近江隆之介は301号室のディンプルキーを鍵穴に差し込みそれを右に回した。
カチャン
やや重い音がしてドアノブが回る。
ゴクリと喉が鳴った。
取り敢えず、この花冷えの夜に放り出す事も気の毒だと、部屋に連れ込む理由をあれこれ瞬時に脳裏で思い描きながら、床に座り込んでいた”たかなしことり”を立ち上がらせた。
「良いか、俺の部屋に入るぞ」
「はい。分かりました」
「分かりましたじゃねぇよ」
とりあえず玄関先に座らせて黒いパンプスを脱がせ、両脇を抱え、ずりずりとリビングまで運ぶ。
「くっそ、重てぇ」
外廊下に落ちた焦茶のショルダーバッグを拾い上げてソファの上に置き、フレームレスの眼鏡を外してリビングテーブルの上に置いた。
「・・・・さて、と」
近江隆之介は腕組みをして考え、とりあえず、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しグラスに冷たい水をトプトプと注ぎ、ゴクゴクと飲み干した。
「・・・・ふぅ」
「んんん」
もう一度ペットボトルを傾けグラスに半分ほど水を注ぐ。”たかなしことり”の目の前に水滴の付いたグラスを「ほれ。」と差し出すと、彼女はにっこりと微笑んで受け取った。
「ほれ、飲め」
「ありがとう」
冷たい水をごくんと飲み込んだ”たかなしことり”は、ぷはぁと気持ち良さげに息を吐いてトイレに行きたいと言い出した。
「トイレ行きたいですぅ」
「なら立てよ」
その背中はトイレへと消えた。
「さて、どうしたもんかな」
近江隆之介は臙脂のネクタイを緩めるとスーツをハンガーに掛け、ネクタイを外してソファに投げた。
「どうしたもんかなぁ」
そして床にぞんざいに置いてあった乾いた洗濯物の山から黒のボクサーパンツを引っ張り出し、ソファのグレーのスエットのパンツとフードパーカーを着た。
「とりあえず、着るもんだな」
そして”たかなしことり”の為に、ビッグサイズの丈の長い黒いTシャツをチェストの二段目から取り出し、トイレに声を掛ける。
「おい、たかなし。もう良いか」
「ふあい」
「いい加減出て来い、俺もトイレ行きてぇ」
近江隆之介は白くて軽いトイレのドアを2回ノックした。
「ふぁい」
「おい」
「ふあい」
返事は良いが一向に出てくる気配は無い。
「すまん、開けるぞ」
案の定、便器に座りむにゃむにゃと惚けている。部屋にズルズルと引き摺り出し放置。
「起きろよ、いい加減」
近江隆之介はトイレのドアを閉め、用を足しながら悩む。
(酔ってる女に手ェ出すほど飢えてないんだよなぁ)
手を洗いトイレから出てくると、”たかなしことり”は相変わらずそのままだ。近江隆之介はその前にしゃがみ込んで、その酔いどれの頬をペシペシと叩いた。
と、そこで事もあろうか”たかなしことり”は、その場でカッターシャツのボタンを一個、二個と外し、水色のブラジャーのホックに手を掛けた。着心地が悪く、辛いのだとか何とかブツブツ呟いている。近江隆之介は胡座を組んでその光景を眺めた。
「いやぁ、すげぇな。予想外の展開」
すると”たかなしことり”は手先が覚束ないらしくホックが外せずに何度も手を掛け、疲れて腕を垂らし、を数回繰り返して終いには近江隆之介の顔を見てとても困った顔をした。
「これ、外してぇ」
「マジか」
「まじぃ。外して、これ、もう苦しいぃ」
頼まれたのなら仕方ない。近江隆之介は”たかなしことり”と向き合った状態で背中に手を回すと、慣れた手付きで水色のブラジャーのホックを外した。
ハラリと落ちる布切れからポロリとこぼれ落ちる白い胸。
「意外とでかいな、胸」
「でかい」
「でかい」
「もう、寝よう、眠いぃぃ」
近江隆之介はその有難い言葉に両手を合わせて拝んだ。
「たかなし、俺が誰か分かるか?」
「分かるぅ」
「誰だよ」
「近江隆之介ぇ」
「それならば、遠慮なく」
その
(後は
そして、ベッドの羽毛掛け布団を引き剥がした。
すると”たかなしことり”はずるずるとホラー映画の主人公の様に床に爪を立て、膝をうねらせてカーペットの上を這い、肘をベッドに掛けると器用にその上に身体を横たえた。こうなると裸体がどうとか、彼女の腰付きに欲情するといった感覚も半減した。
「こえぇよ」
近江隆之介は後頭部をポリポリと掻きながら部屋の電気を消すと、羽毛の掛け布団を引き摺って頭から被り、”たかなしことり”の隣に横になった。自分から手を出す気はなかった。”たかなしことり”が手を出してきたらそれはまた全く別の話だ。グレーのカーテンの隙間から駐車場の街灯の光が白々と差し込む。同じベッドの中で目を瞑る”たかなしことり”の面差しはやはり綺麗だった。
(これが泥酔状態でなけりゃ最高なんだがな)
キュポンと耳の中を掻き、”たかなしことり”に背中を向けて目を閉じると肩甲骨辺りに吐息にも似た息遣いを感じ、背中の窪み辺りにその胸の柔らかい感触、乳首の硬さ、心臓の鼓動を感じた。
(ま、これでも十分。が、明日の朝、どうすっかなぁ)
時計の針の音が、ちっちっちっといつもより耳に大きく、しばらくすると近江隆之介の期待通りに”たかなしことり”の腕が彼のみぞおちに回され、その細い指先がぬいぐるみを触るかのように上下し出した。
(こいつ、俺のこと毛布かなんかと勘違いしてんじゃねぇか?)
