閉庁後の薄暗がりの廊下。
照らすダウンライトの近江隆之介はいつもより大人びて見えた。薄い形の良い唇がニヤリと笑みを浮かべている。
「チャイムなったら出て来いよ、待たせやがって」
「ま」
小鳥は思わず肩に掛けた焦茶の革のショルバーバッグの紐をぎゅっと握った。
あんなに近江隆之介と久我今日子の事をグズグズ考えていたのに、こうして近江隆之介の顔を見ただけでそんな事が如何でも良くなる。
(やっぱり、近江さんの事は好きなんだよなぁ)
言い寄られる事は嬉しいけれど、その真意が分からず素直になれない。
「待たせやがってって、何なんですか」
「なんですかって、今夜飲もうぜって言ったろ?」
「私、お返事していません」
「じゃ、今、しろよ」
「飲みません!」
「何で、用事でもあんの?」
「ありません!」
ダウンライトが一個、二個、三個と続く紺色のふかふかしたカーペットを踏みしめながらエレベーターホールへと向かい、議会事務局の事務員に『おつかれさまです。』と挨拶をした。
小鳥は近江隆之介の顔を振り向く事無くエレベーターのボタンを押した。
三、四、五、六、七階。
ポーン
黄色いランプが付き扉が開く。
小鳥はエレベーターに乗り込むと、咄嗟に(閉)のボタンを力強く押した。
「ちょ、待てって!」
慌てた近江隆之介は閉まり掛けた扉に飛び込み、左の革靴がぎゅっと挟まった。
「い、いってぇ。おま、何すんだよ」
「すみません」
「おまえ、わざとやったろ」
「いいえ」
二人きりのエレベーターは下降し、小鳥の気持ちも下り坂だった。
「なぁ。おまえ、なんか怒ってね?」
「いいえ」
「いいえじゃねぇだろ。俺、何かしたか?」
「いいえ」
ポーン
エレベーターの扉が開くと小鳥は脇目も振らずに背筋を伸ばし、市民課のカウンターの前をパンプスの音も速く、裏手出入り口に向かって歩いた。その後ろを近江隆之介が追う。
「なぁ、おまえ、どしたん」
階段を駆け降りた小鳥は少し萎れかけた紫陽花を過ぎ、石畳のカーブに差し掛かった。
「なぁ」
「自転車は良いんですか」
小鳥はくるりと振り向き、くるりと背を向けた。
「アレ持ってると地下道でお前に逃げられるからな、置いてく」
「そうですか」
「俺、何かした?」
(したも何も、不倫してるじゃないっ)
夕日は木立の向こう側に落ちて薄暗い。全体的に淡い青紫のフィルターが掛かった空気の中、綺麗に整えられた頸が前を歩いて行く。規則的に右、左、右と歩むパンプス、速度は変わらずとても速い。少し遅れて革靴が後を追う。
「なぁ、
(よ、呼び捨て!?)
