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第20話 ふたりでお仕事行って来ます

 ベランダの窓を閉め、施錠、生成色のカーテンをシャッと引いた。



「電気、OK、ガスの元栓、OK」



 小鳥は携帯電話、財布、メガネケースを焦茶の革のショルダーバッグに詰め込むと鏡で襟元とスカートの裾を整え、焦茶のパンプスを履いた。

木製の小鳥モチーフのキーホルダーが揺れる、鍵を開ける、ドアノブを下げ、外廊下で鍵をカチャンと締めた。



「う、うわっ!」



 振り向くとそこには濃いグレーのスーツに紺色のネクタイを締めた近江隆之介が自転車とヘルメットを担いで立っていた。



「よ、おはようさん」



 天然記念物の爽やかな笑顔。何かが吹っ切れた様だ。



「オ、オハヨウゴザイマス」

「一緒に行こうぜ」

「は、はぁ!?」

「待ってたんだよ」



 近江隆之介はスタスタとエレベーターホールまで歩き、ボタンを押して振り向いた。五、四、三階で開く四角い箱の扉。



「何、乗らねぇの?」

「の、乗りますけど!」

「けど、何」

「必要以上に、プライベートに踏み込まないって」

「ボーダーライン、テーブルの上くらいだろ?」

「はぁ?」



 確かに一昨日、小鳥はプライベートに必要以上に踏み込まない事を提案したが、近江隆之介にそのボーダーラインはどれくらいかと問われても明確な距離を示す事が出来なかった。



「お前の言うボーダーラインってテーブルの半分くらいだろ?」

「そ、それは例えばの話であって!」

「これくらいの距離じゃね?」



 腰を前屈みにして小鳥のほんの20㎝の距離で覗き込む。



「そ、それは例えばの話であって!精神的な、ち、近いです!」

「あ、そ」

「それに近江さん、自転車じゃないですか。」

「引っ張ってくよ」

「意味ないじゃないですか!」

「え、小鳥ちゃんと一緒に歩けるって意味、あるじゃん」

(こ、!?)



 二人は車一台通れるか通れないかのコンクリートの塀添いに竹林に向かって歩いた。無言で右に曲がる、桜坂、早速アブラゼミの大合唱で今日も暑くなりそうだ。それより何より右半身がカッカと熱い。近江隆之介の体温が至近距離で伝わって来るようで、思わず頬が赤らむ。右、左、右、と坂道をいつもより力強く踏み締めながら下る。



(ど、どういう事!?久我議員と不倫、付き合ってるんだよね!?)

「何、変な顔すんなよ」

(こ、これって。ふ、二股って事!?)

「何だよ」



 どうやら小鳥のモヤモヤとした下世話な妄想はダダ漏れ状態で、あからさまに表情に出てしまった。意味が分からない近江隆之介はそれを訝しげに見た。

 幅の狭い横断歩道。桜橋から眺める犀川の川面には朝日がキラキラと反射し、思わず目を瞑る。鮎釣りが解禁になり、中洲では空を切る長い竿を垂れる釣り人の姿が見えた。



「なぁ。今日、昼メシ一緒に食わねぇ?」

「な、何で、私が近江さんと!」

「何でって、お近づきの印に」

「はぁ〜?」

「良いじゃん、隣人同士、親睦を深めようぜ」



 魂が口から抜けそうだ。キコキコと自転車の車輪が回る。道路を行き交う自動車のエンジン音。

それら全てが耳に大きく響き、小鳥の思考回路は爆発寸前だった。



(な、何で!?この前までは睨んでたじゃない!)

「何処、食べに行く?」

「や、いやいやいや」

「何だよ」

「ふ、藤野さんのお昼ご飯とか、運ぶので、無理です!」



 そう叫んだ小鳥は鱗町交差点地下道の階段を駆け下りると陸上部の底力発揮、あっという間にその後ろ姿はポプラ並木へと消えた。



「・・・・藤野ぉ?」



 取り残された近江隆之介は、再びの藤野建の登場に眉間に皺を寄せた。


 ポプラ並木を全速力で駆け上った小鳥は金沢中警察署、金沢歌劇座、21世紀美術館の芝生を横断し、汗だくになりながらその背後を振り返った。



「ヒッ」



 ポプラ並木を自転車に跨った近江隆之介が真剣な表情で追い掛けて来る。いや、追いかけるも何も同じ職場、同じ方角に向かっているから致し方無い。



(な、何で。朝からこんな、走らなきゃ)



