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第29話 ちょ、まじやべぇって!

 今日は田辺議員も藤野議員も外回り、久我議員は街頭演説で百貨店前のゼブラゾーンを占拠している。

 例の重要機密作業は一旦休業。小鳥は急な来客の対応に追われ、今、まさに湯飲み茶碗を洗い、茶托を食器棚に片付けたところだ。昼休憩まであと30分、突然、議員控室の電話が鳴り響いた。



「はい、自主党議員控室、事務の高梨です」



 電話口の向こうは何やら賑やかだ。マイク越しの久我議員のハリのある声、沿道の人のざわめき、機械的な鳥の囀り、自動車のエンジン音。屋外、街頭演説、百貨店前の景色が脳裏に閃く。



「もしもし!」

「は、はぁ?近江さん?なんで?」

「おまえ、携帯の電源切ってるのか!?」

「あ、うん。勤務中だし」

「電源入れろ、着信履歴見ろ!」



 どれどれと携帯電話の電源をON、通話着信履歴を見るとマンションの管理会社から10件の着信。どういう事。



「大変だ!」

「何がですか?」

「今すぐマンションに行ってくれ!」

「はい?」

「俺、ねぇちゃんの演説終わったらすぐ行くわ」

「話が見えないんですけど」

「俺の部屋と、お前の部屋、水浸しかもしれねぇんだよ!」

「はぁ!?」

「タクシーで行け、後で金やるから」

「う、うん」



 小鳥は藤野議員に断りを入れ、昼休憩を利用してマンションへと向かった。


 小鳥はタクシーを降り、慌ててエレベーターで3階へと向かった。そこには狸の田辺議員とよく似た背格好、青いスーツに黄色いネクタイと奇抜な出立ちの男性が立っていた。手元には大東建託のバインダー、このマンションの管理会社だ。名刺を手渡される。営業、中田さん。



「あ、302号室の高梨、高梨さまでしょうか」

「はい」

「申し訳ありませんが、お部屋の中、拝見させて頂いても宜しいですか?」

「あ、はい」



 小鳥はショルダーバッグの外ポケットをゴソゴソと漁りながら中田さんの顔を見上げると、かなり焦っている様子だった。



「どうしたんですか?」

「いえ、この真上の401号室の配管工事中に漏水しまして」

「はぁ」

「それが。まぁ、その」



 なかなか歯切れが悪い。

かちゃり

 お昼時という事もあり、室内はむわっと暑かった。



(掃除しておいて良かった)



 窓を開け、カーテンを開いた。日差しの中、見上げた天井や壁紙にシミは無いようだ。


コンコン

「失礼します」


 養生シートと脚立を持った作業員が二人、玄関先でノックした。養生シートを床に敷くと脚立に上り天井を指先で撫で、そして数センチ間隔でコンコンと叩き始めた。天井の蓋を開けて中を懐中電灯で照らしている。次は壁紙。ソファを退かして良いかと断りを入れられ頷く。ベージュのカーペットも捲られ、作業は風呂場、トイレと続いた。中田さんは大変気まずそうに、その作業を眺めている。



「あの、大丈夫、でしょうか」

「少し、お待ちください」

「はぁ」



 室内を一通り確認すると。作業員は中田さんが手にしたバインダーに何やら書き込んで脚立を持ち外廊下へと出ていった。



「高梨さま」

「は、はい」

「点検しました所、こちらのお部屋に異常は無いとの事です」

「あぁ、良かったぁ」

「万が一、明日、明後日、異常がありましたら会社までご連絡下さい」

「はい」

「カビなどが発生した場合、壁紙の張り替えも致します」

「はい」



 小鳥が安堵のため息を吐いていると革靴の音が響いて来た。かなり慌てた様子、近江隆之介だった。


 エレベーターホールから近付いて来る革靴の音は、その姿を見ずとも慌てている様子が窺えた。小鳥の部屋の中にいた管理会社の中田さんが、急いで靴を突っ掛けると外廊下に出て近江隆之介に名刺を渡した。近江隆之介は小鳥の顔を見るや否や、額の汗を拭いながら声を掛けた。



「おま、おまえの部屋は!?」

「大丈夫だった」

「そか、良かった」



 安堵した表情の近江隆之介が革のキーホルダーを鍵穴に差し込んだ途端、足元にジワリと水が浸み出し、管理会社の中田さんは慌てて玄関のドアノブを開けた。



「あ、あぁぁぁ。すみません!」

「ま、まじかよ」



 携帯電話を取り出し管理会社に電話する中田さんと、養生シートを手に、脚立を持った作業員二人組みは呆然と立ち尽くした。それに続く近江隆之介の情けない声。小鳥もスリッポンを履いて301号室をひょいと覗いてみたが、その惨状に声を失った。



「えぇぇ」

「マジかよ、マジかよ」



 近江隆之介は久我議員に、小鳥は藤野議員に断りを入れて半休を取ることになった。


 近江隆之介の部屋は3階の角部屋。向かって右側が302号室、小鳥の部屋。


 301号室は玄関入って右側にトイレやバスルームの水回り、その奥にベッドとパイプハンガーラック、ハンガーには数着のスーツとYシャツ、ネクタイがぶら下がっている。こちらは無事。


