小鳥が部屋に帰ると玄関ドアに一枚のメモが貼られていた。議員控室にあったメモ用紙なのだろう、製薬会社のロゴが入った愛想の無い白い紙だった。
ドアノブにはコンビニエンスストアの白いポリエチレンの袋に入ったハイボールが二缶。少し温い。
『20:15 ベランダで待つ』
(果たし状ですか、これ)
20:13
冷蔵庫から、近江隆之介と高梨小鳥は一缶目のハイボールを取り出した。小鳥の缶は温かったので、グラスに氷を浮かべてオンザロック。
カラカラカラ
同時にカーテンを開け網戸を引く。ベランダにスリッポン、クロックスを置いた音。
「よぉ」「はい」
昼までの雨も上がり、夜空には星が輝いている。
「あ」
「どした」
「夏の大三角形」
「どれさ」
「あれ、あれ。お寺の屋根の上と、卯辰山、あとその天辺」
「あぁ、あれか」
そして無言。
「飲まねぇの」
「近江さんだって」
「飲もうぜ、折角買って来たんだし」
「う、うん」
プシュ、プルタブを引く。べこんと鳴る凸凹と柔らかいハイボールの缶。カランと乾いた氷の音。
「ほれ。乾杯」
「何に」
「まぁ、色々と?」
「はぁ」
救急車のサイレンが寺町大通りから城南大通りへと下ってゆく。夏らしい、パラリラパラリラと賑やかなオートバイのメロディが遠くから聞こえる。あれは一種の季節の風物詩みたいなものだ。
「近江さん」
「何」
「近江さんと久我議員って不倫関係じゃなかったんですね」
ブハッと吹き出す音がベランダに響いた。
「ま、まだそれ言う?」
「だって。秘書の長野さんたちが話していて」
「あぁ、それな」
「はい」
「身内だから優遇されてるんじゃ無いかって言われるの腹立つから大っぴらにしていないだけだし」
「そうなんですね」
グラスが汗をかき、雫が滴る。足元に一滴。
「あぁ、だからか」
「何がですか?」
「おまえ、いつも久我議員って言う時、こえぇ顔してたし」
「だって。不倫とか、あり得ないし」
「ま、そうだわな」
「はい」
「他の奴に言うなよ」
「はい」
ジーーーーーージジジジ
表の駐車場で一夏を終える蝉が何処かで転がりまわっている。
「なぁ」
「はい」
「好きって事は、付き合ってくれんの?」
(藤野はどうしたよ、藤野は)
「え、と」
「付き合ってくれんの?」
「は、はい」
「男女的な?」
「生々しい表現はやめて下さい!」
「へいへい。お、ちょっと取ってくるわ」
「はい」
二缶目を取りに行くと断りを入れた。冷蔵庫がガチャンと開いてパタンと閉める。プシュ、歩きながらプルタブを開け、ゴクゴクと飲んでいるようだ。こちらに歩いてくる気配がする。
「おまえ、不倫しているかもしれない男に告白したの?」
「もやもやしているの嫌で」
「あぁ、言ってたな」
「二番目でも良いかもなって」
「演歌の世界かよ」
「うーーー」
「俺は大歓迎だけど。おまえ、良いのかよ」
「はい?」
「藤野の事、好きじゃねぇの?」
ブッ
吹き出した後にゴホゴホと咽せる音がした。どうやら中身を溢したらしく慌てて部屋の中に入る。水道から水が流れる音が微かに聞こえた。
プハっと吹いた際にかなり溢したのだろう。水の流れる音の後に、冷蔵庫を開ける音、パタンと扉を閉める音が続いた。
プシュっ
プルタブを開ける音、カラカラと乾いた氷の音がグラスに響く。
ぎしっ
ベランダのアルミサッシの窓枠が軋んだ。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「ん」
「藤野さんって、ど、どうしてそうなるんですか!?」
「いや、見ちゃったし」
「何をですか!」
「け」
「け?」
「ケータイ」
小鳥の中でぐるぐる回る、携帯電話。
あぁ、そうだ。近江隆之介の部屋に落とした白い携帯電話。
「携帯って、携帯電話!?」
「ん」
「ロック解除出来たんですか!?」
「すまん、0601?みたいな?」
「どうやって!?」