チカチカチカチカ
歩行者用信号が青く点滅し、赤に変わる瞬間、突然の近江隆之介の
響く乗用車のエンジン音。
「おい、ちょ!」
「あッ!」
近江隆之介の右手が小鳥の半袖のブラウスから伸びた右腕をしっかりと掴んだ。肘の内側がしっとりと湿っている。流れ出す白い車のヘッドライトの川、黒い鬱蒼とした木立にヒグラシの鳴く声が響いていた。
カナカナカナカナ
カナカナカナカナ
「危ねぇじゃねぇか!前見ろよ!」
「ごめんなさい」
「ボーっとしてんじゃねぇよ!」
「だって!」
「だって、何」
「急に、名前で呼ぶからびっくりするじゃない!」
「あ、すまん」
ふと、小鳥は近江隆之介に掴まれた腕の熱さに気が付いた。
「手」
「あ?」
「手、放しても大丈夫、です」
「あ、悪ぃ」
「いえ」
近江隆之介はポリポリと襟足を左指で掻きながら、小鳥の華奢でやや少し長い二の腕から手を離した。何となく、気不味い。
ピッポーピッポー
ピッポーピッポー
やがて機械的な小鳥が囀り、歩行者用信号が青になった。無言のまま二人は白い横断歩道の線を踏みながら道路を渡った。レンガの歩道、所々に置かれた白いプランターには黄色いマリーゴールドが揺れている。バス停を通り過ぎると青い看板のコンビニエンスストアが有り、部活動帰りの高校生たちが車止めに腰を掛け、カップラーメンを熱々と啜っている。
「おぅおぅ、
「若人って、近江さんだって若いじゃないですか」
「俺?」
「はい」
「俺、35歳」
「えっ、35歳!?」
不倫はしているけれど結婚はしていないらしい。なので生活感が無く、若々しい。言葉遣いからしても30、31歳くらいだろうと勝手に想像していた。
「小鳥ちゃん、25歳。俺と10歳も違うのよ。はっはっはっ」
「何ですか、その乾いた笑い」
「はっはっはっ」
「って、何で、私の年齢、知っているんですか!」
「俺は小鳥ちゃんの事なら結構知ってるぜ」
「ど、どういう事ですか!?」
「教えなぁい」
ポプラ並木を抜けると鱗町の交差点。歩行者は暗い地下道の階段を降りて大通りを渡らなければならない。空き缶や煙草の吸い殻がポツポツと落ち、カバーの割れたほの暗い蛍光灯がポツポツと続く。コツコツと響く二人の足音。突然、
「何、何照れてんの」
「照れてません!」
「照れてる」
「照れてません!」
幾つかの蛍光灯を過ぎるとほの明るい上の世界の光。
(・・・あ、階段)
「俺、先に登るわ。スカート、気になるんだろ」
「あ、はい」
こんな時もさり気無く気遣ってくれている。やはり近江隆之介は、そんな悪い男には見えない。
暗い階段を十二段上ると、交差点を行き交う自動車の排気ガスの臭いがした。通勤路でこの場所だけはどうしても馴染めない。早くここから離れて澄んだ空気の犀川、桜橋へと向かいたい。その途中、菊川町に差し掛かるともう一軒、緑と白の看板のコンビニエンスストアが有る。駐車場でバックする自動車を待っていると、近江隆之介が此処に寄らないかと提案して来た。
「夕飯、買いてぇんだわ。寄って良い?」
「あ、はい」
ピンポーン
「いらっしゃいませぇ」
近江隆之介はあらかじめ決めていたのか焼肉弁当ととろろ蕎麦、和風サラダをオレンジ色のカゴに入れ、アルコール類の冷蔵コーナーで迷う事なく、ハイボールの缶を四本手に取った。
「おまえ、なんか買わねぇの?」
「今日は、良いです」
(四本、お酒、結構飲むんだな。)
近江隆之介が会計を済ませている間、小鳥はコンビニエンスストアの入り口で、小学校の黒い建物の上空をカラスの群れが金沢城のねぐらへと帰って行く景色をぼんやりと眺めていた。
「すごい数」
いつもは一人でただただ前だけを向いて歩く帰り道。こうして立ち止まって景色を楽しむのもたまには良いかもしれない。
「ほい、お待たせ」
「はい」
「何?」
「近江さん、ご飯って作らないんですか?」
「あぁ、やっぱり面倒臭いな。コンビニ弁当が多いかな」
白い袋をガサガサと持ち上げてニコリと微笑んだ。
(ほ、微笑む近江隆之介、最高なんですけどーーー!)
「そうなんですか」
「小鳥ちゃんは作るっぽいね」
「冷凍の物も多いですけど」
「まぁ、そうなるわなぁ」
夕暮れ時の川面を滑る夜風は心地良く、小鳥はその風で火照る頬を鎮めた。
「あ」
「何」
「いいえ」
ふと気が付くと近江隆之介はさり気無く車道側を歩いている。気遣ってくれたのだろう。優しい。
「土曜日、作ってくれた目玉焼きな」
「は、はい」
「あれ、緊張で何食べてるか分からなかったわ」
「は、い?」
そう話しつつ近江隆之介が顔を覗き込んで来る。距離が近い。
(や、近い近い近い近い!)
