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第16話  内緒のおしごと

 小鳥はもう何十分も事務職員専用のパソコンと睨めっこしていた。先週に行われたデモ行進とその後のビラ配布の画像の中から、facebookに掲載する画像をあれこれと選択していたのだ。

 動きのある被写体の写真撮影には慣れておらず、風景やアングルが良くても狸の田辺議員の顔が半分に切れていたり、爽やかの藤野議員の目が白目を剥いていたりと散々な出来栄えであった。



「やばい、やばい。これじゃ更新出来ないぃ」



 すると小鳥がソイラテを頭の天辺に被る直前に、公道に手を振る近江隆之介の横顔が一枚紛込んでいた。顎から頬骨に掛けてのスリムなライン、薄い唇。



(このアングルいい!めっちゃ格好いい!)



 小鳥はキョロキョロと窓側の議員机を伺い、藤野議員がこちらを見ていない事を確認してパソコンのマウスを右クリックした。



(近江隆之介ゲットぉぉぉ!)



 小鳥は早速、いそいそと自分の白い携帯電話に近江隆之介を転送し、待受画面に設定してニヤニヤとそれを眺める。にしても、はて。



(近江隆之介は何故、私のマンションを知っていたのだろうか)



 藤野議員がそんな個人的な事をペラペラ話す事も無いだろうし、万が一話したとしてもGoogleマップも見ずにあれ程真っ直ぐマンションに辿り着くだろうか。



(近江隆之介もあの辺りに住んで、るのか、な)



まさか、まさか。

そんな偶然ある筈ないじゃ無い!

有ったら奇跡じゃん!

きゃー!

もう喜んで押し掛ける!



「小鳥ちゃん」



 不意に藤野議員に声を掛けられた小鳥はフレームレスの眼鏡をクイッと上げ、平静を装って議員デスクへと向かった。出来る女を演じる。



(あぁ、妄想に浸ってしまった。やばいやばい)

「小鳥ちゃん、これなんだけど」

「はい」

「これ、付箋が貼ってある部分をづつコピーしてくれないかな」

「これを、ですか?」

「うん」



 手渡されたのはA4版でそこそこ厚みがあるバインダーが三冊。ぎっしりずっしりと重かった。



「いつまで、でしょうか」

「作業の合間で良いから、七月中旬までにお願い」

「はい」

「その日仕上がった分は僕に、田辺さんに一部、クリアファイルに挟んで15:00に手渡して」

「はい」

「不在の時は、次の出勤日に宜しく」



 次の瞬間、藤野議員のヘラヘラとした笑顔が消えて厳しく小鳥の顔を見上げた。



「小鳥ちゃん」

「はい」

「コピーした分は必ず、必ず手渡しでお願いします」

「はい」

「小鳥ちゃんが席を外す時は、バインダーもコピーした紙も必ず後ろのスチール棚に入れて施錠して」



 そう言うと藤野議員は三冊のバインダーを手に持っていた定規で、一、二、三、と軽く叩いて見せた。小鳥の喉がゴクリと鳴る。



「大事なものなんですね」

「そうだよ」

「分かりました」

「頼んだよ」


「あともう一つ、これから話す事は誰にも言っちゃいけないよ」

「はい」

「もし誰かにこれを話したら、小鳥くんは此処から居なくなる」

「え」

「解雇、という事だよ」

「は、はい」



 神妙な顔つきの藤野議員が小鳥の目を見た。



「手伝ってもらえる?」

「え」



 小鳥の手に、一枚の紙が手渡された。



「あ、これ」

「そうだよ、君にコピーをお願いした資料」

「はい」

「これが何かはまだ教えられないけれど、この資料を分別して欲しいんだ」

「え、と」

「赤い付箋、青い付箋、黄色い付箋、緑の付箋」

「はい」

「金額が記入されていない白紙の領収書を見つけたら黄色い付箋を貼って下さい」

「分かりました」

「残業代はちゃんと出すからね」

「はい」



 小鳥はかなり重要な任務を背負い、出勤から退勤までの間、電話での市民からの問い合わせやfacebookの更新、郵便局での書類発送作業等をこなしながら延々とコピー機の前に立ち、ファイリングを続けた。

 帰宅後はコンビニの菓子パンを牛乳で胃に流し込み、メイクを落としてそのままベッドに倒れ込む日々。

 301号室のが部屋を出入りする気配は感じたが、疲労困憊、その事を気に掛けている余裕など無かった。



小鳥は地下一階の職員食堂でランチB定食を食べていた。と、ここで何やら視線が痛い。いつもの女性職員の発言かと背後を振り返ったが違う。



(何?)



