目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
4月3日 月曜日 エレベーター 近江隆之介

キッ!


 近江隆之介は金沢市役所庁舎裏の自転車置き場の定位置に自転車を停めると、サドルをぽん!とひと叩きして階段を駆け上がった。開庁前の庁内は節電の為に電灯も疎で、北國銀行のシャッターは開く気配も無く薄暗い。

 議員出勤の電光掲示板、久我今日子くがきょうこ市議会議員の名前は既に点灯している。



(姉貴、珍しくはえぇな。やる気満々じゃん)




近江 隆之介おうみりゅうのすけ35歳、独身。

ヒョロリとした体格だが胸板は厚く、臀部や太腿、脹脛はキュッと引き締まっている。身長は185cm、髪の色は黒、緩くパーマが掛かった軽めのツーブロック。顔は面長、眉毛はスッと真横に、奥二重で小鼻は小さく薄い唇、面差しはどちらかと言えば冷たい印象だ。


金沢市議会議員 久我今日子くがきょうこ議員秘書、勤務歴10年


近江隆之介は久我議員の実弟だが敢えて公にはしていない。





 カツカツカツと黒い革靴の踵を鳴らし、向かって右側のエレベーター、閉まりかけた扉に滑り込んだ。



「おっ、と。すみません。おはようございます」



 市役所職員に挨拶をし、一番奥に場所を取った。黒いスーツのポケットからネームタグを取り出し首に掛け、何気なく右横を向くと、新卒中途採用職員の群れの中に妙に艶っぽい横顔があった。


ノーフレームの眼鏡を掛けた切れ長の目。

長いまつ毛。

少し膨らみのある唇。

ショートヘアーの綺麗な頸。



(・・・うっわ。まつ毛長ぇなぁ)



 それは久我今日子のバサバサとした人工的なつけまつ毛などでは無く、生来の活き活きとしたまつ毛。ノーフレームの眼鏡に隠された涼やかな目元が印象的だった。



(こりゃあ、女性職員が喜ぶわ)



 その彼は2階、3階、4階と降りる気配が無かった。



(議会事務局職員?)



 エレベーターの人気ひとけが疎になり、ふと目を足下に遣るとそこには黒いパンプス、素足に白い靴下、膝丈のタイトスカート、目線を上げると白いカッターシャツの中には程良い膨らみ。



(え、何、こいつ女!?)



 その横顔は男性そのもので全身を見遣るまで女性だとは予想もしなかった。


ポーン


 6階、ここは金沢市議会議員(与党)の議員控室がある、此処で俺は降りる。彼女が降りる気配は無く、エレベーターの味気ない床に目線を落としている。上階、7階に向かうという事は、議会事務局職員か(野党)の事務職員といったところか。



「あ、降ります」



 黒い革靴が足を一歩踏み出す。エレベーターを降りた途端、其処から立ち去る事が名残惜しくなり、つい背後を振り返ってしまった。扉が閉まり掛けたその瞬間、と目が合い、痺れるような感覚が全身を貫き心臓が跳ね上がった。



(・・・・綺麗、だ)



 彼は騒めくエレベーターホールのど真ん中で思わずそんな事を口走りそうになり、慌てて口を噤んだ。


 もしクソ我儘な久我今日子が俺に出勤を早めろと電話をして来なければ、この時間は未だ部屋で歯を磨いていた。鱗町交差点、あの信号が赤だったら、このエレベーターに乗ることは無かった。庁舎裏自転車置き場の階段を歩いて上っていたら、俺は彼女に出会わなかった。


 もし庁舎内で何気なくすれ違ってもこの衝撃的な感情が芽生えたかどうか分からない。近江隆之介は無くに一目惚れをしてしまった。



キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン



 始業開始のチャイムが鳴った。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?