近江隆之介は久我議員の県外視察に同行してしばらく部屋を留守にしていた。昨夜は外回りと会合の送迎で帰宅は22:00頃。
高梨小鳥とはあのベランダ飲みの夜から、月、火、水、木、としばらく顔を合わせていない。
(小鳥、どうしてるかなぁ。隣、なんだけどなぁ。なんだかなぁ)
レースのカーテンを開けると空は灰色で雨粒が窓に貼り付いていた。雨の日は眠い。昨夜はウィスキーをストレートで飲み、何となく気怠い。
今日のスーツは空と同じグレー、ネクタイは適当に掴んだ紺色に細い深緑のストライプ。靴下は何でも構わない。ポケットに黒い革の財布、ICカード、胸の内ポケットに市役所のネームタグを入れて準備完了。姿見でパーマの流れを整える。
(ま、これで良いか)
襟足が長い。明日にでも刈って来よう。
はぁ。
頑張れ。
この金曜日を乗り切れば二連休。
それでも何やらため息が出る。
(あいつ、もう出たかな)
傘立てから黒い傘を持ち、革のストラップが揺れるディンプルキーを掴む。鍵を開け、黒い革靴で踏み出す。
「う、うおっ!」
そこには高梨小鳥が不機嫌そうな顔で立っていた。今日は淡いグリーンの開襟、半袖、ストンとしたAラインの膝丈までのシンプルなワンピースだった。そしていつもの肩掛けショルダーバッグ。手には赤い傘を持っている。
「ど、どうした」
「待っていました」
「何しに」
「一緒に行きませんか?」
どうした、心境の変化の過程を述べよ。何があった。
「お、おう」
「バスで良いですか?」
「バス、あぁ、バスね、バス」
いつもは斜め横断する寺町大通りだが、生真面目な小鳥は手押しボタン式の横断歩道、そう言えばこの前も小鳥の背中を見ながら横断歩道を渡った。
俺がグイグイ引っ張っている様で、何やら小鳥のペースに巻き込まれている。
バス停で次のバスが来るのを待っている間、小鳥は真っ直ぐ前だけを見て始終無言だ。俺はそんな小鳥の横顔と飛沫を上げながら走る乗用車を交互に見送っていた。
プシュー
ピッ
寺町から片町、香林坊方面に向かうバスはいつも混んでいる。雨が降れば尚の事、小鳥は乗客の隙間をぬって一番前まで進んだ。
「あ、すんません」
俺もそれに続く。相変わらず広小路の交差点での右折は乱暴だ。前後左右に身体を持って行かれる。ふと見れば小鳥は吊り革に掴まっていなかった。ところが仁王立ちしたその脚でびくともしない。さすが運動部。
(体幹スゲェ)
「近江さん、片町で降りますか、香林坊で降りますか?」
「あ、じゃぁ香林坊で」
「はい」
何だ、何なんだ。
ピッ
バスのタラップを降りると目に鮮やかな赤い傘がぱっと開いた。小鳥は俺がバスから降りるのを見届けると、丁度、青信号になった横断歩道を渡る。
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
まただ、また小鳥の背中を追いかけて小走りになっている。
(あいつ、足、速ぇ)
35歳には少しキツい、年配者を少しは気遣ってくれ。煉瓦の歩道、ポプラ並木、四校記念館前をズンズンと歩いてゆく小鳥。
「ちょ、ま。小鳥、ちょっと待て、待て、待て」
澄ました顔で、何ですかとばかりに振り返る。
目付きが、なんだろう、怒りではなく厳しい。
俺、また地雷か何か踏んだのか。
いや、この一週間、まともに顔も見ていないぞ。
「おまえ、足、速すぎ」
「そうですか?」
「一緒に行こうって言ったのに、話もしねぇで、何なんだよ」
「この信号を渡ったら言います」
「何を」
「渡ったら、言います」
金沢市役所の赤っぽい焦茶の煉瓦、黒い枠組みが牢獄みたいだと一部の金沢市民からは不評だ。見上げた7階、一番右端、自主党の部屋にはもう明かりが点いている。
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
機械的な小鳥が囀り始め、中央部分が凹んで水溜りが出来た横断歩道を小鳥の背中を追って早足で渡る。赤いポストに雨粒が滴り落ちている。大きな花時計の長針と短針が、07:55を告げている。
