東方は、どこの村にも学校があるというわけではない。ある程度、大きな村にしかない。神武院の近くには勉学が必要だという気風があって比較的、学校を設置している村が多いが、辺境に行くとほとんどない。学校に行くくらいなら働けという考えの大人が、圧倒的に多い。
そもそも先生という職業の人間が少ない。圧倒的に多くの住民が貧しいので、多額の謝礼は受け取ることができない。先生をやっているくらいなら、行商でもした方がよほど儲かる。
山ばかりで移動に困難が伴う東方では、行商人は重宝されている。不足している物資を売りにきてくれるのはもちろん、情報も運んできてくれるからだ。「どこそこの村では地滑りが起きて、復興のための人足が足りない」と聞けば、土木の覚えがある連中は出稼ぎに行く。「近くの村に腕のいい医者が来ている」と聞けば、伏せっていた親を背負って診察を受けに行く。万事そんな感じで、行商人が来ない集落はなかなか大変だ。彼らが行かないところは滅びるといっても過言ではない。
実際に行商人の来ない村は、よほど食料や水源に恵まれていない限り、どんどん人が出ていって、誰もいなくなってしまう。情報が入ってこないということは、それだけ恐ろしいことなのだ。
逆に、行商人が必ず立ち寄る村は大概、栄えている。彼らが定宿にしているようなところは物資が豊富だし、情報もたくさん流れ込んでくる。つまり、人がたくさん集まっている。彼らはそこで情報を交換して、自分たちが売っているものが売れるところへ、また旅立っていく。
神武官も行商人みたいなものだ。担当地区の村を巡って冠婚葬祭から土木建築まで、あらゆるサービスを提供しているんだから。当然、俺たちも情報が必要なわけで、行商人が来る村には定期的に行くようにしていた。ゴンズの担当地区では、南の端にあるカモメノという村が、それだった。
東方の山にしては割となだらかなところを開いて、家や商店や宿が立ち並んでいる。一番高いところに学校があって、子供に文字や算数を教えていた。
先生は、ハナヨという小さなおばあさんが一人だけ。初めて会った時から髪が真っ白で、顔や手もそれなりに皺が刻まれていたが、まだ背筋がしゃんと伸びてハキハキとしゃべって、年齢を感じさせなかった。まあ、はっきりと年を聞いたことがあるわけじゃないんだけど。聞けないだろう。おばあさんとはいえ、女性だぞ?
子供や村の人から「ハナヨ先生」と呼ばれて、慕われていた。学校には椅子とか机とか、思った以上に備品が多い。そういうのを修理するために、よく行っていた。一人暮らしだったから、何かと不便があるだろうとも思っていたし。
だけど、一番の目的は、メシだ。先生の作るメシは、めちゃくちゃ美味いんだ。たぶん、生まれて食べてきた中で、一番美味かったと言っても言い過ぎではないと思う。
仕事をすると必ずメシを食わせてくれた。ナスと干し魚の煮物、野菜のかき揚げ、芋と干し肉を炊いたもの、炊き込みご飯。なんでも美味かった。忘れちゃいけないのが漬物だ。自分の家で漬けていて、たまらなく美味い。それだけでどんぶり2杯は食えた。今でも先生のメシの味は、はっきりと思い出せる。それくらい美味かった。
ある日、授業が終わった頃に学校を訪れると、見慣れない女の子が庭を掃除していた。パッと見は人間だったが、よく見ると魔族だ。人間だと思ったのは、肌の色が東方人のようで、魔族っぽくなかったからだ。よれよれのシャツを着て、少し大きすぎるスカートを履いて、出立ちがまるで人間だったということもある。しかし、フワッと魔族の匂いがした。
近寄ってよく見てみた。不自然な髪の流れ方は寝癖じゃない。おそらく角がある。何人も魔族を見てきたので想像がついた。俺がジロジロ見ているのに気づいたのか、女の子は顔を上げた。
