目を疑いたかった。だけど、疑いようもなかった。
アジトの台所は解体所を兼ねている。中央の大きな台の上に、みずほが仰向けに横たわっていた。みずほじゃないと思いたかった。だけど、あの何度も触れた亜麻色の髪も、ほおも、丸っこい肩も全部、みずほだ。俺が一番、よく知っている。腕と足をロープで台に固定されていた。
腹が裂かれて、内臓が飛び出して散らばっていた。おびただしい量の血だ。止血などせず、赤ん坊を取り出すためだけの目的で腹を裂いたのだろう。痛いなんて言葉では表現できない苦痛に襲われたはずだ。床に血溜まりが広がっていた。台の奥にもう一つ丸いテーブルがあり、その周囲に6人の男がいた。
一人は見覚えがあった。スウィーニーだ。手に大きなナイフを持っている。他の4人は明らかに魔族狩りっぽい、汚い服を着た男たちだった。いずれも返り血が腕やシャツに飛び散っていた。
そしてもう一人。こいつは明らかに魔族狩りではない。高級そうなジャケットを着た初老の男だった。見た目は初老という感じだが、髪はふさふさとしていて真っ黒だし、肌の張りや艶もいい。
60歳くらいに見えた。6人の中ではもっともまともな身なりをしているものの、やっていることは一番、狂っていた。
男は椅子に腰掛けて、テーブルの上のものをフォークとナイフで食べていた。真っ赤な塊だ。口の周りは赤い液体で濡れていた。塊には頭と小さな腕があって、人間の形をしていた。ちょうど肉片を小さく切って口に運ぼうとしているところだった。そいつは、みずほの腹から取り出した赤ん坊を、今まさに食べていた。
誰かが何か言いかけるのが終わるか終わらないかの間に、襲いかかった。
ひと息で台に上がるとみずほを飛び越え、手前にいる若い男の頭を砕け散れとばかりに蹴った。さらにもう一人。これは少し目測を誤って首に当たってしまったが、逆にそれがよかった。骨が折れる感触があった。死んだかどうかはわからないが、少なくとも意識は飛んだはずだ。
台から飛び降りながら、まだ呆気に取られている男の手からナイフを奪い取ると右、左とそれぞれ喉仏に突き刺した。
「あっ!」
やっとスウィーニーが声を上げた。もう遅い。左の拳を顔面に叩き込んだ。鼻が折れる感触があった。目から火が出ただろう。返す右手で左の首筋に深々とナイフを突き刺すと、勢いでスウィーニーは後ろへひっくり返った。深く刺さりすぎて、手からナイフが抜け落ちた。
ここまでひと息だった。着席していた身なりのいい男に向き直る。
「ひ、ひいっ」
男は椅子に座ったまま後ずさりして、ひっくり返った。
「た、助けてくれ。なんでもするから。い、命だけは」
声を出しているだけでも、大した度胸だと思った。もう死ぬしか選択肢がない時に、命乞いとは。
テーブルの上を見る。間違いなく赤ん坊だった。もうしばらくすれば生まれてくるはずだった、俺とみずほの子供。価値の結晶。今はもうただの肉の塊だ。母親と同じように腹を裂かれている。まず肝から食べたのだろう。
気がつけば手が血まみれだった。何か武器がないかと周囲を見回すと、みずほのいる台の上に解体に使うのであろう、ナイフやノコギリやハンマーが置いてあった。一瞬迷って、ハンマーを手にする。
「か、金ならいくらでもやる。だから、助けて」
俺に向かって手を合わせる品のいい男。助けるわけがない。脳天に向かってハンマーを振り下ろした。ぐしゃん。いいところに当たった。衝撃で目玉が飛び出す。こんなものでは許さない。もう1発、2発。頭蓋骨が砕けて、脳が飛び散った。頭の上半分が飛び散ってなくなるまで、殴り続けた。
その後のことは記憶が曖昧だ。最初に頭を蹴った男が生きていたので、ハンマーで殴って殺した。みずほを見に行くと、完全に冷たくなっていた。なんと表現すればいいのだろう。魂が抜けたような、人形のような感情のない死に顔をしていた。軽く笑っているように見えた先生とは大違いだ。薄目を開けていたので、手で押さえて閉じてやった。
赤ん坊も、もちろん死んでいた。血まみれで、どんな顔だったのかよくわからない。髪が生えていた。手でぬぐってやると、みずほと同じ亜麻色だった。せめて、きれいに埋葬してやろう。
裂けた腹をできるだけ丁寧に元に戻していると、知らない男がやってきたので、殴り殺した。他にもいるのではないかと別の部屋も見に行って、あと2人殺した。いずれもハンマーを使った。俺の戦い方とハンマーは相性がよかった。
アジトにいる魔族狩りが全滅したことを確認して、赤ん坊とみずほの処置を続けた。赤ん坊は別の部屋から持ってきたシーツできれいにくるみ、みずほの腹に戻してやった。戻す前に血をふいてやると、ほっぺたのふっくらとしたかわいらしい顔が見えた。抱き上げて、胸に押し付けてみる。助けてやれなくてすまなかった。せめて、この感触を忘れないでおこう。
みずほの内臓はめちゃくちゃにされていて、うまく収まらなかった。なんとか赤ん坊を入れると、みずほの遺体ごと別のシーツで包んだ。
その時、ふと思った。台所に到着してすぐにみずほを救助していれば、助けられたのではないか。まだ息があったのではないか。そっちを確認するのが先だったのではないか。怒りに任せて連れ去った連中を皆殺しにしたけど、そんなことをしている場合ではなかったのではないか。
その思いはどんどん心の中でどす黒く膨らんでいって、息が苦しくなった。
そんなはずはない。あの遺体を見ただろう。あの血溜まりを見ただろう。俺が台所に着いた時、もうみずほは死んでいた。助けられなかった。仮に助けられたとして、6人の男が手当てしているところを黙って見ていてくれたか?
