今夜の歓送迎会は議会事務局長の挨拶から始まり、次はお待ちかねの新卒中途採用職員の挨拶と自己紹介、その中に彼女もいる筈だ。こんな千載一遇の機会は無いだろう。名前、住所を尋ねて同じマンションなら帰りのタクシーぐらい隣に座っても許されるだろう。
(LINE交換くらいはイケんじゃね?)
近江隆之介はいつもに無く積極的で前のめり気味だった。ただ此処までは良かった。
(・・・・・くそ)
「何よ、機嫌悪いわね」
「いいえ」
「そんなに待たせたかしら?」
「いいえ」
いつもは暇を持て余し、ダラダラと運行記録簿をつける近江隆之介だったが今夜は違った。まるで別人の様に手際よく公用車を洗車し、運行記録簿を記入して警備室に走った。職員出入り口横のトイレで髪の毛を濡らしてパーマの縮れ具合を手直しすると、歯ブラシを取り出し口中を泡だらけにした。
(よし、行くぞ!)
「お疲れ様でした!」
近江隆之介は両手で頬をパンパンと叩き、黒い革靴を鳴らして広坂大通りの夜桜ぼんぼりの下を走りに走った。
香林坊の三叉路の交差点で二の足を踏む。右折車線の矢印が歯痒い。
(早く、早く変われよ、おい!)
ピッポーピッポー ピッポーピッポー
機械的な鳥の鳴き声が横断歩道の青信号を告げる。人並みを掻き分けて白い線を一段跳びに渡る。汗が滲む。
(なんか、
片町アーケード街。並んだ店先を一軒、二軒、三軒と数える。マクドナルドの斜向かいの路地、赤提灯に焼き鳥の匂いが香ばしい小さな十字路に飛び込んだ。
「あ、すんません!」
並んで歩く学生服の肩にぶつかり手を挙げる。
はぁ
はぁ
はぁ
はぁ
スーツのジャケットに脇汗を掻き、間口の狭い古民家風居酒屋の引き戸を開けた。
「ヘィ、らっしゃ〜ぁい!」
ジャラジャラした暖簾を潜ると、威勢の良い掛け声が近江隆之介を二階へと誘った。黒い革靴を脱ぐと靴下の裏まで湿っぽい。黒い木製の階段をギシギシと上る。もう既に皆、
(どこだ、
キョロキョロと辺りを見渡すと、出入り口に程近い座敷のテーブルに、議会事務局のジジィ共に囲まれ酒を注がれている彼女を見付けた。
(・・・・いた)
ノーフレームの眼鏡の下の頬は赤らんでいた。あの輪の中にどうやって入ったら良いのか分からず、開式に遅れた事を心から悔やみ、姉の事を恨めしく思った。ぼんやり立っているとカツラではないかと噂されている議会事務局長が手招きをした。
「おぉ、近江くん遅かったね、ま、ま駆けつけ一杯」
「あ、どうも。遅くなりまして」
「久我さんの送りかい?」
「はい」
「君も大変だねぇ」
ずんぐりとした指の議会事務局長が注ぐビールのグラスに作り笑いで会釈しながら耳を側立てていると、彼女の名前が
「いやぁ、小鳥、ことりって面白い名前だねぇ」
名前が
「で、今日の会合はどうだったんだい?」
「はぁ、まぁ、揉めたようで」
「ゴミ問題は深刻だからねぇ」
いや、深刻なのはこの状況だ。近江隆之介は汗だくになって金曜日の人混みを掻き分けて全力疾走し、カツラ疑惑の議会事務局長とビールを呑む為にここに座っているのでは無い。
(どうするよ、しかも
彼女の顔を眺め、手元の焼酎のグラス越しの胸のラインを眺め、テーブルの上の枝豆の山を眺め、その下の暗がりに目を遣ると、手癖の良くない議会事務局職員の左手が動いた。それはスルスルと遠慮なく伸び、”たかなしことり”の正座したタイトスカートの太腿に辿り着きジワリと動いている。
(セクハラも大概にしろや)
我に帰ると近江隆之介は、彼女の二の腕をむんずと掴んでその場所から立ち上がらせていた。傍に置かれていた焦茶のショルダーバッグを拾い上げる。
「皆さん、ちょっと飲ませすぎじゃないですか」
「あ、すまん」
「タクシー呼んでください」
