みずほが学校に住み着いてから、あっという間に3年が過ぎた。
この頃になるとだいぶ村の人にも慣れて、授業に出てきて子供と一緒に歌ったり、文字を教える手伝いをしたりするようになった。子供たちから「みずほ先生」と呼ばれて、口では「先生じゃない」と言っていたけど、まんざらでもない様子だった。ハナヨ先生は「私ももう年だからねえ。後継ぎを作っておかないといけないし、みずほがそうなってくれれば言うことないわ」と喜んでいた。
ただ、みずほは相変わらず怖がりだった。見知らぬ人が来ると、隠れてしまうことがよくあった。特に大人の男を怖がった。行商人は入れ替わり立ち替わりいろいろな人が来るので、苦手だった。よく知っている村人とは普通に接することができたけど、行商人は先生に任せて台所にこもっていた。
俺?俺のことは平気だったよ。そりゃあ最低でも週2回は顔を出して晩飯まで食っていくんだから、顔馴染みにならなかったらおかしいだろう。俺もみずほに好かれたくて、話せるようになってからはいろいろお土産を持って行った。花が好きだとわかれば珍しい花を摘んで行ったし、みずほが「おいしい」という鳥がいれば、捕まえて持って行った。それはその日の晩か、その次に来た時のメシに登場した。
ある日、先生が驚く話をした。
「ある行商人さんがね、みずほを買いたいって言うのよ。人身売買みたいな胡散臭い話じゃないわよ。こんな山奥に置いておくのはもったいない、西域には養子を取りたいお金持ちがたくさんいるから、そういうところに連れて行きたいんだって。悪い話じゃないと思うんだけど、どう思う?」
どう思うもこう思うもない。先生は俺がみずほを好きなことを知っている。そんなこと許すはずない。というか、行商人はなぜみずほを知っている?いつも隠れているのに。
「隠れていてもわかるのよ。村人からも評判を聞くでしょうから。よく働く娘さんが学校にいるって。身寄りがなくて、親代わりのババアはもうすぐ死にそうだから、その後が心配だって。そんな話を聞けば、商売人なら思いつくことは決まっているでしょう?」
なるほど。いや、なるほどじゃない。
「先生はまだまだ死なないし、みずほをどこかにやる必要もないです」
ムッとした。今にして思えば先生はあの頃、もう自分が死んだ後のことを真剣に考えていた。俺はまだそれに気がついていかなった。
「うれしいわ、トウマちゃん。だけどね、私が死んだ後、あの子はどうなると思う?一人で生きていけるのかしら?」
先生はいつも通り微笑んでいたけど、表情は少し寂しげだった。
少しずつ老けていっているなとは思っていたが、先生はある時を境に急激に老け込んでいった。病気になったとかケガをしたとか、そういうわけじゃない。食が細くなって、疲れやすくなった。授業をみずほに任せて、教室の隅の椅子に座って見ていることが多くなった。体調が悪いわけでもないのに「少し横になるわ」と言って、昼間から寝ていることが増えた。普段の生活も含めてみずほがやることは格段に増えて、俺が手伝いに行く日も多くなった。
ある日、みずほが買い物に行っている間に薪を割っていると、窓から先生が顔を出して「トウマちゃん」と手招きしている。そばまで行くと「入ってきて」と言う。玄関に回って部屋に入ると、先生はベッドで胸まで布団をかぶっていた。また一段と痩せたなと思った。
「これが老いるということなのかしら。どうしようもないわね」
ふうーとため息を着くと、目を閉じて小さな声で言った。初めて会った頃は、大きくて張りのある声が印象的だった。今は、そばに寄って聞き耳を立てないといけないこともあるくらいだ。それも老いを感じさせた。
「トウマちゃん、お願いがあるの」
目を開けて、左手を差し出す。両手で受け止めた。
「私が死んだら、みずほの面倒を見てあげてほしいの。いえ、そんなまどろっこしい言い方じゃダメだわ。あなた、みずほと結婚しなさい。あの子を幸せにしてあげて」
いつかそう言われるだろうと思っていたし、先生から言われなくても自分で言うつもりだった。ただ、まだ21歳だったから、早すぎるんじゃないかと思っていた。俺の返事を待たずに先生は続けた。
「私、子供がほしかった。でも、できなくてね。旦那も死んじゃって、子供に恵まれないまま死ぬんだわと思っていた。せめて他人の子供に愛情を注ごうと先生になったけど、やっぱりちょっと違ったわ」
その話は聞いたことがあった。先生はまたふう〜とため息をついた。これくらい話すのも辛いみたいだ。
「そんな時に、みずほに会ったの。神様がチャンスを与えてくださったと思ったわ」