  数名の男性職員と目が合った。小鳥のトレードマークだったフレームレスの冷ややかな眼鏡は無く、耳元にはプラチナの台座にムーンストーンの小さな石を嵌め込んだピアスが光っている。小鳥は近江隆之介に振り向いて貰いたいが為に、眼鏡をコンタクトに変えて耳にピアスの穴を開けた。



(か、可愛いな)

(意外とイケるな)

(あ、あぁ、可愛い)



 周囲をキョロキョロと見回すが彼らの視界に入る女性は小鳥だけだ。間違いない。その囁き声は小鳥に向けられたものだった。思わず頬が赤らむが心の中ではガッツポーズをし、(おっしゃぁぁぁぁぁ!)と叫んでスキップした。近江隆之介がどう思うかは別として、取り敢えず一般男性は小鳥の外見を”女性”として評価した。


脱却の瞬間。



(近江隆之介、どんとこ〜い!)



 残念ながら昼休憩中にエレベーターで近江隆之介とすれ違う事は叶わなかった。そこで小鳥は議会事務局と議員控室の間を何往復もした。



(会議室の予約に現れるかも)



 辺りをキョロキョロと見回し首を傾げる。その仕草は愛らしく恋する乙女と表現しても差し支えはない。議会事務局の男性職員も小鳥の変貌ぶりに目を奪われた。


「あ、小鳥ちゃん」



 爽やかな笑顔で手を振りながら藤野議員が会議室フロアから爽やかな笑顔で手を振りながら近付いて来た。



「コピーありがとう、仕事が早くて助かるよ」

「え、は、はい!」



 藤野議員が小鳥の顔を覗き込んで微笑む。



「小鳥ちゃん、変わったねぇ。驚いたよ」

「へ、変ですか?」

「いや、そんな事ないよ。すごく可愛い」



 その可愛らしさは6階フロアどころか地下職員食堂でももっぱらの噂となり、それは近江隆之介の耳にも届いていた。件の301号室問題など脳裏から吹っ飛び、その変貌ぶりを見てみたく近江隆之介の革靴は禁断の7階自主党フロアに向かった。



(マジか、こりゃ見るしかないだろ。)



 そこで近江隆之介はわざわざ階段を使い、自主党議員控室の前を通り室内を軽く覗いてみたが事務職員の机に小鳥の姿は無く、狸の後頭部が椅子からひょっこり覗いていた。



(ちぇっ。居ないのか)



 残念に思いふかふかの紺色のカーペットから目を上げた瞬間、小鳥と藤野議員が並んで談笑する姿が目に飛び込んで来た。



(コンタクトに変えたのか)



 これまでお堅い印象の眼鏡の下に隠されていた、涼やかな目尻、黒い瞳、艶やかなまつ毛。ほんとりとオレンジに色付く唇。耳元に光るピアス。



(可愛いじゃん)



 けれど頬を赤めながら小鳥が見つめる先には藤野議員が和かに笑っていた。

ふと、近江隆之介と高梨小鳥の目が合う。次の瞬間、スッと小鳥の視線が床に落ちた。



(何だよ。藤野に見せる為にイメチェンしたのかよ)



 眼鏡を外した顔を見られる事が照れ臭くて近江隆之介から視線を逸らした小鳥だったが、顔を上げてみると、もうその場所から彼の姿は忽然と消えていた。



(え、無視されちゃった?)


