タクシーのテールランプが右折して寺町大通りに消えた。
やや半分、小鳥の肩に寄り掛かった近江隆之介は起きているのか居ないのか定かでは無かった。エントランスのガラス扉を開け、引き摺る様にエレベーターホールへと向かう。
(あ、郵便、何か来てる)
302号室の郵便受けに段ボールの封筒が突っ込まれている。多分、メルカリで落札したハンドメイドの小鳥のモビールだろう。
(あれは、後でいいや)
「近江さん、近江さん起きて下さい」
「ん、あ?」
「着きましたよ」
「あ、着いた?何処に?」
「マンションですよ、マンション、何階ですか?」
「さん」
「はい、分かりました。三階ですね。間違い無いですか?」
「・・・ん」
「ちょ、起きて下さいよぉ、もう」
小鳥はあぁ、同じ階に住んでいたのか、と思いつつエレベーターのボタンを押した。五、四、三、と降りてくる黄色い丸いランプ。
(あぁ、だからか!)
成る程、だからデモ行進のソイラテ頭からびしょ濡れ事件の折、近江隆之介が迷い無くこのマンションまで辿り着けた訳だ。ようやく合点がいった。
同じマンション。しかも同じ三階に住んでいたなんて嬉しい偶然!部屋数は10部屋、この何処かに近江隆之介の部屋が有る。
(最高じゃん。何号室なんだろう)
これを機に、もしかしたらもしかして急接近出来るかもしれないと小鳥が妄想している間にエレベーターの扉が開いた。開閉ボタンを長押ししてズルズルと四角い箱の中に近江隆之介を引き摺り込んだ。三階のボタンを押す、上昇するエレベーター。
チーン
ガーっと扉が開く。開閉ボタンを長押ししてズルズルと外廊下まで運び出す。180cm越えの荷物を抱え、汗だくの大仕事だ。
「近江さん、近江さん、起きて下さい」
時刻は22:00を回っている筈だ。
大きな声で尋ねるのも憚られ、肩に寄り掛かる近江隆之介の耳元で部屋番号を尋ねるが反応は無い。揺さぶってみるが何やら小声で言うだけで聞き取れない。もしかしたら違う部屋の番号を告げられて、ピンポンダッシュする羽目になる事だけは避けたい。
(ん〜ん)
肩に掛けた焦茶のショルダーバッグの外ポケットから鍵を取り出した小鳥は苦渋の決断を下し、近江隆之介を
(気がついた時点でお帰り頂こう)
ガチャリ
小鳥は右足で扉を支え、その隙間から近江隆之介を部屋に引っ張り上げた。
(く、靴)
取り敢えず小鳥はポイポイとパンプスを脱ぎ捨て、近江隆之介の革靴はそのままで両脇に手を回してズルズルと引き摺る。重い、重すぎる。脱力した人間がこれ程重いのかと額に汗を流しながらリビングに大の字で寝かせた。革靴を脱がせ、玄関先に並べる。部屋のシーリングライトのスイッチを押す。柔らかな光の中の近江隆之介は残念な事に
(もう、起きてよ)
と、そこで小鳥は重大な事に気が付いた。
(待って、ちょっと待ってよ?)
春の歓送迎会
泥酔状態
送ってくれたのは近江隆之介
同じマンション
三階
(そ、それって。それって!?)
小鳥は足元に転がる近江隆之介を見下ろすとパンプスを履いて外廊下に飛び出した。エレベーターホールに向かう、開閉ボタンを連打、一階のボタンを押す。
チーン
ずらりと並んだ銀色の郵便ポストの前に立つ小鳥。先ずは302号室のポストから段ボールの封筒を取り出す、やはりメルカリ、いや、今はそれはどうでも良い。301号室の郵便ポストから少しはみ出している通信販売のカタログ、何故、何故、今まで思いつかなかったのだろう。
(郵便物の名前、見れば良かったんじゃない?いや、個人情報、でも!)
