あの日のことは、忘れたくても忘れようがない。だけど、俺の記憶が正確かと聞かれると、あまり自信がない。俺の全てが砕け散った日だからだ。記憶も断片的な部分がある。
ああ、すまん。別に悲しいわけじゃない。あの日のことを思い出すと、いつも勝手に涙が出てくるんだ。大丈夫。ひどい話だ。この世に神様なんていない。もし神様がいるとすれば、俺とはよほど相性が悪いんだろう。
例によって神武官の仕事をしに少し離れた村に2日間出張して、帰ってきた日だった。途中で魔族の様子を見るために、山に入った。顔馴染みのクロウジという男に会えた。クロウジもゼンジと同じく家族がいて、子供もたくさんいる。俺の言いつけを守って、谷から谷へ頻繁に居場所を変えてくれていた。
「最近、魔族狩りの見回りが多いよ」
俺の顔を見るなり、そう言った。
魔族狩りは、必ず下見をする。相手は人間よりも力が強い魔族だ。何人いるのか、どんな場所に住んでいるのか、確認してからでないとリスクが大きい。そこで一見、魔族狩りには見えない老人とか女性を使って、魔族の住んでいるところを見に行くのだ。
彼らは魔族狩りのチームのメンバーであることもあるし、地元の住民であることもある。後者はいわば情報屋だ。魔族の居場所や人数などの情報を売って、金銭をもらっている。そういう人は、魔族に顔を知られていることがある。クロウジが言う「見回り」は、そういうヤツらのことだ。
俺も、何食わぬ顔をして生活している情報屋を何人か知っている。年寄りや女性の単身者で、特に何も仕事をしている様子もないのに、生活に困ってなさそうなのは情報屋であることが多い。そういう連中には「気づいているぞ」という意思表示はする。だけど、特にとがめたり、情報を流すことをやめさせたりはしない。それが彼らの仕事だからだ。逆に情報を買うことすらあった。
「老人か?」
「そう。おばあさん」
あれか、あれか…と顔が思い浮かぶ。見回りだとわかっているのなら、いっそ殺してしまえばいいのにと思う。だが、魔族は人間の報復を恐れてやらない。報復するとなれば急先鋒に立たなければならないのは俺なので、それはそれで勘弁してほしい。
とにかく情報が魔族狩りに流れて、ヤツらが出動する前には姿を消しておかないといけない。クロウジの家は4日前に建てたばかりだ。小さな子供がいるので、また解体して移動するのは大変だろう。だが、命には変えられない。
「近いうちに移動した方がいい。手伝うよ」
そう言い残して山を降りた。
嫌な予感がした。
見回りが増えているということは、この地域で狩りをする準備をしているということだ。以前よりも魔族の絶対数が減ったので、この地域での狩りは随分と少なくなっていた。にもかかわらずこのあたりを嗅ぎ回るということは、獲物がいるということを知っているということだ。
胸騒ぎがした。俺の嫌な予感は、すごくよく当たる。もしかして、みずほが魔族だとバレたのではないか。
途中から小走りになっていた。そんなはずはない。あんなにパッと見で魔族に見えないみずほが、標的になるはずがない。なんでこんな心配をしているんだ。つまらない妄想だ。そう言い聞かせる一方で、ゴンズが死んだ時と状況がそっくりだという既視感に襲われて、胃がひっくり返りそうだった。
ゴンズから聞いた話を思い出していた。
なあ、知ってるか。魔族を食うヤツらは、肝が一番好きなんだ。精がつくっていってな。腹をさばいて取り出したばかりのホカホカを、薄く削いで食べるんだ。
だけど、ヤツらの間でもっと珍重されているものがあるんだ。わかるか?当ててみろよ。わかんねえか。赤ん坊だよ。それも、まだ生まれてないヤツだ。母親の腹をかっさばいて、生まれる前の赤ん坊を取り出して食うのさ。なんでも不老不死の薬なんだそうだぜ。そんなわけねえだろう。ただの肉だぞ、ばかばかしい…。
ああ、やめろやめろ。鮮明によみがえる。ゴンズのにがり切った表情、口ぶりまで細かく思い出せる。なんであんな話を聞いてしまったんだろう。
息を切らせて学校に着くと、日が落ちているにもかかわらず、明かりがついていなかった。嘘だろう。いや、少し早めに休んだのかもしれない。そんなことはない。みずほが俺が帰ってくるのを待たずに眠ってしまったことは一度もない。いつも明かりをつけて、食事を用意して待っている。玄関のドアが開きっぱなしだった。
「みずほ!」
声をかけながら部屋に入る。暗い。人の気配がない。みずほの匂いがしなかった。出かけたのか?あんな身重で?こんな暗くなった時間に?震える手でろうそくに火をつけた。燭台を掲げる。みっともないくらいに自分が息を飲む音が聞こえた。荒らされた跡がある。椅子が倒れ、部屋の隅に置いていたゴミ箱もひっくり返っていた。
「みずほ、どこだ」
匂いがしない。呼んでも無駄なことは承知で、声を出した。気が狂いそうだった。台所に行く。料理を作りかけていたのだろう。流しにまな板が出ていて、切り掛けた芋があった。乾いている。ついさっきまで何か調理していたのなら、濡れているはずだ。