 漏水は免れた。酷いのは向かって左側、キッチン、クローゼット、テレビボード、ソファー、リビングテーブル、当然の事フローリングの床は水浸し。ペンダントライトの観葉植物の鉢からは、しばらく水遣りは不要なくらいにポタポタと水が垂れている。そして、天井の滲みは少しずつ広がっている。



「も、申し訳ありません!上階のキッチンの配管工事で不備がありまして!」

「マジか、信じらんねぇ」



 呆然と立ち尽くす、四人の男性。瞬時の判断は小鳥の方が潔かった。



「中田さん、ベッドの掛け布団を持って隣に運んで下さい!」

「と、隣?」

「302号室です!」

「は、はい」

「近江さん、パイプハンガーのそっち側持って、早く!」

「お、おう」



 被害を免れた寝具と数日分の仕事着は小鳥の部屋に運び込まれ、小鳥の指示の下、近江隆之介は枕を抱え、シューズボックスの靴、チェストから普段着やインナー、靴下などを302号室へと移動させた。


「せーの、ヨイショ!」



 ベッドのマットレスは中田さんと近江隆之介が運び出し、インダストリアルテイストなベッドフレームは作業員の二人が302号室に運び込んでくれた。

 小鳥は濡れても大丈夫なシャンプーや洗顔フォーム、ヘアワックスなどの小物類を302号室に引き揚げ、キッチンの配管工事という事で鍋や食器、調味料、歯ブラシなど口に入れるものは健康被害を考慮して燃えないゴミの袋に詰め込んだ。


 テレビや冷蔵庫の大型家電は微妙なので一旦、放置。


 濡れている衣類はクンクンと臭いをかいで確認し、生ゴミ臭い物は燃えるゴミ袋行き。せっせとゴミステーションへと運んだ。



「こ、こんなにあるのかよ」

「意外と、多かったですね」

「はぁ、助かったよ」

「どういたしまして」



 二人は汗だくになった。近江隆之介はネクタイを外し、小鳥は冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を、グラスにトプトプと注いだ。


キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン



「え」

「あ」

「なんで近江さんの荷物がうちの部屋に有るんですか!?」

「知らねーし、小鳥が運べって言ったんだろ!」

「そうですが!」

「だろ!」

「ですよね!」


「て、なんで俺ら喧嘩してんだよ」

「ですよね」



 気を沈めて辺りを見回せば、小鳥のベッドの上には近江隆之介の羽毛の掛け布団、そこにぽふんと置かれた枕。その隣にはベッド。

 リビングの真ん中にはパイプハンガーラックにスーツとYシャツ、臙脂や深緑のネクタイがゆらゆら揺れている。

 キッチンのシンクには濡れたシャンプーやボディーソープにグリーンウッドの匂いがする整髪料。

 玄関先には黒いクロックスとサンダル、焦茶のローファーが一足、黒と焦茶の革靴が一足ずつ。



「ど、どうするんですか、これ」

「ど、どうする」

「とりあえず、せ、整頓、片付けませんか」

「あ、あぁ、そうだな」



 それはもう大仕事、けれど迷っている時間はない。階下の住人の迷惑にならない様に、せめて19:00迄には何とか様にしなければ。

時計の針は、17:30を指していた。


 さて、ここで玄関の入り口に立った二人は302号室の中を見下ろしている。


 向かって右側、キッチンの奥には小鳥のベッドとクローゼット。


 向かって左側、トイレとバスルームの奥に近江隆之介のベッドとパイプハンガー。


 ソファは窓際に追いやられ、リビングの中央にはパイン材の丸いテーブル。テレビは置くスペースが無いので物置きに片付けられた。



「こ、これで寝泊まりは出来ますね」

「テレビが無いのがなぁ」

「狭いんですから、我慢してください!」



 バスルームには近江隆之介のメンズ用シャンプーやボディーソープ。洗面所には髭剃りと小鳥から借りたおろし立ての歯ブラシ、そしてグリーンウッドの匂いの整髪料が並んだ。


 二人の顔は疲労困憊、正常な判断も危うい。


 玄関先には近江隆之介の革靴にサンダル、クロックス、黒い傘。



「あちぃ」

「あ、近江さん、お先にどうぞ」

「え、いいん?」

「どうぞ。着替え、出しておきますね」

「さんきゅ」 


「バスタオルは焦茶のを使って、洗い物は洗濯機に入れて下さい」

「パンツも良いの?」

「もう、何でも良いです。近江さんも入って良いですよ」

「洗濯機とか、軽く死ぬわ」



 近江隆之介がシャワーで汗と疲労感を洗い流し、小鳥がシャワーで羞恥心を無にしている間に近江隆之介は衣類の整理をした。



「いただきます」「いただきます」



 その後、二人でカップラーメンを食べた。歯を磨き、コンタクトを外してそれぞれのベッドに横になる。



「おやすみなさい」「おやすみ」



 即、寝落ち。もう寝相もイビキもあったものでは無い。明日は土曜日、二人は泥に埋もれる様に眠りに落ちた。


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