覗き込む。少し驚いた顔が可愛い。もう少し顔を近付けてみる。
(よし!ドキドキ吊り橋効果で小鳥を落とす!)
「小鳥、怖ぇ顔してるし」
(何気に名前呼びで親近感アップ!)
「すみません」
「今度また作って」
(こ、今度おぉぉぉぉ!?)
「作って?」
「は、はい」
(おっしゃああああ!)
幅の狭い横断歩道を並んで歩き、少しばかり急な桜坂を登る。近江隆之介が手に持つ白いコンビニエンスストアの袋がガサガサと音を立て、竹林の葉がザワザワと揺れる。ポツポツと川沿いの家に明かりが点り始めた。小鳥の胸のざわつきも止まらない。
ブロロロロ
そんな時、青い軽自動車が坂を登って来た。
「おっと、あぶね!」
それを避けた近江隆之介の肘が小鳥の二の腕にぶつかった。小鳥の心臓は今にも口から飛び出しそうだ。
「あ、わりぃ」
「い、いえ。大丈夫、です」
大丈夫だと答えたもののやはり恥ずかしく、視線を犀川へと逸らす。近江隆之介は我関せずという雰囲気で、何処か楽しげだ。大人の余裕なのだろうか。
「この通り、暗いけど怖くねぇの?」
「特に」
「気ぃつけろよ」
「あ、この脚が有るから大丈夫です」
小鳥は太腿を上げ、パンパンと叩いて見せた。
(いやいやいや、その両脚。)タイトスカートの奥がチラリと見えそうになり、近江隆之介は敢えて冷静を装いながら眉間に皺を寄せ、呆れた様な顔をした。
「それが、危ないの」
「はぁ」
「インハイ出て、脚速ぇかもしれねぇが気ぃ付けな」
「はぁ」
「な?」
「て!何でインターハイ!?」
「だから言ったろ。おまえの事なら結構知ってるって」
「す、ストーカーじゃないですか」
小鳥は思わず身体を右へ右へとずらし、コンクリートの塀すれすれに歩いた。
「ストーカーな訳ねぇだろ」
「だって」
「どっちかと言えば、おまえがリアルストーカーだろ」
「はぁ?」
「
「はぁ」
「部屋の玄関で待ち伏せするし。」
「そ、それは。近江さんが逃げ回るから!」
「おまえ俺の事、好きなんじゃねぇの?」
(藤野が好きなんだよなぁ。)
「ば、ば」
(あんなヘラヘラした奴、何処が良いんだか。)
顔を真っ赤にして足元に視線を落とす小鳥の後頭部。頭皮まで赤い。
(藤野ねぇ、何とかならねぇかなぁ)
近江隆之介の勘違いは何処までも続いた。
薄暗く狭い道、マンション突き当たりのT字路。駐車場のLED白い光が眩しい。
(藤野が何だよ。おっぺけぺーだよ)
「あれ?」
(こうなりゃお隣さんで親密になる作戦、これ、最強だろ)
「近江さん、何処行くんですか?」
「お、おう」
気が付けばマンションのエントランスを素通りし、小鳥がガラスのドアを開いて不思議そうな顔をしている。
(やばいやばい、冷静な大人の余裕、忘れるとこだったわ)
ずらりと並んだ銀色のポストを二人並んで、301号室近江隆之介、302号室高梨小鳥の中を確認する。覗き込むタイミング、姿勢、動き。
(隣人の特権!ミラーリング効果で落とす!)
近江隆之介は動作するタイミングを同時に行うミラーリング、心理効果で小鳥の興味関心を惹く作戦に出た。天然記念物は賢かった。
次に天然記念物は、紳士的振る舞い作戦に出た。エレベーターのボタンを押す、三、二、一階で開く扉。さり気無く、扉が閉まらない様に片手を添える。
先程の近江隆之介の革靴をエレベーターの扉で挟んだ小鳥とは大違いだ。
(な、何、何、これって何!?)