「あーーー、それはほれ、議会事務局の職員名簿的、な?」
「す、ストーカー」
「それは否定しません。すんません」
「し、信じらんない!!!!」
「静かにしろよ」
「あ」
チリーーーーーーーーーン
何となく、指を唇の前でぴょこりと立てた。
「で、携帯電話で何を見たんですか?」
「か、壁紙?」
「どんな」
「藤野が笑ってた」
「あ、あぁ」
小鳥が立ち上がった気配、スリッポンが脱げ、転がる。
カタカタ、ジャっ。
肩掛けショルダーバッグから取り出したのだろう、勢いよくジッパーを開ける音がした。非常用間仕切りの隙間から青白い光が漏れ、携帯電話のパスワードを解除したようだった。
「これ」
非常用間仕切りの下、防水加工されたアスファルトの上にずるずると音がして視線を落とすと広報誌の上に何かが乗っている。携帯電話が差し出された。
「それ以外は見ないで下さいね」
「おう」
「見たら絶交ですからね」
「小学生かよ」
画像フォルダから選択された一枚、クソムカつく。
「それですか?」
「あぁ、クソ藤野が笑ってるコレだよ」
「良く見て下さい」
「何」
「藤野さんの肩の向こう側です」
「ちょ、待って。見えねぇ、コンタクト外してくるわ」
近江隆之介が立ち上がった気配、クロックスが転がる音。
バタン。
洗面所の扉の音だろうか、バタン、そして近づく足音。
「で、何処?」
「藤野さんの向かって右の後ろです」
「何」
近江隆之介が息を呑んだ。
「それ、です」
「マジか。俺じゃん」
「そう、です」
一瞬の間。
「何、これ、盗撮?」
「人聞きの悪い事、言わないで下さい。返して下さい」
「お、おう」
非常用間仕切りの下、防水加工されたアスファルトの上、広報誌の上に携帯電話を乗せて返却。
「これ、偶然映っていたんです」
「そ、そか」
動揺が隠せない。
「ちなみにこれが今の壁紙です」
非常用間仕切りの下、防水加工されたアスファルトの上に再び広報誌に乗った携帯電話が差し出された。
「これ」
「デモの日に撮った画像をチェックしていたら、偶然写っていました」
「偶然、多すぎだろ」
「偶然です!」
「狙ったな」
「狙ってません!!!」
「しっ。声、でけえよ」
「あ」
チリーーーーン
とうとうのカミングアウト。
近江隆之介と久我今日子議員との不倫疑惑も晴れ、小鳥の片思いの相手が藤野建議員という誤解も解けた。
久我今日子議員が藤野建議員と密会を繰り返していたのは不貞ではなく、門外不出の資料のコピーを手渡す為だった。
「なんだ」
「何だ、とは何がですか?」
「俺ら、両思いだったんじゃん」
小鳥の頬が恥ずかしさで茹で蛸のように真っ赤になった。この男は小っ恥ずかしい事をペラペラと、どんな顔で口にしているのだろう。
「そ、そうだったんですね」
「まじかぁ」
「はい?」
「最高じゃん」
「はぁ」
「ねぇ」
「何ですか」
「今から
「い!」
ぎしっと近江隆之介の立ち上がる音。怯む小鳥。
「だ、駄目です!」
「え」
「駄目です!おやすみなさい!」
カラカラ、パシッ!
じゃっ!
無情にも網戸が閉まり、窓、そしてカーテンが閉じられ、電気まで消えた。
「おぉい」
室内から響く全てを拒否するかのような声。
「おやすみなさい!」
「おぉい、ことりちゃ〜ん」
近江隆之介はベランダの観葉植物の鉢植えを両手で退かして足場を作った。手摺りをギュッと握る。防火用間仕切りから顔を出し覗いてみたが、302号室の中は暗くて何も見えない。
「おお〜い」
「おやすみなさい!」
「ひ、ひでぇ」
「おやすみなさい!」
ベランダを覗く人影が暗闇にほんのりと映る。
傍目から見ればそれはもう不審者、通報されても良いレベルだった。
小鳥としても近江隆之介と間近で会いたい気持ちはあったが、流石に土石流に押し流される恋愛感情について行けなかった。
「くっ、近江隆之介、これからどうすれば!」
「おお〜い」
頬を赤らめる小鳥の頭上に呑気な近江隆之介の微かな声が響いた。