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第15話 街頭演説とデモ行進

 雨が降っている。シトシトと湿っぽい金沢らしい雨だ。身に纏わり付く湿気。ポン!庁舎裏出入り口に真っ赤な傘の花が開いた。



(五月雨や上野の山もなんとか、だなぁ)



 ノーフレームの眼鏡に霧雨の様な雨粒がポツポツと付く。首から下がるネームタグには高梨小鳥。透明なクリアファイルに何枚かの書類を挟み、今は田辺議員の依頼で金沢中警察署に”道路使用許可”の申請をする為に石畳のカーブを歩いている。



(近道していこ〜う)



 今日は初めてので、警察署に行くのも生まれて初めてだ。悪い事など一つもしていないのに、意味もなく心臓がドキドキする。

ベージュ色の煉瓦貼りの”金沢中警察署”、真正面にはピカピカ金色の旭日章、赤色灯を回転させたパトカーが出入りしている。



(いやぁ、なんか、嫌な雰囲気)



 小鳥が意を決して警察署の階段を踏む頃、黒い男物の大きな傘が歩いて来た。近江隆之介である。手には黒いビジネスバッグを抱えている。彼もまた、街頭宣伝に使用する”道路占領許可”の申請の為に金沢中警察署を訪れていた。

ふ、と視線が赤い傘を畳む姿に釘付けになる。



(お、高梨小鳥)



 意図せずその姿を目の当たりにしたが、申請手続きの時間をずらそうにも警察署も閉庁間際、まごつく時間は無かった。



(冷静に。平常心、落ち着け、大丈夫。高梨は気付いていない)



 近江隆之介も小鳥の後を追う様に階段を上がり、出入り口に立つ守衛に軽く会釈をして黒い傘の雨粒をバサバサと払い、手際よく折り畳んだ。

カタン

 傘立てには高梨小鳥の赤い傘。近江隆之介は赤い傘のすぐ隣に黒い傘を立て掛けた。寄り添う二本の傘を見て内心ニマニマとほくそ笑む。



(あぁ、高梨と俺もこんな風に)



 近江隆之介は今日も絶賛片思い中で、自動ドアの向こうの高梨小鳥の背中を見つめた。


 二重の自動ドアが開く。その真正面が”交通課”、ここで”道路使用許可”、”道路占用許可”の申請をする、申請書と使用占拠する場所の図面、2,300円程度の使用料をカウンターに提出して終了だ。



(今日はフレアスカートか、これはこれで良いな)



 近江隆之介はひと区間離れて順番を待った。そんな簡単な手続きにも関わらず、高梨小鳥はカウンターの女性署員に説明を受けて狼狽している。



「はい、この申請には図面が必要になります」

「ず、図面ですか?」

「有りませんか?」

「え、えと」



 高梨小鳥はクリアファイルの中身をカウンターに広げてグレーのA4版の藁半紙わらばんしを探すがどうやら忘れた様だ。



「この申請書、今日までに出さないとダメですか?」

「拝見します」



 後ろ姿が困惑しているのが手に取るように分かった。イライラというよりも彼女がちゃんと手続き出来るのかハラハラと心配になり、近江隆之介は気が付けば高梨小鳥の脇に立ち、その申請書に目を落としていた。



「ちょっと見せてみろ」



 それは前屈みになり小鳥の顔のすぐ横、頬と頬が近付いた。



(あ!あ!?近江隆之介!)



 突然、隣に現れた片思いの相手のを間近に、高梨小鳥は度肝を抜かれた。心臓が跳ね上がり、耳の先端の毛細血管が耐えられない!と叫び出した。そしてふわりと鼻をくすぐる甘いグリーンウッドの匂い。



(整髪料かな?良い匂い。)

「あぁ、これ今日出さないと間に合わねぇじゃん。申請は5日前まで、聞いてねぇのか?もちっと早く来いよ」

(お、!?)



 いつの間にそんな呼び方というか、仲になったのかとぽっかり口を開けて見ていると近江隆之介が小鳥に向き直った。

至近距離

 それはもうこれからキスするのではないかというくらい、パーソナルスペースを超えた距離。小鳥の顔は茹蛸の様で、それに気が付いた近江隆之介の顔も真っ赤に色付いた。



(あ、やべ。いつも通りにってか、近ぇ)

(ちょ、近い、近い!近江隆之介、近い!)


「あ」

「は、はい」

「高梨さん」

(な、名前も知ってるの!?)