状況からいって、何者かに連れ去られた可能性は十分にあった。なぜなら、さっきから認めたくないと感覚が拒否しているが、見知らぬ人間の匂いがするからだ。煙草を吸うヤツだ。汗臭いヤツ。若いヤツ。複数の男の匂いがした。俺の知らない男どもが踏み込んで、みずほを連れ去ったのだろう。
チラッとみずほが逃げおおせて、どこかに隠れているのではないかという可能性を考えた。あるいはみずほの留守中に男どもが踏み込んで、接触しなかったというパターン。みずほは、なんらかのアクシデントでまだ帰っていない。出先で産気づいたとか。むしろそうであってくれ。そうであってほしい。だが、そうでない場合は一刻の猶予もなかった。
何も持たずに学校を飛び出した。隣の隣の村に情報屋がいる。胡散臭い老婆だ。走りながら金を持ってきていないのに、金を積んだら素直にしゃべるだろうかと考えていた。村に入り、狭い階段を駆け降りる。斜面に張り付いているような村だ。一番下、もうすぐ河岸というあたりに、その家はあった。明かりがついている。木の扉を蹴破ると、あっさりと開いた。薄暗い台所で、老婆は何か料理をしていた。
「魔族狩りはどこだ」
詰め寄って襟首をつかむ。
「ヒイィ」
想定した最悪のケースが起きているとすれば、みずほの情報を流したヤツがいる。妊娠した魔族がいる、と。だけど、そいつを探すのは後回しだ。まずは、みずほを連れ去った魔族狩りを探さないと。絶対にこの老婆にもコンタクトしている。
「し、知らない。何も知らん」
老人独特の、朽ち果てた木のような口臭を振り撒きながら、老婆は言った。まあ、そう言うだろうと思っていた。
「ばあさん、急いでいるんだ。俺の嫁を連れ去った連中がいる。どこにいる?言わないと殺す」
言わないと、どうしようか。殴るか、頭をかち割るか、どれがいいかと思案する間もなく、口をついたのはもっともシンプルな脅し文句だった。こうしている間にも、みずほはもう殺されているかもしれない。腹を裂かれて、赤ん坊を取り出されているかもしれない。
突然、頭の中にサーッと冷たい何かが流れた。老婆を地面に突き倒すと、煮物がぐつぐつ音を立てている鍋を素手でつかんで、胸あたりにぶちまけた。
「ギェエエッ」
気味の悪い悲鳴をあげた。鍋をつかんだ手を火傷したようで、チリチリとした痛みが走る。だけど、そんなことを気にしている暇はなかった。小さな体の上にのしかかるようにしゃがみ込むと「次は腕をへし折るぞ」と言った。
「さ、さ、参番館におるよ、参番館に」
老婆はボロボロと涙をこぼしながら、息も絶え絶えに言った。
参番館というのは中央高地にあるアジトの一つだ。南の端から壱番館、弐番館とあって3番目なので参番館。アジトは個人のものではなく、魔族狩りが共有している。狩りをするときに臨時に拠点として使い、終われば空けて出ていく。先客がいれば別のアジトを使う。八番館まであるので同時に8つのチームが狩りに出られるというわけだ。
ヤツらは鬼畜の所業と言っていいことを生業にしているくせに、仲間うちではそういう譲り合いをする。ただ、複数のアジトが使われていることは最近は稀だ。魔族の数が減って大々的に狩りをすることがなくなったからだ。だから大体、どこか一つが使われている。片っ端から調べていたら時間がない。どこにいるかさえわかれば、まっしぐらに行けばいい。
みずほが連れ去られてから何時間経ったのだろう。この村には馬がいなかったので、隣の村に行って無断で拝借した。後で俺だといえば許してくれるだろう。谷を下り、山を越え、また下れば中央高地だ。鞭を入れて必死に追った。この馬、もっと速く走れないのか。参番館はだいぶ南の方だ。以前、俺が殴り込んだのは六番館だった。
頼む、間違いであってくれ。実はどこかに買い物に出掛けていて今頃、うちに帰っているかもしれない。俺が帰ってくるから、何か特別なものを作ろうとしたのかもしれない。もしくは俺の好物を作ろうとして、何か材料が足りなくて買いに出たのかもしれない。そう、俺が好きな…。そんな妄想に逃げてみたが、胸いっぱいに広がる不安と焦りを押し戻すことはできなかった。
参番館が見えてくる。もうすぐ夜明けだというのに明かりがついていた。馬から飛び降りる。勢いで地面に突っ込み、ゴロゴロと転がった。すぐに起き上がる。ここ数年で観察した結果、アジトはみんな作りが一緒だ。アクセスが容易なのは裏口。走って回り込むと、ドアを蹴飛ばした。開かない。だが、明かりがついているのなら、誰かが気づくだろう。2発、3発と蹴って「開けろ!」と叫んだ。
ドアが開いた。酒が入っているのか、赤い顔をした痩せた若い男だった。不用心なヤツだ。こんなに簡単に開けるとは。臓物が砕けろとばかりに腹を蹴り上げると、声もなく吹き飛んで土間に倒れた。土間を上がると小部屋で、その向こうが廊下。右に行って角を曲がると台所。誰が来ようが蹴り倒して進むだけ。そう思って進んだ。意外にも台所まで、誰にも邪魔されずに到着した。