 これまで近江隆之介への淡い恋心で胸を昂らせ、目で追っていた人物が事もあろうか301号室のだった。あの夜、酔い潰れて素裸で添い寝した程度ならかろうじて耐えられるが、同意の上でに指を挿れられた仲だと知ってしまってはもう気不味さしかない。



「こ、これからどんな顔をして、仕事」



 自転車を降りた近江隆之介はエレベーターを使うに違いない。小鳥は職員玄関口から入り、エレベーター脇の階段を使う事にした。



「お、おはよう・・・ござ・・います」



 途中、市役所職員に挨拶をし、階段の踊り場で一休みし、息も絶え絶えに7階を目指して上った。



「・・・・・つ、疲れ、た」



 顎に伝う汗を拭って議会事務局の7階フロアに到着。空調の涼しさに一呼吸、目の前には黒い革靴、目線を上げると近江隆之介が右手をひらひらとしながらにこやかに微笑んでいた。



「よう、お疲れさん」

「なっ。何で此処にいるんですか」

「何って、郵便物取りに来ただけだけど」

「対立政党の事務職員と話していても良いんですか」

「そんなん、議員だけで俺ら関係ねぇじゃん」

「じゃんって。」



キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン



「おはようございます」

「おはようございます」


 小鳥は事務局のカウンターの出勤簿に印鑑を押し、自主党の郵便物を確認した。新聞紙に会派広報誌、郵便物が5通。それらを胸に抱えてふかふかの紺色のカーペットを進むと、近江隆之介もその後に着いて来た。



「何で着いて来るんですか」

「階段からも下、行けるし」

がお待ちじゃないんですか?」



 恋敵、近江隆之介の不倫相手、久我今日子。思わず語尾が強くなる。



「何、怖え顔してるんだよ」

「そうですか」

「なぁ、昼、一緒に食おうぜ」

「駄目です、藤野議員のお昼」

「あいつ来てねぇじゃん」

「は?」

「電光掲示板、点いてねぇし」

「うっ」

「田辺議員」

「今日から二泊三日、市議団で長野に出張だろ」

(な、何もかも・・・つ、筒抜け)