必死に心の中で言い訳をしている。だが、だが、だが。もしかして助けられたみずほを、みすみす殺してしまったのではないか。みずほをアジトから運び出しながら、頭の中で今更どうにもならない疑念がずっと渦巻いていた。それをなんとか押さえつけて、アジトに油を撒いて火を放った。こんな汚らわしい建物、この世に存在していてはいけない。
どこに埋葬してやろう。アジトが並ぶ中央高地東側は絶対にダメだ。みずほが心底、怖がっていた魔族狩りの拠点なんて、心が休まるわけがない。では、東方に連れて帰るか?それも嫌だった。あそこも、みずほがさらわれて怖い思いをしたところだ。魔族狩りの手の届かないところがいい。そして、いっそ東方からも離れたところがいい。
そうだ。花がいっぱい咲いている場所に埋めてやろう。花が大好きだったみずほが毎日、花をめでて過ごせるところがいい。あてはなかった。東に帰るつもりがないのなら、西に行くしかない。
馬にみずほと赤ん坊の遺体を積むと、中央高地を越えた。北に行くべきか、南に行くべきか。北ならば守護者がたくさんいて、魔族狩りを追っ払ってくれるかもしれない。いや、守護者にとってヤツらは対魔族という意味ではむしろ味方だから、逆によくない。ならば、南か。南方はいまや魔族の魂の故郷だ。だけど、花は咲いているのだろうか。
学校を飛び出してから飲まず食わずだったので、次第に朦朧としてきた。馬の行く気に任せて進んでいくと、ふと花の香りがした。気がつけば街道に出ていた。左手に川が流れていて、右手の奥が緩やかな斜面になっていて、小さな白い花がたくさん咲いていた。
近寄ってみると、見事な花畑だった。なんの花だろう。もっとみずほに聞いておけばよかった。少しうつむいて花がついているので、地中からよく見えるはずだ。川が増水しても流されないような小高いところを選ぶと、手で穴を掘って、みずほと赤ん坊を埋めた。
埋める前にシーツをはいで最後にもう一度、みずほの顔を見た。いつも恥ずかしがって赤くしていたほおは、生気を失って石のように白かった。もう二度と、この顔を見ることはないのだ。涙が出るかと思ったが、出なかった。ヘトヘトだった。けど、息絶えてしまっても構わない。みずほも赤ん坊もいなくなった今、生きている意味がどこにある?
先生の言葉を思い出す。みずほを幸せにしてやってほしい。死ぬ時に、幸せだったといえる人生を送らせてやってほしい。俺が守ると返事をした。
すみません、先生。できませんでした。守ってやることも、幸せにしてやることもできませんでした。それどころか、最後はあんなに怖がっていた魔族狩りにさらわれて、無惨に殺されてしまいました。自分だけならまだしも、あんなに生まれてくることを楽しみにしていた赤ん坊まで。みずほ、本当にすまない。守ってやれなくて、本当にごめん。
謝って許されることだとは思わなかった。取り返しのつかないことはたくさんしてきたけど、今回ばかりはそれでは済ませられなかった。なぜ家を空けたのか。魔族狩りがまだうろうろしている可能性があるのに、なぜみずほから離れたのか。自分の愚かさ、不甲斐なさを呪った。みずほの恐怖や苦しみを思うと、なぜ助けてやれなかったのかという自責の念で気が狂いそうだった。いっそのこと狂ってしまえば楽だったのに、俺の精神はそれを許さなかった。死んでしまいたかった。しかし、自分の首を絞める体力すら残っていなかった。
雨が降り、夜になり、また朝が来た。このまま飢え死にしよう。そう思って墓の上に突っ伏していた。どれくらい時間が経ったのかわからない。なかなか死ななかった。
みずほの夢を見た。泣いていた。一人ぼっちで。みずほ、みずほ。何度呼びかけても、気づいてくれない。俺だ。本当にすまない。そこで目が覚める。口の中はカラカラで、指先を動かす力すら残っていなかった。また意識を失い、夢の中で泣いているみずほと会う。それを繰り返す時間が、ただ過ぎていった。地獄だった。