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第13話 キツネの楠木大吾

 そして今日も小鳥は国主党議員控室がずらりと並ぶ6階フロアをウロウロと歩いていた。給湯室から出て来た男性事務職員、コピー室から山積みの冊子を抱えて出て来た男性議員秘書の顔を覗き込みその目を見たが、誰一人反応する者は居なかった。



(うう〜ん、彼奴あやつめ。尻尾を出さぬ)



 一番広くて一番立派な議員控室を何気無しに覗き込んだ時、扉の陰からヌッと手が伸び、小鳥の二の腕をむんずと掴むとその部屋に引き込んだ。



「え、え、え」



 あっという間に小鳥はフローリングの床をズルズルと引き摺られ、議員控え室の奥に連れ込まれた。



「え。」



ドンっ!

 小鳥はその手を振り払う間も無く顎を掴まれると背中を壁に押し付けられた。目の前には、笹で切った様な切れ長の目に細い銀縁スクエアの眼鏡、白髪のオールバック、頬の痩せこけた陰湿な雰囲気の顔。全体的に骨張り、グレーのスーツに白に紺の細いストライプのYシャツ、真っ赤なネクタイ、胸元には濃赤の議員バッジがあった。



(議員さん、だ)


「お前、何をしている」

「え」

「狸んとこの新しい事務職員だな」

「は、はい」

此処対立政党のフロアに何の用だ」

「え。何、とは」



 ドスの効いた低い声。



「狸に頼まれたのか」

「い、いいえ」

「正直に言え」

「違い、ます」

「ふん。まぁ良い」



 そしてその議員は小鳥の顔を凝視した。



「あぁ、お前が噂のか」

「い、痛」



 ギリギリと小鳥の顎を掴む力が強くなる。



「確かに男みたいだが、こうして近くで見ると女、だな」



 ジリジリと顔が近付いて来た。煙草のヤニ臭さに顔を背けた。



「眼鏡を外すとどんな顔だ、ん?」

「あ、あの」



 ニヤリと醜く歪んだ口。骨ばった指先がスルスルと伸び、小鳥の眼鏡のツルに手を掛けた。ヤニ臭い息が頬に吹き掛かる。小鳥は思わず目を瞑った。



(いやだ!)


 コンコンコン 背後の扉が三回鳴った。議員の指が止まる。



「楠木議員、何をされて居るんですか」



 ドアの方から、低く奥深い声が響いた。その楠木議員と呼ばれた男の動きがピタリと止まり、ゆっくりと背後を振り向く。逆光の中浮かび上がる長身、緩いパーマがかった髪。



(楠木、この人が議会で一番偉い人)



 そして恐る恐る瞼を開いた小鳥の目に映ったのは、議員控え室前の廊下に立って居る黒いスーツにグレーのYシャツ、臙脂のネクタイを締めた近江隆之介だった。




「何だ、久我んとこのじゃないか」

「議員控え室に女性を引き入れて何をなさって居るんでしょうか」

「お前に関係ないだろう」

「お言葉ですが、市議会議長として相応しい行動とは思えませんが」

「ふん、こいつが彼方此方嗅ぎ回るから理由を聞いていただけだ」

「そうですか」



 楠木大吾は左指で近江隆之介を差し、あっちへ行けと左右に振った。



「邪魔だ」

「その方は?」

「・・・・狸の事務員だ」

「対立会派への嫌がらせの様にも見えますが?」



 楠木大吾に迫られている高梨小鳥の顔は青白く、足元がガクガクと震えていた。それは突然の出来事に訳が分からないと言った表情で助けを求めていた。



「お前に関係ない、秘書が口出しするな」

「そうですか。失礼しました」

(え、行っちゃうの?行っちゃうの!?)



 近江隆之介が扉の向こうに姿を消すと、楠木大吾は邪魔者が居なくなったとばかりに小鳥の両脚の間にその太腿を割り込ませた。タイトスカートが捲り上がる。気持ち悪い。



(え、何で。やだ)

「じっとしていろ」

「や、でも」

「動くな」



 すると再び、議員控え室の扉が三回コンコンコンと音を立て、蜂蜜の様な甘い声が背後から響いた。



「あらぁ、楠木さん。何なさってるのぉ」



 グレースーツの肩の向こうには、白いカッターシャツに黒いタイトな膝上のスカートを履いた久我今日子が、肘までの栗色の巻き毛を右手で大きく掻き上げて立っていた。相変わらずゴージャスで、真紅の薔薇の花弁が舞い散って居る様だ。瞬間、小鳥の太腿の楠木大吾が飛び上がった。



「お、おぉ。久我くん」

「楠木さんたら、いつからこんな男の子がお好みになっちゃったのぉ?」



 久我今日子はつけまつ毛をバサバサさせ不敵な笑みを浮かべた。豊かな胸を揺さ振り、腰付きも妖しくコツコツと艶消しの黒いパンプスの音を鳴らしてフローリングの床を進む。そして壁に張り付く小鳥と、戸惑いが隠せない楠木大吾の隣に並んだ。



