若者やサラリーマンが賑やかに酔い潰れる片町。その喧騒が届かない街灯も疎な薄暗い一方通行の細い路地。小さな交差点が等間隔で続く竪町の一角にそのバーは有った。真鍮のドアノブに手を掛ける。木枠にすりガラスを嵌め込んだドアをギィと開けると、カランカランと乾いたカウベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ。」
黒髪をオールバックに撫で付け鼻の下に髭をチョンと生やした落ち着いた雰囲気のバーテンダーがグラスを白い布巾で拭いながら軽く会釈をした。照明は温かなオレンジに染まり仄暗く、ウォールナットの背もたれの付いたカウンターチェアに久我今日子は脚を組んで座っていた。
「お待たせしました」
「そうでもないわ。私も今、来た所」
肩の雫を払いながら藤野建はその隣に腰掛けた。バーテンダーに目配せし、彼女と同じ物をと注文する。
「雨が降って来たの?」
「ええ。」
「いやぁね。」
「雨降って地固まるですよ。」
「それなら良いわね。」
黒いビジネスバッグを持ち上げジッパーを引き、クリアファイルに挟まった書類を取り出そうとすると久我今日子はベージュのネイルでその動きを静止した。
「お待たせしました。」
二人の会話のタイミングを見計らい、バーテンダーが白いコースターをカウンターに置きそっとグラスを乗せた。琥珀色に球体の氷が沈み、卓上ランプの灯りを弾いている。
カチン
「お疲れさま。」
「お疲れさまです。」
少し水滴のついたグラスを手に取った二人は静かにそれを重ねた。
「あなたが誘って来るなんて。」
「僕だって、久我先生がこの話に乗るとは思いませんでした。」
「私にとってあなた
「ええ、先生が喉から手が出る程、欲しいものです。」
「藤野さんは何が欲しいの?」
「人が、人が多ければ多いほど良い。」
「欲張りね。」
久我今日子は、頬杖を突きながらガラスの器に転がる黄緑色した大粒のシャインマスカットを摘み、藤野建のふっくらとした魅惑的な唇に含ませた。