 小鳥が想定外の展開に狼狽していると、会議室のフロアから久我今日子が現れた。



(く、久我今日子)



 いきなりの強敵登場に身構えた小鳥だが、久我今日子の妖艶な魅力の前では、眼鏡をコンタクトに変えた程度のイメージチェンジでは太刀打ち出来ない事は明らかだった。小鳥は心の中で悔しく地団駄を踏んだ。



(ん?)



 その隣で、久我議員と藤野議員がすれ違う瞬間、二人の口元が緩んだような気がした。



(笑った?まさかね。対立会派の議員が仲良しとか。有り得ないよね)



 そして小鳥の前を通り過ぎる久我今日子からはグリーンウッドの匂いがした。近江隆之介と同じ香りだ。エレベーターホールに立ち、そのボタンを押す指先は赤く動きも優雅、黒いワンピースに包まれた魅惑的な肢体。



(悔しいいい!)



 大人の女性の魅力が恨めしく、小鳥がキリキリと唇を噛んでいると、栗色の巻き毛がチラリとこちらを見てふっと笑った。



(おのれ)

「小鳥ちゃん、如何したの」

「え」

「物凄く・・・怖い顔してたよ」

「え、え?そうですか」

「うん」



 藤野議員が例えるならば怒ったドーベルマンが鼻に皺を寄せていたとか。

いかん、いかん。冷静さを失う所だった。が、我に返ったのも束の間。小鳥の脳裏には久我今日子と近江隆之介が抱き合う姿が浮かんでは消え、再びその怒りが沸々と湧き上がった。



(おのれ、久我今日子。不倫、許すまじ)

「小鳥ちゃん、顔、怖い怖い」

「あ、すみません」



 そして藤野議員と共に議員控室に戻った小鳥だったが、コピー機の前に立つとバタンガンと原稿をガイド板に差し込み、無意識のうちにジーコンジーコンガンガンガンと力強くボタンを連打していた。



「怖いよ、小鳥くん。壊れちゃうから、ね」

「はい」

「備品は大切にしてね」

「申し訳ありません」


 そして近江隆之介といえば、階段を足早に降りると6階個室トイレの戸を閉め、勢いよく鍵を掛けた。指を挟むかの勢いだった。緩いパーマの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き、ふと手を止める。


(くっそ、くそ!)


 あの夜、小鳥の細い指先はこの髪を握り締めた。酒に酔っていたとはいえ、お互い「好きだ。」と告白し合った夜。にも関わらず、小鳥の白い携帯電話の待受画面はあの藤野。二人の和やかな姿が腹ただしい。



(クッソ!)



 近江隆之介はトイレットペーパーをカラカラと回すとずずっと鼻をかんだ。




ポーン




 6階のエレベーターホールに降り立った久我今日子は、男子トイレから赤い鼻を擦りながら出てきた近江隆之介に声を掛けた。



「あら、泣いてたの?」

「泣いてません!」


「ま、いいわ。来なさい」



 ふふんと鼻で笑った久我議員は、近江隆之介に議員控え室の扉を閉めるよう促した。そして原稿と思われるコピー用紙が十数枚挟まれたクリアファイルを手渡す。



「近江くん、このコピー、同じ字体の領収書があったら青い付箋」

「何ですかこれ」

「坊やはまだ知らなくて良いの」

「そうですか」

「あと、同じ印刷会社の領収書のコピーがあればチェック、赤い付箋」

「分かりました」



ぎしっ


 久我議員は回転する椅子で脚を組んだ。



「ねぇ、坊や」

「その呼び方はやめて下さい」

「あなた、自主党の新しい事務員の女の子知ってるわよね?」

「え、え。まぁ」

「何だか可愛くなったわよね」

「そうですか」

「あら、興味ないの?」



(くそ、藤野)



 近江隆之介は先日のデモ行進の際、街頭で配布していた藤野議員のチラシを数枚、藤野建議員支持者の振りをし、入手していた。あれから何枚使だろう。

 近江隆之介は清廉潔白そうな藤野建の鼻の穴に油性マジックで三本の鼻毛を生やし、頬にぐるぐると模様を描き、ぐしゃぐしゃと丸めるとゴミ箱へ渾身の力を込めて投げ入れた。



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