目が覚めるとそこに”たかなしことり”の姿はなかった。
寝不足気味、思考回路が働かない。大きく伸びをする。シーツの波間にスルスルと左手を伸ばしてみる。生暖かい温もり。けれど羽毛の掛け布団を捲ってみるがそこはも抜けの空だった。
(起きたのか。そりゃそうだわなぁ)
ふと横を見遣る。リビングテーブルの上に置いた筈の
(おお、何もねぇ)
昨夜、脱がせた水色のブラジャー。それと揃いのパンティ、ブラウス、タイトスカート、ストッキング、焦茶のショルダーバッグも無い。
(・・・・・・・)
黒のボクサーパンツを履き、ソファに無造作に置いてあったグレーのスエットのパンツとフードパーカーを着て玄関先の黒いクロックスを履き鍵を開けようとする。感触が軽い、施錠されていなかった。
「ま、開いてるわなぁ」
302号室の高梨小鳥の部屋を確認した近江隆之介は301号室の鍵を掛けた。
(”たかなし”昨夜の事、覚えてっかなぁ)
ため息を吐いて黒いクロックスをポンポンと無造作に脱ぎ捨てるとリビング向かう。リビングテーブルの上で水浸しになった二個のグラス。緩んだキャップのウィスキーの瓶が寂しげに、すっかり日の高くなった太陽の光に艶めいている。
冷たい、何かが爪先に触れた。足元に見慣れない白い携帯電話が落ちている。あぁ、
「マジかぁ」
どうしたものかと考えあぐねても答えは出ない。そのままボフッ!と羽毛布団のベッドに飛び込むと、微かに高梨小鳥の首筋の匂い。スーハーと大きく深呼吸をしてその匂いを嗅ぐ。
(どうするよ、おい)
朝、起きたら全裸。隣には明らかに
(今頃、思考回路爆発、パニック状態なんじゃね?)
お互い「好きだ。」と告白しあったにも関わらず、覚えていないんじゃ如何しようも無い。自分も今更、何て言葉を掛けて良いのかさっぱり分からない。
いやぁ。
お前の事好きなんだけど、
昨夜セックスしました。
でも挿れてないんですよ、大丈夫。
そんな事、言える訳がない。
(もう、俺、絶望的じゃね?)
あ、これ落ちてましたよ。
奇遇ですね、同じ職場の人だとは思わなかったなぁ。
でも昨夜セックスしました。
挿入してませんから。
付き合ってください。
そんな事、言える訳がない。
(こうなったら、何が何でも
いやいやいや、無理だろう。いつか会う。絶対会う。
(でも、それしか思いつかねぇ)
近江隆之介はその白い携帯電話を拾い上げた。ぱっと表示される暗証番号の○○○○四文字の暗証番号。
(・・・・)
悪戯心でランダムに数字を入力してみた。当然、開く筈は無い。
(見てみたい。)
急に湧き上がる興味関心。これではまるでストーカーじゃないか、いや、犯罪。それでもこの白い携帯電話の中身が見てみたくなった。
「名前、漢字は・・・・やっぱり高梨、かな」
近江隆之介は来る開庁日、月曜日を楽しみに、寝不足を解消すべくもう一度羽毛布団に包まった。
8:45
開庁前のチャイムが鳴る。
近江隆之介は議会事務局のカウンターの中に居た。これも議員秘書の特権だ。
「会派職員の名簿見せてくれる?」
「あ、はい。何かありましたか?」
「ちょっと確認したい事があってね」
事務職員がスチール棚の中から令和5年度と書かれたA4版の分厚いバインダーを取り出した。けれど採用された事務職員の数は少なく、
1998年6月1日生まれ
住所は寺町、自分と同じ番地、プラザ寺町、302号室、本籍はかほく郡津幡町。
(よし、間違いない)
「ありがとう、助かったよ」
そんな近江隆之介の後ろ姿を見掛けたヅラ疑惑の議会事務局長が、おはようと声を掛けて来た。
「近江くん、この前は助かったよ」
「はい?」
「高梨くんタクシーに
「あ、はい」
「ありがとう、ありがとう助かったよ」
そう言いながらヅラ疑惑は自分のデスクに座った。
「いえ、如何致しまして。失礼致します」
冷静な表情を保ちつつも近江隆之介は心の中でガッツポーズをした。そしてその彼の足は人目に付かない奥まった廊下へ急いだ。黒いジャケットの胸ポケットから取り出したのは白い携帯電話。宜しくないと頭では分かりつつもその画面をタップしてスライドさせ暗証番号の○を眺める。
(見たい)
何を見たいのかは自分でも謎だがとにかく
(見たい)
ストーカー紛いである。
(携帯なんか見てどうするんだ。意味ねぇだろ)
それでも指が携帯電話の画面へと近付く。
(いや、今時、誕生日がパスワードなんて)
0 6 0 1
何という事だろう、簡単にパスワードが解除され画面がパッと明るくなってしまった。馬鹿な事をした。そしてそれを見てしまった自分を悔いた。
「
壁紙として表示されたのは高梨小鳥の所属する会派、自主党の
(何だよ、
龍之介とは真逆のタイプである。
(まじか。俺の事、好きだって言っただろ?なんで藤野なんだよ)
彼の恋情は儚くも散ったかの様に思えた。