風がカーテンを揺らし、室内のこもった空気が外へと逃げて行く。



「このまま居座るつもりですか」

「そうとも言う」

「床に寝転がれませんよ」

「え、問題、そこ?」



 小鳥は大きなため息を吐くとリビングテーブルを跨ぎ、キッチンへと向かった。冷蔵庫の扉を開けると冷気が汗ばんだ首筋を撫でた。生き返る。けれど振り向けば混沌とした空間が広がる。ため息が一つ。食器棚からグラスを二つ取り出し、キンキンに冷えた麦茶をトプトプと注いだ。


 リビングテーブルに置かれた衣装ケースを猫の額のような狭いフローリングの床に移動させ、水滴が垂れるグラスを置いた。



「はい、どうぞ」

「サンキュ」



 無言でごくごくと飲み干す。



「301号室、如何するんですか」

「取り敢えず火災保険、申請したわ」

「じゃぁ、それで引っ越せますね」

「ここ、気に入ってるんだけどなぁ、市役所から近いし、家賃も安いし」

「まぁ、それはそうだと思いますが」



 一瞬、考え込んだ小鳥だったがはっと我にかえり、首を横に振った。



「何、壊れたん」

「何がですか」

「首、吹っ飛びそうだぞ」

「壊れてませ。」

「俺と居るのがそんなに嫌な訳?」

「や!それとこれとは別問題だと思いませんか?」

「そうとも言う」



 近江隆之介はずいっと手を差し出すとハサミを寄越せと言い、おもむろに無印良品のペーパーバッグをバリバリと開けるとお揃いのルームウェアのプライスタグをチョキチョキと切り始めた。



「まぁ、これでも着ておいおい考えるわ」

「おいおいって」

「9月の定例議会も始まるし、引っ越しどころじゃねぇし」

「はぁ」

「まぁ、おまえんちが隣で助かったわ」


(さて、と)


 近江隆之介は胡座を崩して衣装ケースをぐるぐる巻きにしている透明テープを剥がし始めた。



「手伝いますか?」

「おう、Tシャツとか畳んで」

「はい」



 山積みの衣類を手際よく畳み、手渡す、詰め込む、なかなかのファインプレーで片付けは粛々と行われた。が、突然、小鳥の指の動きが止まった。



「どした」

「あ、あの。これ、えと」

「あぁ」



 近江隆之介はそれを掴むと頭に被って見せた。如何やら”うさぎ”のつもりらしい。それは黒にグレーのストライプのトランクス、綿100%なかなか良い手触りだ。



「ピョーンピョン。ピョーンピョン」

「ば、馬鹿ですか!」

「おまえ、ここに色々移動させる時、俺のパンツの匂い嗅いでたし」

「えっ、う、えっ!」

「隆之介、恥ずかしくてキュン♡ってなっちゃった」

「非常事態ですから、やむを得ず」

「キュン♡」

「不可抗力です!」



 小鳥の顔は真っ赤になり、折角畳んで積み上げた靴下の山をむんずと握ると、胸の前でハートマークを作って見せる近江隆之介に向かってぶち撒けた。



「お、おま。努力を無駄にするなよ」

「近江さんがふざけるからです!」

「ピョーンピョン」

「いい加減、パンツ、脱いで下さい!」

「え、良いの?」



 その指はジーンズのジッパーを下ろし始めた。



「そのパンツじゃありません!」



 賑やかな302号室。日暮れの西日がベランダに長い影を作り、洗濯物の干し竿には小鳥と近江隆之介のTシャツとふたり分のバスタオルがはためいていた。

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