ポーン
外廊下の手摺りの奥にはライトアップされた21世紀美術館がこちらを見ている。夜空は濃く、オレンジ色の帯が綺麗だ。チラチラと星も瞬き始めた。
「あ、おや・・す・・みな?」
部屋の玄関ドアの前まで来ると近江隆之介はコンビニエンスストアの白い袋の中からガサガサと缶のハイボールを二缶取り出した。暑さで少し水滴が付いた、やや温いハイボール。
「ほれ」
「はい?」
「おまえ、ウィスキー好きだろ?」
「え、な、何で!?」
「だから色々知ってるって」
「ストーカー」
「じゃねぇよ」
小鳥の鼻先にそれをグイグイと押し付ける。
「ほれ」
「はぁ」
「家飲みが駄目なんだろ、ベランダ飲みなら良いだろ」
「は?」
「風呂入って、メシ食って」
近江隆之介は顎に握る拳を付けてしばらく考えると、親指、人差し指、中指を折り曲げた。
「おまえ21:00には寝るだろ」
「す、ストーカー」
「じゃねぇよ。それくらい隣なら分かるだろ」
「20:15にベランダ集合な」
「はぁ」
「出て来ねえとピンポン連打するからな」
「え」
「じゃあな、出て来いよ。」
(で、出て来いよって)
強引な近江隆之介に振り回された一日。小鳥にすれば目が回る一日だった。パンプスを脱ぎシーリングライトのスイッチを点け、思わずその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
「な、何なの。これって」
暫く前までの近江隆之介は小鳥を廊下で睨み付け、かと思えばアクシデントの度に救いの手を伸ばし、ついに一昨日の宴会では恋人繋ぎの『付き合わねぇか。』挙句の果てに、301号室の住人で有る事が発覚。
そして今朝からのグイグイ俺様系アプローチ。
久我今日子の『隆之介の事、宜しくね。』発言。
「わ、訳が分からない」
その締めくくりも近江隆之介とのベランダ飲み、喜ぶべきか否か、取り敢えず小鳥は出先からのうがいと手洗いを敢行した。
小鳥は落ち着かなかった。何故ならこのマンションの部屋の間取りは線対称、ソファに座って居ても一枚壁を隔てて背中同士が寄り掛かっている様な気がしてむず痒い。
「な、なんだか緊張する」
近江隆之介は落ち着かなかった。何故ならこのマンションの構造は線対象、風呂の壁の向こう側が小鳥の部屋の風呂。シャワーを浴びていても気になって仕方が無い。ちょっと指先で壁にキュッキュッと触れて、手のひらを置いて、思わず耳をピトッと付けてしまった。当たり前だが何も聞こえない。
「俺は変態か」
壁に掛かった木製の丸い時計の針、長針と短針がこちっと動く。胸がドキドキする。
ベッドの置き時計の秒針がコチコチコチと時間を刻む。胸がドキドキする。
(べ、ベランダで飲むだけじゃない)
(ベランダ飲みだろ、何緊張してんだよ)
20:13
冷蔵庫から、一缶目のハイボールを取り出した。
カラカラカラ
隆之介のミラーリング効果発動、同時にカーテンを開け網戸を引く。
ベランダにスリッポン、クロックスを置いた音。
「よぉ」「はい」
プシュ!