通信販売のカタログ。ビニール袋の角を指で摘みソロソロと取り出す。カタログの厚みが郵便ポストの受け口に触れ、ガサガサと音を立てた。
裏返す。
「お、近江隆之介」
301号室に生息する天然記念物の名前は近江、近江隆之介。
小鳥はメルカリの段ボールの封筒と、厚みのあるカタログを手にエレベーターのボタンを押した。
カチャン
音を立てぬようにそっとドアノブを下ろし中を窺う。
(居る)
近江隆之介は
それにしても居酒屋の油臭さと汗が混ざり合って気持ちが悪い。バスタオルと水色のパンティ、水色ストライプの半袖パジャマを手にシャワールームに向かった。中から鍵を掛ける。
カチャリ
洗面所にそれらを置き、鏡を見て大きなため息が一つ。
(まさか、近江隆之介が301号室の
いつもより熱いお湯が激しい雨の様に打ち付け、排水溝へと流れて消える。クレンジングバウムで仮の顔を落とし、モシャモシャとシャンプーを泡立てツルツルのトリートメントで整髪料で疲れた髪の毛を癒す。モコモコのボディソープでこれまでの四ヶ月間を洗い落とそうと試みた。
(いや、あの夜、寝泊まりした
バスタオルで有り得ない回答を拭き取り、新しい疑問をバサバサと身に付ける。何故、近江隆之介はあの夜の事を、ここまでひた隠しにしたのだろう。いつでも告白して弁明する機会は有った筈なのに、何か理由が有ったのだろうか。
コンタクトレンズを外し、歯を磨くがどうにもスッキリとしない。
カチャリ
鍵を開けてリビングを覗き見ると近江隆之介は体勢を変えて海老の様に背中を丸めて寝ていた。
(寒いのかな)
小鳥はクローゼットから水色のタオルケットを取り出し、フローリングの床の上のその背中にふわりと掛けた。
「すみません、今夜はそこで寝て下さい」
小鳥はぺこりと頭を下げ、もそもそとベージュ色の掛け布団の中に潜り込んでリモコンでシーリングライトの電源をOFFにした。
カーテンの柔らかな陽の光。近江隆之介の部屋のカーテンはどちらかといえば遮光タイプ。ついうっかりのカーテンの閉め忘れ、またはほんの僅かな隙間があれば、思わず目を細めたくなる鋭い光が差し込む。今朝は、温かさに包み込まれる優しい日差し。
「・・ん」
身体中が痛い、ギシギシと節々が軋む。腹の上には見覚えのない水色のタオルケット、スーツを着たまま、ネクタイが首を締め付けて苦しい。
近江隆之介は朦朧とした意識の中、肘を突いて半身起き上がると周囲を見回した。木製の家具、生成色のリネン生地で揃えられたファブリック。
木枠の鏡にはパイン木材のベッドが写り、そこにはこんもりとした膨らみ。
「・・・!?」
一気に目が覚めた。
(こ、ここは、何処だ)
昨夜の宴席での記憶を手繰り寄せる。着座は19番、高梨小鳥の席は遥か彼方、上戸の議会事務局長のお酌を受けて、議員秘書の女性に囲まれ、手洗いで顔を叩き、それから。
それからどうした。
そして此処は。
考えたくはないが、背後を振り向く。
見覚えのある間取り。
トイレは多分
ドアを開ける。
ある。生理現象、便器を見た途端に尿意を催す、お借りします。
ざーーーーー
手を拭きながら出て来た所で心臓が飛び上がった。
「う、うおっ」
ノーフレームの眼鏡を掛けた高梨小鳥が、ベッドのマットレスの上に腰掛けていた。え、えっと。俺、詰んだ?