「は、はい」

「デモ行進の順路、覚えてますか?」

「あ、はい。覚え・・てます」

「じゃあ、これあげるから。蛍光マーカーで線引いて提出して」



 近江隆之介は手に持ったビジネスバックからクリアファイルを取り出すと、無記入の図面用紙二枚とピンクの蛍光ペンを一本手渡した。



「じゃぁ、頑張ってね」

「あ、あの」



 なるべく平静を装った近江隆之介はカウンターに背を向け、二重の自動ドアへと踵を返した。黒い雨傘を傘立てから取り出そうとするが赤い雨傘に引っ掛かって思うように引っ張り出せない様だった。高梨小鳥は思わずプッと吹き出してしまい、それに気付いた近江隆之介はぎこちない笑顔で会釈をして外へと階段を降りて行った。



(意外と、優しくて面白い人、かな)



 まぁ、それより何より「あぁ助かった。」と胸を撫で下ろし交通課窓口で定規を借りて図面にマーカーでラインを引いた小鳥だったが、ふと疑問が浮かんだ。



(あれ?近江隆之介は何をしに此処へ来たの?)



 その頃、黒い傘と黒い革靴は尋常では無い速さで庁舎への石畳のカーブに差し掛かっていた。その顔は真っ赤で口元は何やらニヤけ、それを左手で押さえ隠している。



「うぉっと」



 足元の段差に蹴躓き、左脇に挟んだビジネスバックが水溜りに落ちそうになった。慌てて傘を持つ手でそれを押さえた。



「まじ、まじ可愛いすぎだろ」



 あの夜は薄暗く分からなかったが、薄化粧の肌は健康的で相変わらずまつ毛は潤んで美しかった。ぽってりとした唇は薄付きのベージュのリップクリームでふっくらと濡れていた。



(あの距離、とか。最高じゃん)



 傘の雫を払い備え付けのビニール袋に差し、かなり浮き足立ってエレベーターホールで待つと地下一階から登って来たエレベーターに久我議員が仁王立ちで立っていた。



「あら、近江くん。やけに早いわね」

「何がですか」

「交通課、行って来たんでしょう?」

「あ」

「あ、じゃ無いわよ。そのお花畑みたいな顔、何とかしなさい」



 エレベーターの扉がピシャリと閉まる。近江隆之介は今来た道を走りに走り、汗だくになって”道路占用許可”の書類に印鑑を捺してもらったのは言うまでも無い。高梨小鳥に出会ってからというもの彼はとにかく走っていた。





土曜日の13:30、高梨小鳥は緊張していた。


 先週、小鳥が金沢中警察署の交通課に申請した”道路使用許可証”を利用して、金沢市で一、二を争う香林坊三叉路の百貨店前から、武蔵ヶ辻交差点近江町市場前までの百万石大通りを”ゴミ処理場設置反対”を訴えるデモ行進に参加するからだ。


 自主党の狸の田辺五郎議員、藤野建議員は先頭で横断幕を持ち声を上げる。

小鳥はその姿をカメラに収める為、白いブラウスと黒いパンツ姿でその列の歩道側に並んだ。



(えぇぇぇ、こんな事までするのぉ)



 そしてその日、その時間帯、国主党の久我今日子議員は近江隆之介が申請した”道路占領許可証”を利用し、金沢市で一、二を争う武蔵ヶ辻交差点百貨店前のゼブラゾーンに停めた街宣車の上で、”ゴミ処理場移設賛成”の演説を行っていた。近江隆之介はその路肩で、公道を行き交う自家用車やタクシーの窓、通行人に愛想良く笑顔で手を振っている。



大丈夫かなぁ、デモとか初めてだろ)



 案の定、小鳥はカメラを構えながら歩道の自転車によろけそうになって平謝りし、田辺議員の真面目な顔や藤野議員の満面の笑みをフレームインしようと後ろ向きに歩き、赤信号で赤い棒を振りデモ行進を誘導する警察官の背中にぶつかり尻餅を突いていた。



「い、イタタタた」



 ところが問題はその10分後に起きた。国主党の支持者と自主党のデモ行進参加者で小競り合いが起き、歩道側で言い争いが始まった。そこに丁度カメラを構えた小鳥が現れ、無断撮影だ人権侵害だと彼女はもみくちゃにされ、通行人のスターバックスコーヒーのソイラテトールサイズを頭から被ってしまった。


 カメラは無事だったが、小鳥は大惨事。田辺議員と藤野議員はこれから近江町市場側の歩道で、久我議員の街頭演説に対抗する為にチラシ配りを始める。



「小鳥くん、大丈夫かね」

「小鳥ちゃん、これどうしようか」

「先生、家、帰って良いですか?」

「勿論」「気を付けてね」



 そうは言われたものの、頭からソイラテ女はバスにも乗れず、タクシーも素通りした。



「うぅ。ハズカシィ」



 小鳥は胸元を隠しながら前屈みでトボトボと裏通りを歩いた。どれくらい歩いただろうか。不意に背中に温かいものを感じた。


 そこには額に汗を滲ませた近江隆之介が息を切らせ、小鳥の背中に濃灰に細い黒のストライプのジャケットを掛けていた。



「ちょ、おま。何処ほっつき歩いてんだよ」

(お、おま、え?)