そこでようやく小鳥の黒いローファーが足を止めた。その脇を、一人、二人と市役所職員の傘が正面玄関へと消えて行く。
「近江さん」
「お、おぅ」
何だ、何だ、何だこの気迫は。鬼気迫るものを感じる。
「近江さん、好きです」
「は?」
青天の霹靂。
「私、もやもやするの耐えられないんです」
「すき、すきや?」
「はい」
「牛丼の」
「違います」
近江隆之介は下らない事を口走り、それを見た小鳥は少し呆れた顔をした。
「ここしばらく会えなくて」
「お、おう」
「もやもやして」
「おう」
「耐えられなかったんです」
「はぁ」
「いつも居ないし」
「出張だったからな」
「もやもやするんです!」
あまりの声の大きさに驚いた。行き過ぎる職員もギョッと驚いた顔で振り返った。
赤い傘から滴る雨の雫。鳩が豆鉄砲を食ったような顔付き、あんぐりと口元の緩んだ近江隆之介は残念な
(近江さん、よだれが出そうだな)
黒い傘が大きく左右に揺れ、溜まった雨がびしゃびしゃと流れた。
「ど、どういう事かなぁ」
「はい?」
「俺、何か聞き間違えた?」
「何を、ですか」
「好きって言った?」
「はい。じゃ、そういう事で、失礼します!」
そこまで言うと高梨小鳥は踵を返してまたスタスタと歩き出した。ものすごいスピードで中央広場を通り抜け、正面入り口で赤い傘の雨をバサバサとふるってビニールに入れた。そして仁王立ちする警備員にぺこりと挨拶をすると庁舎内に入って行った。
「ちょ、待てって!」
我に帰った近江隆之介も同じく、正面入り口で黒い傘の雨をふるいビニール袋に入れ、警備員に軽く会釈をしエレベーターホールに向かった。
そこには既に小鳥の姿は無く、エレベーターの黄色い丸いランプは7階で停止していた。近江隆之介は上階へ向かうボタンを連打し、いつもの癖で左上の電光掲示板を仰ぎ見た。
久我今日子出勤。
(姉ちゃん、最近えらい早いな)
ポーン
エレベーターの扉が開き、近江隆之介は迷わず7階のボタンを押した。
(好きって、好き?これって、告白、だよ、な?)
小鳥が自主党議員控え室に入るまでに引き止めなければ、この疑問は昼休憩、タイミングが合わなければ最悪今夜まで解決出来ない。それこそ耐えられない。気が逸る。4階、5階と上昇するエレベーターがいつもよりもノロノロと遅く感じた。
(くっそ、遅ぇんだよ!)
ポーン
議会事務局のカウンターに小鳥の姿は無かった。キョロキョロと見回して紺色のカーペットを辿ると、小鳥が丁度議員控え室の扉の取手に手を掛けたところだった。けれど何やら手間取っている。鍵が掛かって扉が開かないのか、片手でノックしている様だ。胸に抱えた新聞や郵便物がものの見事にバサバサとカーペットの上に散乱した。
(あぁ、意外な所でこいつ、鈍くさいんだよなぁ)
足早に駆け寄って新聞を手に取る。
「ほらよ」
「あ、ごめんなさい。ありがとう」
「で、さっきの」
そう言って郵便物を拾い上げたタイミングで、
ガチャ
議員控え室の扉が開いた。
「あ、小鳥ちゃん、鍵、掛かっていたね、ごめんね」
「おはようございます」
「おや、またまた面白い取り合わせだね」
「お、おはようございます」
(くそ、藤野、朝からムカつく顔だな、おい)
近江隆之介が苦虫をつぶしていると、いつもは何やら味気ない自主党の議員控室にふわりとグリーンウッドの香りと華やかな気配が漂っている。
応接ソファがぎしりと軋み、姿勢も良く、立ち上がった栗色の巻き毛。
「あら、坊やおはよう」
そこには棒ネクタイの黒いシンプルなブラウス、白い膝下丈のマーメイドラインのスカートといった出立ちの久我今日子が腰に手を当て、近江隆之介を見上げ、高梨小鳥に微笑み掛けた。
金沢市役所7階、議会事務局から少し廊下を進んだ一番端の自主党議員控え室に国主党議員、久我今日子が、栗色の巻き毛を掻き上げながら小鳥のスチールデスクに寄り掛かって微笑んでいる。
違和感。
高梨小鳥は思わず廊下に戻って見上げたが、確かに黒地に白、自主党の三文字。また、驚いたのは小鳥だけでは無い。
近江隆之介もあり得ない光景に驚き、思わず口走ってしまった。
「ね、姉ちゃん」
(ねぇちゃん!?)