「近江さん」
「は、はい」
思わず敬語になる。
「シャワーを浴びて着替えたらもう一度
「は、はい」
「お待ちしています」
近江隆之介はスーツの内ポケットを弄ると革のストラップが付いたディンプルキーを取り出し革靴を履いてドアノブに手を掛けた。
「近江さん。じゃ、また後で」
「は、はい」
外廊下をジャリジャリと歩く革靴、カチャカチャと鍵を回す音、カチャンと鍵が開き、ドアノブがギィと音を立て、バタンと扉が閉まった。
カチャン
鍵の閉まる音。これはもう確定、真っ黒の黒。
「えぇぇ、本当に?近江隆之介なのぉ。マジかぁ」
301号室、隣の彼は近江隆之介。小鳥は彼を迎えるべく、顔を洗い、歯を磨き、コンタクトを入れ、髪を梳かし、黒いTシャツと紺色の短パンを履き、紅茶を淹れる準備を始めた。
生成色のカーテンが風に揺らめく。ベランダの窓から犀川を見下ろし、少しばかり先に兼六園のこんもりした緑のブロッコリーが見える。斜面を駆け上る風が心地良い。窓辺には木製の鳥がゆらゆらと回っていた。
濡れたパーマヘア、黒いパーカーに黒いハーフパンツを履いた近江隆之介は、302号室のリビングでお行儀良く正座していた。
(いやぁ、見晴らしいいっすね、て、まんま自分んとこから見る景色じゃん)
パイン素材の丸いリビングテーブルの上には、
『金沢市寺町 プラザ寺町 301号室 近江隆之介 様』宛のシールが貼られたカタログ雑誌、小鳥はそれをベージュのカーペットの上に置くと、白いマグカップを二個置き、白いティーポットからアールグレイの紅茶をトポトポと注いだ。
「お腹、減ってませんか?」
「あ」
小鳥はスックと立つとキッチンに向かい、冷凍庫からクロワッサンを取り出しトースターに放り込んだ。棚から小さなフライパンを取り出すと、ガスコンロに火をつけオリーブオイルを引いた。パチパチと弾ける音、そして卵を二つ割り入れる。思わず近江隆之介の腹の虫がグゥと鳴った。
しかし、高梨小鳥の表情は
白い皿に黄色いぷりぷりした目玉焼きとクロワッサンが並んでいる。
何ならプチトマトと茹でブロッコリー、見た目にも美味そうだ。
「どうぞ」
「あ」
「あ、ごめんなさい。フォーク、箸、どちらが良いですか?」
「じゃ、箸で」
「はい」
コトン
朱色に白い小鳥が描かれた箸が目の前に置かれた。
「い、いただきます」
「はい、どうぞ」
近江隆之介は皿の目玉焼きと小鳥の顔を交互に見上げながら小腹を満たす。リビングテーブルの真向かいに座る当の小鳥は、何事も無かったかの様に紅茶をふぅふぅと冷ましながらマグカップに口を付けている。
「あ、あの」
「まずは食べて下さい。正座も崩して下さっても結構です」
「あ、いえ。このままで」
まさか、好きな女の手料理をこんな気不味い思いで口にするとは夢にも思わなかった。しかも緊張で何を食べているか分からない。砂を噛んでいる様だ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
近江隆之介は少し温くなった紅茶を飲み干した。小鳥はキッチンのシンクで皿を洗うと、紅茶を淹れ直した。アールグレイの爽やかな香りが漂う。
「おかわり、どうですか」
「あ」
小鳥は無言でティーポットを傾けて二個の白いマグカップに琥珀色を注ぐ。近江隆之介の喉がゴクリと動いた。
「あ、あの。昨夜は済みませんでした」
「いえ、私も
「や、それは」
「その節はどうも」
「は、はい」
ガタン!
それまで無表情だった小鳥の顔が真剣な面持ちになり、近江隆之介に詰め寄った。
「私、近江さんと致したんでしょうか!?」
「い、いたしたって?」
「セックスしたんでしょうか!?」
「え、あ、お」
「したんですね!?」
リビングテーブルの上の紅茶が跳ねる。
「あ」
「ど、何処まで!」
「ゆ」
「ゆ?」
「指を挿れる、ところ、まで」
近江隆之介は右の人差し指をグニグニ動かした。その仕草をまじまじと見つめた小鳥は大きくため息を吐きながらカーペットに突っ伏した。
「そうですか」
「すんません」
「同意の元で、でしょうか」
「同意の元、です」
「そうですか」
「はい。ちなみに服は高梨さんが脱ぎました。」
(そう来たかーーー!)