先生は布団からもう一方の手も出すと、両手で俺の手を包んだ。温かい。この手で何人の子供に愛情を注いできたのだろう。あなたは「違った」と言うけど、あなたの愛情に導かれて、真っ当な大人になった子供は数知れないと思いますよ。そう思ったけど、言葉にできなかった。
「みずほと過ごした時間は本当に楽しかった」
もう死ぬみたいなことは言わないでください。
先生は泣いていた。目尻から涙が一粒、ほおを伝って落ちた。
「あの子は両親を魔族狩りに殺されて、本当に怖い思いをして生き残ったの。だから、これからの人生で、楽しいことをたくさんさせてあげてちょうだい。辛い記憶を忘れるくらい、あの子が死ぬ時に『とても幸せな人生だった』と言えるくらい、あの子を幸せにしてあげてほしいの」
先生は我慢していたけど、嗚咽を抑えられなかった。
「私には、もう無理だから…」
見ているだけで辛かった。俺も年を取って愛する人と別れなければならなくなった時、こんな感情に襲われるのだろうか。でも、今はとにかく先生を悲しませたくなかった。それに先生が亡くなった後は、もちろん俺がみずほのそばにいるつもりだった。
「安心してください。みずほは俺が守ります」
顔を寄せると言った。今にして思えば、何を言っているんだと思うよ。全く俺はどうしようもない馬鹿だ。大馬鹿だよ。
先生はそれから日に日に弱っていって、半年ほど経った頃に眠るように亡くなった。最後の数日は意識がほとんどなくて、たまに覚醒することがあるので、みずほと交代で徹夜で枕元にいた。冬でストーブを炊いていたが、それでも床下から寒さが染み込んでくるような早朝だった。
「ハナヨさん、ハナヨさん!」
切羽詰まったみずほの声で目が覚めた。起き上がってベッドサイドに行く。先生は眠っているように見えた。だが、青白い。何度も見たことがある、死相だった。額に手を置いてみる。もう冷たかった。魂が去っていく時の冷たさだ。みずほは泣いていた。先生にすがりついて、ほおを寄せて声を殺して泣いていた。
のちに俺は蘇生の魔法に出会うことになるが、それが効果があるのは、あくまでも生きようという執念がある者に対してだけだ。寿命を全うしたとか、死んでも構わないと思っている人間にかけても効かない。たぶんこの時、先生に蘇生の魔法をかけても効果はなかっただろう。
先生は存分に生きて、最後に自分の子供を育てたいという夢も叶えて、愛情をたっぷりと注いだ愛娘を俺に託して去った。たくさんの生徒や村人に慕われて、本人がどう思っているかはともかく、素晴らしい人生だったと思う。
朝になると村の各所に先生が亡くなったことを伝えて、葬儀の準備を始めた。みずほは憔悴しきっていたので、俺が葬儀委員長になって、村の人に手伝ってもらって通夜と葬儀を進めた。神武官は冠婚葬祭の仕切りもするので、慣れたものだ。通夜の席で早速、学校を今後、どうするかという話になった。
「みずほちゃんにやってもらったらいいんじゃないか」
「だけど、まだあんなに若いんだぞ。一人で大丈夫なのか?」
「誰か手伝いに出したらどうだ」
通夜に来ていた村の重鎮たちはお互いに顔を見合わせるばかりで、手伝ってやろうという者は現れなかった。無理もない。先生があまりいない東方では、先生という職業は特殊なプロフェッショナルだと思われている。学校に行ってない大人も多いし、勉強に対してコンプレックスを抱いている人間も多い。ましてや教えるとなると「できる」とすぐに手を挙げられる者はほとんどいない。
それに何より、みずほはよそ者だ。ここで生まれ育った人間なら、少々犠牲を払ってでも助けてやろうとなっただろう。だけど、数年前に転がり込んできた若い女を助けてやろうというほど気前のいいヤツは、いなかった。これが西域なら、男どもがスケベ心丸出しで手を挙げていたと思う。じめじめした東方と違って、気性がよくも悪くもパーッと明るい人間が多いから。互助精神の強い南方も、次々に名乗り出る人がいただろう。
だけど、東方はそんな土地柄じゃない。基本的に貧しくて日々、生きていくことで精一杯。余裕がないので、こういう時になるとみんな手を引いてしまう。だからこそ、神武官なんていうお助け屋がはびこるんだ。
「俺がやりますよ」
そう言うと、彼らはホッとした表情を見せた。俺も東方の出身だけど、東方のこういう気質が本当に嫌いだ。反吐が出る。
葬式には生徒とその親はもちろん大勢の村人が詰めかけて、改めて先生の遺徳を偲ばせた。みんなみずほに「頑張って」とか「応援しているから」とか励ましの声をかけてくれて、それはそれでうれしかった。みずほが少し微笑んだり、元気を取り戻した様子を見せてくれたからだ。まあ実際に何かしてくれるという期待は、全くしていなかったけど。