「し、仕事がありますから、失礼します!」



 小鳥は議員控室の扉を後ろ手に閉め、チェッと口を曲げた近江隆之介は6階に向かう階段を降りて行った。


 近江隆之介が鼻歌混じりで議員控室の扉を開けると久我議員が重厚なマホガニーの机に突っ伏していた。珍しい、



「おはようございます」

「あぁ、坊やおはよう」

「目の下にクマ、出来ていますよ」

「ほんと?」

「鏡見て下さい」

「あら、やだ」



 近江隆之介は書類入れに郵便物を置き、給湯室で霧吹きに水を注ぎ窓際のアジアンタムにしゅっしゅっと葉水をする。その手付きも軽やかで、何やらリズミカルである。



「何、隆之介、あなたご機嫌じゃない」

「そうですか?」

「何か良い事あったんでしょ?」

「いいえ、特には」



 今度はバケツに水を張り、ダスターを絞ってカポックの葉を拭く。その手付きはいつもより馬鹿に丁寧で、まるでを撫でている様にも見える。



「あなた、この前の宴会で宣言したんですって?」

「何をですか?」

「覚えてないの?議員秘書たち、この話題で盛り上がってるわよ」

「どの話題ですか?」



 バケツの水を排水口に流し、ハンドソープで手を洗う。ふんふんと鼻歌が聞こえ、姉はうんざりした表情で、その栗色の巻き髪を人差し指でクルクルと巻いた。



「田辺議員のところの小鳥ちゃん」

「はい?」



 テーブルの上に、各新聞社名がわかる様に朝刊を並べる。今の近江隆之介はその新聞をハート型に並べたい程に上機嫌だった。



「俺のものだって言ったそうね?」

「ええ、多分」

「あら、否定しないのね」

「しません」

「冷酷なイケメンも台無しね」

「台無し?」

「鏡、見てご覧なさい」



 スチールデスクの引き出しから鏡を取り出して見るが特に変わった所はない。



「頭に花、咲いてるわよ」

「そうっすか」

「否定しないのね」

「しません」

「まぁ、良いわ。プライベートな事には口出ししない主義なの。せいぜい頑張って頂戴」

「はい」

「はいじゃ無いわよ、仕事よ」



 久我今日子は手招きをしてクリアファイルに挟まれた1cmもあろうか、書類の束を真っ赤なネイルで指差した。



「この公民館、文化会館の会議室、商工会議所」

「はい」

「ここで、この日付に市政報告会や会合が開かれているか確認して」

「はい」

「無い場合は蛍光ピンクの付箋」

「はい」

「有る場合は蛍光の黄色い付箋、参加人数を書いて挟んで頂戴」

「はい」



 そう言うと、机の上の赤や青の付箋が貼られた同じような書類を何やら確認し、ノートパソコンに打ち込み始めた。



「議員」

「何」

「この資料、そろそろ何か教えて頂けませんか?」

「良いわよ。けれどこの事は口外しない事」

「はい」

「誰かに漏らした時、あなたの冬の賞与は無いと思って」

「は?」

「クビよ、解雇、さようなら」

「え、ちょ」

「ちょ、じゃ無いわよ」

「はい」

「これは爆弾よ、とびっきりのね」


 なるほど、近江隆之介が言ったように、議員控室のホワイトボードには自主党議員二人のスケジュールが書き込まれていた。


田辺五郎 市議団 長野視察 二泊三日

藤野建  外回り


 小鳥は急な来客に備えてポットの湯だけは準備したが、今日一日は気楽に業務に励む事が出来る。取り敢えず、facebookの更新と郵便物の仕分け。そして分厚いバインダーに挟まれた重要書類のコピー。



(でも、なんで三部なんだろう?)



 藤野議員に依頼された業務は資料一枚につき、三部コピーして毎日14:00にクリアファイルに挟んで手渡し。議員不在の時はスチール棚に施錠して管理。他言無用、口外すれば解雇だと釘を刺された。


『田辺さんには一部、僕には二部、クリアファイルに入れて渡して』


 保存用なのかなぁ、と思いつつ今日も小鳥は延々とコピー作業に励んだ。そして議員不在の折、に関して考える余裕に恵まれた。



「近江さん、何だかこれまでと違う、ような気がする」



 さて、どうしたものか。301号室のが近江隆之介だと判明し、裸体を晒した相手を探す必要も無くなった。酔いに任せてセックスに至った事も、その行為は他言無用だと互いに約束を交わした。醜態が職場に広まる事は無い、その点は安全が確保された。そして良好な隣人として接する事も確約された。その点は何ら問題は無い。



(で、でもこの感情はどうしたら良いの!?)



 初出社日、小鳥はエレベーターホールで振り返った近江隆之介に一目惚れをした。以来、四ヶ月間、恋焦がれてその背中を追い、近江隆之介に女性として認識して貰いたいが為に眼鏡からコンタクトレンズに変えた。それが既に、セックスしていたなんて。しかもこれまで色々と接点があったにも関わらず、近江隆之介は301号室での夜の出来事はひた隠しに小鳥から逃げ回っていた。



(やり逃げとまでは言わないけれど、一夜の過ち的な?)



 それに近江隆之介には久我今日子議員という不倫関係の恋人が居る。なのに、私に付き合おうとか、親睦を深めようとか意味が分からない。あまり会えない久我議員の代わりに、隣室の女とバンバンやりたい放題の二股関係だとしたら余りにも虚しすぎる。



「どうしたら良いの〜」



 そんな酷い男であっても、あの瞬間に芽生えた恋心は枯れる事がない。好きで好きで忘れる事など出来ないのだ。もういっその事、二番目の女でも良いかとも一瞬そんな考えが頭を過ぎったがそんな泥沼の恋愛など望んでは居ない。



「どうしたら〜」



 そこで腹の虫がグゥと鳴った。



「ごはん食べよう」



 小鳥は大切なバインダーと書類をスチール棚に片付けると施錠し、議員控室の鍵を閉めた。

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