「おい、たかなし」
「ん」
「それ以上触んな」
「んん」
その制止も”たかなしことり”の耳には届かず、背中から羽交締めにした。
「なぁ、たかなし」
「んん」
「お前、実は起きてる、とか、そんな感じじゃねぇの?」
「ん〜そうかなぁ」
「喋ってんだろ」
「ん」
近江隆之介は”たかなしことり”に向き直ると左肘を突いてその横顔を見た。
右手の指先は彼女の短い髪の毛をサラサラと弄っては放してを繰り返す。こうして顔だけ見ていると、綺麗だがやはり
「なぁ、俺さ」
「うん」
「返事してんじゃねぇかよ」
「ん」
寺町の大通りを救急車のサイレンが遠くから近く、そして通り過ぎた。
「俺さ、お前の事が・・・好きなんだよ」
「ん?」
「好きなんだ」
「うん?」
「こんなん、酔ってねぇと、言えねぇし」
すると”たかなしことり”はふぅスゥと軽く寝息を立て始めた。慌てた近江隆之介は彼女の頬をペシペシと叩き、その鼻を摘んだ。
ふごっ
「お前がこんなに酔ってるとか、想定外だろ」
「ん〜ん」
「俺が誰か分かるか?」
「ん〜ん」
「ダメだこりゃ」
近江隆之介は右腕を”たかなしことり”の背中に回してぎゅっと抱き寄せた。
酔いが回った身体は少しばかり火照り熱かった。
「おい、起きろよ」
この場で今、”たかなしことり”が目を覚ましても良いとさえ思った。この告白を聞いて欲しいと切実に願った。すると意識がはっきりして来たのか彼女の手が近江隆之介の背中に回った。
”たかなしことり”の腕が近江隆之介の背中で絡まり、近江隆之介の手のひらが”たかなしことり”の肩甲骨の窪みを撫でた。ふとベッドボードの上の時計を見遣る。
(・・・・まだ、こんな時間か)
歓送迎会を早々に中座した二人は、金曜夜の序盤にベッドで抱き合っていた。22:40、時計の秒針までクッキリと見える。
「うおっ、と」
近江隆之介はコンタクトレンズを外していない事に気が付いた。
(ヤッベェ、明日地獄を見るところだったわ)
洗面所でコンタクトレンズを外し洗浄液で一日の汚れを洗い流す。コンタクトケースに薄青いレンズを右、左と落とした。
パチン
ついでに歯も磨く。数時間前は、初めて会話出来るといった程度の期待を抱き庁舎内のトイレで歯を磨いていた。今、これはこれで悪くは無いが、肝心の”たかなしことり”は意識不鮮明。近江隆之介的には、一夜の相手を探しに出掛けたつもりでは無い。
(この状況じゃ、なぁ)
洗面所の電気を消し、トイレのドアを開けた所で心臓が止まるかと思った。”たかなしことり”が暗がりのベッドの上で上半身を起こしてこちらを見ていた。お互い全裸である。
「ここ、何処」
「俺の部屋」
「誰の部屋」
「市役所の近江だよ」
すると彼女はパン!パン!と手を叩き、ニヤニヤと笑う。
「近江隆之介」
「お前、何で俺の名前知ってんだよ」
「秘書の長野さんに教えてもらったぁ」
(あ、なるほどね)
意識が戻ったのならこの馬鹿げた状況を正そう。近江隆之介は脱ぎ捨てた黒いボクサーパンツを履き、ベッドの上の”たかなしことり”の頭に黒いビッグTシャツをズボッ!と被せた。
「ほれ、着ろ」
”たかなしことり”はズルズルとベッドから降り、カーペットの上にアヒルのような座り方で寛ぎ始めた。
「飲もう!」
「水か、ちょっと待て」
「違う!」
「何だよ、テンション高ぇな」
「私、ビールより、日本酒より、焼酎より」
「あぁ、飲まされてたな」
「ウィスキーが好きなの!」
彼女の指は、飾り戸棚に並ぶウィスキーの瓶を指差した。
「まだ飲むのかよ」
「近江隆之介と飲みたかったの」
「ホイホイ」
「どんな声か聞きたかったの」
「こんな声だよ」
「好きなの」
時間が止まった。
「ウィスキーが」
「近江隆之介が好きなの」
いやいやいやいや、待て、待て、待て。こんな酔いどれ鳥の言う事なんざ、明日には吹っ飛んでる。それでもこの意外で突然な
「俺たち、会った事ねぇぞ?」