「これ、被れ」

「え、いえ。あの、スーツ。汚れます、よ?」

「いい、被ってろ。これから家、帰るんだろ?」

(あれ?何で家とか・・・藤野さんとかに聞いたのかな)



 近江隆之介は市役所方面へ向かうずぶ濡れの小鳥の背中を見て、あぁ自宅に帰るんだろうと思い、その後を追って来たのだ。不思議そうな顔をする小鳥を他所に、近江隆之介はスラックスのポケットに手を入れ、スタスタと歩き出した。彼は小鳥の手前を歩き、濡れたカッターシャツに透けて見えるブラジャーを通行人に見えないように庇っていた。



(あ、見えない様にしてくれてるのか、な)



 以前、楠木大吾議会議長にセクシャルハラスメントを受けそうになった時、近江隆之介は声を掛けただけで結局その場所を立ち去ってしまった。やはり彼は噂通りに冷たい人物なのだ、と小鳥は落ち込んでいた。



助けてくれるんだ)



 小鳥は近江隆之介の背中を見た。



「あ、ありがとうございます」



 スーツを脱いだ近江隆之介の背中。全体的に細身だと思っていたが意外と筋肉質で、肩甲骨辺りの窪みが見て取れ、小鳥は少し見惚れてしまった。



(あの背中に抱きついてみたいなぁ)



、デモとか初めてだろ。怖かったんじゃないのか」

「はぁ」

「頭からスタバとか笑えねぇな」

(また呼び?)

「あの」

「何」


って、近江さんと私、何処かで会いましたっけ」

グホッ

「そ、それ・・・は」

「高校の先輩、とか?」

「い、いやぁ。それ・・は違うと思うけど」



 近江隆之介はその疑問に振り返る事も出来ず、目は上下左右へと泳いでいた。



(や、ヤッベ。つい)

「そう、ですか」

「すまん、口癖なんだよ。悪かった」

「いえ、大丈夫です」



 黒い革靴にペタンペタンとソイラテの足跡が続き、ポプラ並木を真っ直ぐに進んだ。目の前に煉瓦色に黒い格子の金沢市役所が見えて来た。

赤信号で止まる。



「あ、あの」

「何」

「私、市役所に戻るんじゃ、ない」

「家に帰るんだろ?」

「あ、はい」

(あれ?何で、分かるんだろ)



ピッポーピッポー


 機械的な鳥がさえずり青信号を渡る。

二人は市役所の脇を通り、職員駐車場を横切った。



(あれ?何で私の家の方向、だよね)


「足元、気を付けろよ」

(何だかこんな事、前にもあった様な気がする)



 暗い地下道への階段では近江隆之介が危ないからと声を掛けてくれた。フレームレスの眼鏡はシャツで拭き取ってもソイラテの油分が取れずに曇って見えづらい。暗がりだと尚の事、二段下で一歩一歩声を掛けてくれる存在が頼もしかった。



、眼鏡汚れてんだろ」

「は、はぁ」

「すっげビクビクしてんじゃん」

「はい」

「コンタクトレンズに変えたら?ぜってぇ似合う」

「はぁ」



 黒い革靴は交番と消防署の前を通り過ぎてカツカツカツと桜橋を渡った。

行き交う車の流れ。



(あれ?桜・桜橋、あれ?)



 近江隆之介は急な桜坂を迷う事なく登り始めた。



(あれ?何?何で?)



 近江隆之介は車一台分しか通れない細い道路を大通りに抜ける事なく左に曲がり、何の躊躇いも無く真っ直ぐに進んで行く。



「わりぃ、足、早いか?」

「大丈夫です」


 小鳥にとって大丈夫では無いのは今、この状況だった。



(ぜ、絶対、おかしい。どうして!?)



 小鳥のマンションの近くまで来ると、近江隆之介はから武蔵ヶ辻に戻るから心配するなと言った。彼はつい、いつもの調子でしてしまったのだった。



「此処で良いか?」

「あ、ありがとうございます」

「じゃな、お疲れさん。」

「あの、背広はどうしたら良いですか?」

「あ、



(ど、ドアノブ?)



 一体どのドアノブの事なのだろう。


ドアノブ。

ドアノブ。

ドアノブ。


「あぁ、久我議員のドアノブか!」



 問題解決とばかりに小鳥は胸の前で手のひらをパチン!と叩いた。





ピー、プシュー


 近江隆之介は寺町の大通りを斜め横断し丁度バス停に到着したバスに乗り込んだ。


(・・・・あっ!)


 彼は、とんでもない大失敗をしてしまった事に気が付いた。



「ヤッベ。」



 そう。彼はようやく気が付いた。何気なしにマンションに向かってスタスタと歩き、彼女の住むマンションへと送り届けてしまったのだ。


(マジかぁ)

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