小鳥は背後を振り返り我が耳を疑った。近江隆之介は久我今日子を見て『姉ちゃん』と呼んだ。
ええと。
ねえちゃん、姉ちゃん。
あ、そうか、親しみを込めて姉ちゃんとか。
(いやいやいや、いや、議員を姉ちゃんとか無いわーー!)
小鳥も近江隆之介も色々と驚きの余り、その場所で身動きが取れずにいた。すると応接ソファに座っていた狸の田辺議員が手招きをした。
「小鳥くん、近江くんも中に入って。藤野くん、鍵」
「はい」
「お、お邪魔、します」
ギィ カチャン
議員控え室の重厚な扉が閉まり、鍵の音が続いた。立ち尽くす二人を尻目に、藤野議員も久我議員も応接ソファに腰を掛けた。
「あ、あの。お茶」
「いや、良いよ。ちょっとこっちに来なさい」
田辺議員が二人に手元にあったコピー用紙を手渡した。これには、見覚えがある。
「これ」
「そうだよ」
それは小鳥が、門外不出の重要なバインダーから付箋が付いた資料を抜き出して連日
近江隆之介とってもこれは見覚えがある。見覚えがあるどころか、蛍光ピンクと蛍光黄色の付箋、黄色の付箋には近江隆之介の癖字で数が書き込まれている。
「姉ちゃん、これ」
「議員でしょ」
アッ!
時既に遅し。小鳥があんぐりと口を開けて近江隆之介の顔と久我今日子の顔を交互に見ていた。そう言われれば、何処となく目元が似ているかも知れない。
(ま、まじかよ)
(あ、姉!姉と弟!きょうだい!)
いや、今はそんな事よりも重大な事が目の前で展開されている。政党が異なる議員三人が、一つのテーブルで同じ資料を囲んでいる、この事実。藤野議員が唇の前で右の人差し指を立てしーっと身振りをして見せた。
「近江くん、小鳥ちゃん。これは誰にも内緒だよね?」
「はい」
「誰かに話したら小鳥くんは解雇」
「は、はい」
「情報を漏らしたら坊やの冬のボーナスは無しよ」
「はい」
「分かっているよね」
二人はコクコクと頷いた。どうやらこれはとびっきりの爆弾らしい。
「お楽しみは9月の定例議会よ」
大輪の薔薇はそう言って微笑んだ。
雨が降っている。半円形のガラスの壁に水滴が付いては流れ、銀色に光る鏡のオブジェにどんよりとした鈍色の雲、市役所が幾つもの角度を見せて映っている。
小鳥は一列にずらりと並んだうさぎの耳の背もたれの椅子に座り、職員出入口をぼんやりと眺めていた。携帯電話を見る、約束の時間ちょうど。
職員玄関のアルミスチールの扉が開き、地下駐車場からの横断歩道、次に21世紀美術館へ渡る横断歩道で左右を確認して近江隆之介が濡れたスーツの肩の雨を手で払いながら自動ドアを潜った。
「よ、お待たせ」
「ううん、さっき来たところ」
「そうか」
小鳥から一つ離れたうさぎの耳に座る。なんとなく無言。思い付いたように同時に あ と言葉を発してしまい、どうぞどうぞと譲り合った。
「にしても、驚いたな」
「どれがですか?」
「どれって、久我が田辺議員と繋がっていたって事だよ」
「しっ、声が大きいですよ」
「ヤベェ?」
「やばいです」
小鳥の視線がじっとりと湿り気を帯びて目が座っている。
「それよりも驚きました」
「な?」
「な、じゃないです」
「は?」
「久我議員が近江さんのお姉さんだとは、びっくりです」
「声、でけえよ」
「不倫じゃなかったんですね」
「信じてたの」
「信じますよ、そりゃ」
近江隆之介の顔がうんざりした面持ちから、晴れやかな表情にコロリと変化した。
「驚いたのはこっちだよ」
「何がですか?」
「何がって」
ニヤニヤと緩んだ口元から、あの事だと察した小鳥は顔を真っ赤にしていきなり椅子から立ち上がった。
「うお、いきなりなんだよ」
「じゃ、じゃあ!時間なので戻ります!」
「まだはえぇじゃん」
「さよなら!」
「え」
「じゃ!」
「おい、小鳥、お〜い小鳥ちゃ〜ん。」
小鳥は振り向きもせず、雨でぐちゃぐちゃになった芝生を横断し、道路で左右安全確認をして市役所の裏出入り口へと走った。
「おお〜い」