一瞬、場が静まり返る。確かに彼女の意識は朦朧とし、足元もふらついていた。
「そ、そうだね。近江くん、これ使って」
「ありがとうございます」
「彼女、寺町だから」
(・・・・やっぱり、うちと同じマンション)
やはりこれ以上の飲酒は宜しくないと判断した議会事務局長は、北陸交通のチケットを近江隆之介に手渡した。ギシギシと黒い木の階段を”たかなしことり”の脇を支えながら降りる。
「大丈夫か、足、気ぃつけろ」
すると”たかなしことり”は近江隆之介の顔を覗き込み、顔を真っ赤にして、アルコール臭い息で呟いた。
「あ、近江隆之介」
「お、おう」
(俺の名前、知ってんのか)
そして靴はどれかと尋ねると店員が番号の札を渡して(これですね。)と黒いパンプスを三和土に揃えて置く、意外と意識ははっきりとしている様でちょいちょいと爪先を突けて上手い事履いていた。
「帰るぞ」
「はぁい」
近江隆之介に脇を抱えられた高梨小鳥はジャラジャラとした暖簾を潜った。
金曜日の片町はそこそこ賑わっている。片町スクランブル交差点では呼び込みの黒服があちらこちらに声を掛けては手招きをしていた。タクシーの行列は何処までも伸び、その中から北陸交通のタクシーを選んで後部座席の窓をノックした。
「悪いんだけど、寺町まで」
金沢市役所のタクシーチケットを手渡す。800円、近距離の客はやはり一瞬嫌な顔をされるが致し方ない。ルームミラーのドライバーの目を見ながら軽く頭を下げた。
「あ、そこのカメラ屋曲がって下さい」
「はい」
タクシーのウィンカーがカチカチカチと左に折れる。近江隆之介の心臓もドクドクドクと跳ねる。
(どうする、どうする、俺)
この角を左に曲がれば突き当たりにマンションが見えて来る。
「”たかなし”、起きろ。着いたぞ」
その間、アルコール臭漂う”たかなしことり”は、近江隆之介の肩に頭を預けたまま微動だにしなかった。確か302号室のネームプレートは、たかなし。
議会事務局長も言った。
「彼女、寺町だから」
間違いない筈だ。タクシードライバーにチケットを手渡すと、下心を見透かされたかの様に彼の口元がニヤリとほくそ笑んだ、そんな気がした。
「ありがとうございました」
「どうも」
タクシーのテールランプが暗闇に消え、走り去るのを見送ってマンションのエントランスに向かう。
「おい、おい」
「・・・・・」
「おい、たかなし」
肩を振ってその頭を揺すると反応があった。
「は、はい」
「マンション着いたぞ」
「はい。ありがとうございます」
エレベーターに乗り込むと、彼女は条件反射の様に3階のボタンを押した。
間違いない”たかなしことり”だ。
「たかなし、お前、何号室だ」
「はぁい」
「はぁいじゃねえよ、何号室」
「302」
ポーン
すっかりこちらへ身体を預けた彼女を半分引き摺りながら、外廊下を一番端に向かって歩く。ずるずると結構な重さだった。
「たかなし、着いたぞ。鍵、鍵出せ」
「えぇぇ」
「鍵、だよ鍵」
「鍵、鍵」
抱えられた片手で焦茶のショルダーバックを弄るが、逆にヒモの部分がぐるぐると首に絡まってとんでもない状態になっている。
「お前、そこ座ってろ」
すると彼女はヘナヘナとまだ冷たいだろう四月の廊下に座り込み、アルコール臭い息を吐いては吸っていた。ショルダーバッグの中には白い携帯電話、黄色い長財布、眼鏡ケースにハンカチ、リップクリームが入っていたが鍵らしき物は見当たらなかった。いや、正確には見当たらない程度に探していたのだと思う。
「たかなし、俺の部屋来るか?」
「誰の」
「近江だよ、市役所の近江隆之介」
「あぁ、近江さん、知ってる、知ってる」
「知ってるじゃねぇよ」
俺は胸ポケットから部屋のディンプルキーを取り出し鍵穴に差した。