「あった」
「そんな暇ねぇぞ、何か間違えてね?」
「あった」
「いつ」
「目が合った」
「目?」
「エレベーターで、目が合った」
その瞬間、あのエレベーターで視線が絡み合ったトキメキが近江隆之介を貫いた。
(こいつ、気が付いてたのか。)
思わず振り向いたあの時、自分はどれ位間抜けな顔をしていただろう。きっと口も半開きで情けない顔をしていた筈だ。急に小っ恥ずかしくなった近江隆之介は飾り棚の、何処かのおっさんのラベルが貼られたブラックニッカの黒っぽいボトルを手に、キッチンへ向かった。
パチパチと点くLEDライト
冷凍庫の氷の塊がグラスの中でカランと少し乾いた音を立て、琥珀色の液体をグラスの底から1cmと少し、そして水をトプトプと注いだ。指先でカラカラと回す。部屋に響く魅惑的な音。グラスの中で揺らめくウィスキーの波。
「ほれ、ウィスキー」
両手に持ったグラスを一つ”たかなしことり”に手渡した。
二人はベッドに背中を預けて隣同士に座った。触れ合う肩の感触。グラスで乾杯、氷がカランと音を立てウィスキーへと崩れた。
「へへぇ」
「何、笑ってるんだよ」
「なんだかさぁ」
「おう」
「おじさんたちに囲まれた時、終わったぁって思った」
「あぁ、すまんな。ストレス溜まってんだよ」
両手でグラスを持った”たかなしことり”がヘラヘラと笑いながら琥珀色のウィスキーを口に含む。
「あんま、飛ばすなよ」
(折角、まともになり掛けてんのに、酔いどれ鳥は勘弁)
「会いたかったんだぁ」
「俺にか?」
「うん。だから挨拶した時に居なくてさぁ、がっかり」
「遅刻したんだよ」
「へへぇ」
急に”たかなしことり”は真顔になって近江隆之介の顔をじっと見た。
「なに」
少しばかり目が座っていたが、黒目がちな目は潤んでまつ毛が影を作りゴクリと喉仏が上下する程に魅惑的だった。
「近江隆之介が好きなの」
自然に唇が重なり合った。
そこからはもうお決まりのコースだ。お互いが強く抱き合い、唇が何度も何度も重なり舌が絡み合う。ウィスキーの香りがお互いの口腔に広がって吐息となって鼻から漏れ出る。
「ん、ん」
近江隆之介は”たかなしことり”の黒いビッグTシャツをやや荒々しく脱がすとベッドに傾れ込んだ。息が荒い。お互いウィスキーに酔い痴れていた。
「たかなし、覚えとけ」
「ん」
「俺、お前の事が好きなんだ」
「ん、ん」
「好きなんだよ」
「あ」
「覚えておいてくれ」
”たかなしことり”の足の指先が近江隆之介の爪先をなぞるように蠢き、指の間に滑り込むと結んで、開いて、また指先を味わう。
「ちょ、おま、エロ」
「へへへ」
「へへへじゃねぇよ」
近江隆之介は”たかなしことり”の両頬をギュッと両手で包むと閉じ掛けた目を見て何度も何度も呟く。
「お前が好きなんだよ、忘れんな」
「うん」
「もう2度と言わねぇ、好きなんだ」
「うん」
「覚えとけ」
お互いの指先がお互いの身体を愛おしく撫でた。
「好きなんだよ、一目惚れなんだ」
「うん」
「覚えとけよ」
「うん」
小鳥の指先が近江隆之介の頭に手を回す。
「あ、あ。」
近江隆之介は無我夢中で”たかなしことり”の独特の匂いを堪能した。ところが”たかなしことり”の意識は次第に朦朧となり、非情にも軽く寝息を立て始めたのだ。
「んーー」
「ま、マジかよ」
「んぅーー」
「たかなし、お前、信じらんねぇ」
頬を摩っても、肩を揺さぶっても反応が今ひとつしっかりしない。
「おぃぃ、たかなし、寝んなよ。」
「んん。」
「マジかよ、起きろよ。」
「ーーんぅ。」
「おい。
「スーー。」
「おい。」
近江隆之介は酔い潰れた”たかなしことり”を抱くほど非常識ではなかった。
(あーーー、何やってんだ。俺。)
庁舎内で冷酷な
物悲しい夜は更け、最後にウィスキーをストレートで一杯。そして彼はモゾモゾと”たかなしことり”が寝息を立てる羽毛掛け布団に潜り込んだ。