同意の上。小鳥にすればそれは記憶の範疇外だが、朧げにとろける様な感覚は身体が覚えていた。確かにアレは強引な行為では無かった。しかもやはり
カーテンが揺れる。階下のベランダで、ガラスの風鈴の舌が乾いた音を鳴らす。
(・・・・)
顔を真っ赤にした小鳥がガバっと起き上がり、もう一度、近江隆之介に詰め寄った。その気迫に一瞬尻込みした。
「近江さん、昨夜の事は覚えていますか!?」
チリーーーーーーーン
如何にも初夏らしい風鈴の音色。遠くからミンミンゼミの鳴き声が聞こえて来る。ただ、この302号室だけは水を打ったように静かだった。
「あ、の」
「はい」
「俺、昨夜も何かした?」
「はい」
ノォぉぉぉぉと上擦った声を発した近江隆之介は、緩いパーマヘアを抱えながらベージュのカーペットに突っ伏した。
「高梨さん、俺、今度は何をしたんでしょうか」
「いえ、特に」
「何かしたんです、よね」
「恋人繋ぎ、です」
むっくりと起き上がった近江隆之介は両の手のひらをグーパーグーパーして見せた。小鳥は真剣な顔でコクリと頷いて見せた。
「な、なぁんだ。そんな、そんな事」
安堵のため息を吐いたのも束の間。
「俺たち、付き合わないか、と言われました」
(俺、詰んだ)
「ち、違うんだ」
(酔いに任せて告白とか)
「違うんですか」
「や、違わないけど」
(最悪じゃねぇか)
「どっちなんですか」
「・・・お、覚えていません」
チリーーーーーーーン
「分かりました。では、この話題は
「や、無視はちょっと」
「ちょっと、何ですか」
「困るなぁって」
今、小鳥の前に居るのは天然記念物ではなく、石で出来た地蔵、微動だにしない地蔵、そして何処を見ているか分からない表情をしている。
キーンコーンカーンコーン
キーンコーンカーンコーン
十一屋小学校のチャイムが響く、授業参観日だろうか。
「では、話題を変えます」
「お、おう」
「それで、何故、今まで隠していたんですか」
「隠して、とは」
「301号室に住んでいる事です」
「ば、ばっか、そんな事言えるかよ!」
「なぜ」
「・・・お、覚えていません」
チリーーーーーーーン
「覚えていませんって、犯人がよく言いますよね」
「す、すんません」
「分かりました」
どうやら小鳥の事情聴取は終わりを迎えたらしく、視線を逸らす近江隆之介の目の前に一枚の便箋を取り出し、ボールペンで何やら書き出すとそれを読み上げた。
「な、何だよ、それ」
「協定を結びましょう」
「ど、どう言う事だよ」
「これからは良き隣人として宜しくお願いします」
「お、おう」
「セックスした事は誰にも話さない事」
「当たり前だろ」
「必要以上にプライベートに踏み込まない事」
「え、それ・・・は」
チリーーーーーーーン
「それは?」
「それは、ちょっと」
「ちょっと、とは?」
「必要以上にって、境界線ってどの辺りまで?」
「こ、この辺りです!」
小鳥はリビングテーブルの真ん中で横線を引いた。
「何処だよ、それ」
結果、ボーダーラインがどの辺りなのか明確にされなかった為に近江隆之介はその協定に応じる事はなく、却下された。
これまで小鳥は春の夜の裸体を晒した
その逆に、自身が301号室の住人であると露呈してしまった近江隆之介は居直り、恋心を募らせている 高梨小鳥 にまっしぐら。
形勢逆転となった。