ハイボールの少し柔らかい缶がべこっと鳴る。
ケロケロケロ蛙の鳴き声に、キリギリスがスイーッチョンと続く。黒く塗り潰された犀川に菊川町の住宅の明かりが点々とし、桜橋に白いヘッドライトと赤いテールランプが二台、三台と行き交う。
「なんか蒸すな」
「そうですね」
「何か食ってんの?」
「いえ」
「マジか、つまみ無しで飲めんの?さすがだねぇ」
301号室のベランダからはパリパリと何かを頬張る音。
「どういう意味ですか」
「おまえ、飲み会でガンガン飲んでるじゃん」
「そ、それは皆さんが注いでくれるから」
「飲めねぇ女子は飲まねぇよ」
「そ、そうなんですか」
ガサガサとビニール袋の音がして静かになったかと思うと非常用間仕切りの下からぬっと小皿に入った”アーモンドチーズおかき”が差し出された。
「ほれ、食え。アーモンド食えるか?」
「あ、大丈夫です、ありがとうございます」
ガサガサ ポリポリ
ふた部屋並んで同じハイボールを飲み、同じおかきをポリポリと口に運ぶ。これも近江隆之介のミラーリングテクニック、なかなか姑息である。
「なぁ」
「はい」
「おまえン
「え、あ、はい」
「桜丘高校卒、陸上部でインターハイ優勝、なんの種目かは知らんけど」
「え、な、なんで」
「酒はウィスキーが好き」
「あ、はい」
風が近江隆之介のベランダに置いてある観葉植物の葉を揺らす。階下のベランダからガラスの風鈴がカラカラと響いた。
「何で知ってるんですか?やっぱり、ストーカー」
「おまえがペラペラしゃべったんだぜ」
「い、いつ」
「いつって、
「え、あ、そ」
小鳥の身体の底からカーっと熱が放出された。火照る。それは決してアルコールの所為だけでは無く、あの夜の蕩ける快感と身体中を這い回る舌、指の感触を少しずつ思い出したのだ。
(な、んだか思い、出した、かも)
「あの時さぁ、俺がおまえに言った事、覚えてねぇのか?」
「ど、どんな事、ですか」
「言えるかよ」
「教えてください」
「言わねぇ」
「何なんですか、それ」
近江隆之介は二本目のハイボールを取りに行ったのだろう。人が移動した気配、微かに冷蔵庫の扉を開け、そしてパタンと閉まる音。
「じゃあ、おまえが俺に言ったこと覚えて、ねぇんだろうなぁ」
「私、近江さんに失礼な事、言ったんでしょうか?」
「いや、俺的には、ちょー嬉しかったけどな」
(嬉しい?)
「良く、分かりません」
「思い出して欲しいんだけどなぁ」
プルタブがプシュと音を立てる。うおっ、少し炭酸が飛び散ったらしい。
「覚えてねぇよなぁ、ハァァ」
近江隆之介の大きなため息、それは気の毒になるほどに深い。
どんな夜を過ごしたのだろう。
「なぁ」
「はい」
「覚えてねぇんならさ」
「はい」
「これから俺の事、覚えていってくんない?」
「は、はぁ!?」
こ、これって、告白的な感じだよね。でも、近江隆之介は久我今日子と付き合っている訳で。
(な、ないわーーーそれ、ないわーーー)
「なぁ」
「はい?」
「おまえ、好きなヤツいるんだろ?」
「え、と」
(はいーーーー目の前にいますーーー!)
「は、はい」
「そいつと両思いってやつ?」
「え、いえ。片思いです」
「ふ、ふーん」
「じゃ、じゃあ、近江さんはいるんですか?」
「お、おお」
(おまえだよ、おまえ!隣にいるんだよな、これが!)
「りょ、両思いなんですよね!?」
(久我今日子とめちゃラブなんだもんね(怒))
「や、いやぁ、それはないかなぁ」
「へぇ」
(あ、不倫だから、微妙ですよね(呆))
「はぁ」「はぁ」
「片思いって辛いですよねぇ」
「それな」
ルルルル ルルルル
302号室のテーブルの上。小鳥の携帯電話のタイマーが鳴った。
「おま、タイマー掛けてたの?」
「はい」
「真面目か」
「では」
「おう」
「おやすみなさい」「おやすみ」
網戸を閉め、ふと夜空を見上げると星が見えない。少しばかり肌に纏わり付く湿り気。
(明日、雨、降るのかな)
蒸し蒸しとした空気感はハイボールと近江隆之介と話した所為だろうか、身体が熱い、寝苦しさを感じる。
(エアコンつけよう)
ピッ
カタカタカタと室外機が回り出す。それに合わせるようにカタカタと隣のベランダで室外機が回り出した。
(あ、近江さんもエアコンつけたんだ)
こんなに近いのに遠い。
(もやもやする)
小鳥は眼鏡を外したぼんやりとした世界の中でゴシゴシと歯を磨いた。