「ヤダァ。この頃、楠木さんからお誘いが無いのはこういう事?」



 久我今日子はベージュのネイルの指先に栗色の巻き毛をクルクルと絡めながら豪奢なマホガニーの机に寄り掛かった。机がぎしっと軋む。さり気無い滑らかな動きで右脚を上げると左脚で足を組んだ。長く細い足、程よい肉付きの太腿、膝上のタイトスカートの皺、その隙間から色香が漂って来る。



「酷いんじゃなぁい?」

「い、いや」

「寂しいなぁ、やっぱり若い子が良いんだぁ」



 真っ赤で厚い下唇を尖らせ、拗ねた仕草で楠木大吾を見上げる。



「そういう事じゃあ無いんだよ」

「ふぅ〜ん」



 久我今日子はベージュのネイルを真っ赤な艶っぽい唇に当て、色気有る仕草をしながら小鳥に目配せをし、出入り口ドアを指差した。



「す、すみません。失礼します!」



 小鳥は深く頭を下げると小走りで廊下に飛び出した。丁度通りかかった事務職員にぶつかりそうになり慌てて身を捩った。



「ご、ごめんなさい!」



 後ろを振り返って見ると、久我議員の腰あたりに楠木大吾の骨ばった手が添えられている。和かな笑い声、指先が蠢いていた。



(き、気持ち悪るっ!)



 政治の少し後ろめたい部分を垣間見たような気がした小鳥はよろよろと歩き、ふかふかの濃紺のカーペットの上に崩れて座り込んだ。ドッドドッツドと動悸が苦しい。酷く口の中が渇いている事に気が付いた。



(こ、怖かった。)



 にしても、ここ数日間、一切姿を見掛ける事のなかった近江隆之介があまりにも良いタイミングで登場し、声を掛けて来た不思議、というか、違和感。



(こんな事ってあり?)



 そしてあの声は何処かで聞いた。



「でも、近江隆之介、助けてくれなかった。」



 ガックリと落ち込んだ小鳥だったが、所詮、秘書は秘書。一介の議員秘書が議員に直接物申すなど以ての外だ。そこで近江隆之介は楠木大吾と対等に渡り合える久我議員に助けを求めたのだが、新人事務職員の小鳥にはそれを推し量る術は無かった。

 小鳥は近江隆之介に「見て見ぬ振りをされた。」のだと、奈落の底に突き落とされていた。



(やっぱり冷たい人、なのかな。)



 小鳥はカーペットに腕を突いて立ち上がり、膝の埃をぱっぱと払うと7階へ向かう階段を登った。その姿を廊下の曲がり角から見送った近江隆之介は、彼女の無事を見届け安堵のため息を吐いた。



(ふぅ、狐のジジィやりたい放題じゃねぇか)



 その近江隆之介といえば、高梨小鳥から逃げ回って居る間に、彼自身も彼女の後ろ姿を追いかけていた。それはまるで太陽を中心に地球と火星が日々ぐるぐる6階、7階フロアを回る。

 そして今日も彼女と追いかけっこをしているうちに、たまたま素行の芳しく無い楠木大吾の部屋に高梨小鳥がズルズルと引き摺り込まれる瞬間を目にし、思わず声を掛けてしまった。



(てか、声、聞かれちまたな)



 天然記念物がつい、思わず茂みから飛び出してしまった。



(ば、バレたって、お、大人なんだから一晩、一緒に寝たとか)



 けれどその事実を今のいままで何も言わず、1ヶ月も放置プレイ。それを知った彼女が自分の事をどう思うのか。

(キッも!)

(最低!)

それ以外のキーワードがあろうか、いや、無い。



(今更どう伝えれば)



 近江隆之介が欲しいのは一度寝た事のあるでは無い。

きゃっきゃうふふ♡

手ぇ繋いでぇ、肩くんだりしてぇ♡

キスとかしちゃったりしてぇ♡

普通の真っ当な同意ありの



「タイミングが、分かんねぇ。」



 あぁ。告白するタイミングはあのマカロン。あの3,080円のマカロンと白い携帯電話を直接手渡せば良かった。後悔しきりの近江隆之介だった。



 小鳥が昼休憩に6階フロアを徘徊し、楠木大吾市議会議長にあらぬ疑いを掛けられ一悶着があったと、国主党の久我議員から議会事務局に一言あったのだろう。翌日出勤した小鳥は、狸、いや田辺五郎議員と藤野建議員から厳重注意を受ける事となった。


「小鳥くん」

「はい」

「小鳥くんは自主党の会派事務職員だね?」

「はい」

「なら、6階の国主党のフロアに行く必要はあるかな?」



 田辺議員の穏やかな中にもピリリとしたものを感じた。



「ありません」

「そうだね」



 横から藤野議員が和かな声で、けれど念を押す様に言葉を続けた。



「小鳥ちゃん」

「はい」

だからね」

「何、か。あるんでしょうか?」

「それは君にはまだ言えないけれど、行動には十分気を付けて」

「はい」



 いつもヘラヘラと軽薄そうな藤野議員の真剣な表情にただならぬものを感じた小鳥は「はい。」と頷いた。厳重注意、それは無闇矢鱈に6階に立ち入らない事。けれど6階に行けないという事は、近江隆之介とすれ違う確率が減ったという事を意味していた。



(あぁ、一目でも良いから会いたいなぁ)



小鳥は白い携帯電話の待受画面を残念そうな顔で眺めた。

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