肩に少しかかるくらいの長さの亜麻色の髪に太陽の光が当たって、キラキラ輝いていた。やつれているが、かわいらしい。髪の色と違って、黒目がちの瞳は真っ黒だった。栄養状態が良くないのか、肌がガサガサだ。小さい先生よりも少し背が高い。人間ならば10代後半くらいに見えるが、魔族なのでもっと年上かもしれない。シャツの袖からのぞく腕は細かった。
「…!」
驚かせてしまったみたいだ。女の子は声にならない悲鳴をあげて、ほうきを手にしたまま校舎の中に逃げていった。校舎と言っても小さな木造の平屋建てで、教室が一つと先生の部屋、それに台所があるだけだった。女の子は教室に駆け込んで見えなくなってしまった。
誰だろう?あんな子供、この村にいたかな?仕事柄、人の顔と名前を覚えるのは得意だった。その俺が思い出せないのだから、新顔だ。どこから来たんだろう。まあ、先生に聞けばいい。と思って校舎に足を進めると、ガラガラと引き戸を開けて先生が出てきた。
この小さなおばあさんは、いつもおしゃれだ。きょうも着物にもんぺという農作業をするような姿だが、よく見ると着物には細かい花柄が刺繍してあって、ひそかにおしゃれをしている。裁縫も得意で、よくいろいろなものを自分で作っている。これも手作りだろう。
「まあ、トウマちゃん、いらっしゃい」
台所仕事をしていたのか、腰に下げた手拭いで手を拭きながら言った。俺の担当地域の住民は大体、俺を「トウマちゃん」と呼ぶ。特に年上の女性はほとんどみんなそうだ。子供っぽく見えるのだろうか?最初は嫌だったけど、そのうち気にならなくなった。
「先生、きょうは何かありますか?」
ないと言われたことは、まずない。神武官が来たのだから、何か仕事をさせないと申し訳ないと思っているのか、いつも何かしら準備してくれた。
「そうね。じゃあ、薪割りをお願いしようかしら」
先生はいつもニコニコと笑顔を絶やさず、人当たりも柔らかく、村人から慕われるのは当然だと思えた。台所の裏の薪置き場に向かいながら「さっき庭にいた子は誰ですか?」と聞いた。
「ああ、あの子はね…」
先生は人差し指を唇に当てて、少し間を開けた。思案している時の癖だ。何から話せばいいのか、考えているのだろう。先生はというか、先生だから、話すのはとても上手だった。わかりやすく、意味を取り違えることがないように、明快に話してくれる。訳ありなのか、珍しくしばらく考えてから「言葉は悪いかもしれないけど、拾ったのよ」と言ってウフッと笑った。
年寄りのくせに無垢な少女のように笑う姿に、みんなコロリとやられる。俺もそうだったので人のことは言えない。先生はそういう人たらしな一面もあった。もし、このウフッがなければ、ギョッとしていただろう。
先生は俺が捨て子だったと知っている。「親御さんは元気にしているの?」と聞かれたことがあって、その時に捨て子だと教えたからだ。捨てた、拾ったとなれば、何がしか俺を傷つけてしまうかもしれない。だから、冗談めかして言ったのだろう。そういう気遣いができるのが、先生のすごいところだ。
あんな大きな捨て子がいるか?という疑問がわいた。
「拾ったって、どういうことですか?」
薪を割る準備をしながら質問する。
「何日前くらいだったかしらねえ。朝起きて薪を取りに来たら、その辺にうずくまっていたのよ」
先生は薪置き場の端を指差した。
「何を聞いても黙りこんでしゃべらないし、でも、ひどく汚れていて疲れているみたいだったから、ご飯を食べさせて、お風呂に入れたわ」
先生だからこそ、そうできたのだと思うが、女の子は素直に従った。とりあえず少し眠りなさいというと布団にくるまって、一昼夜眠った。目を覚ますとお腹が鳴っていたので、また食事を与えた。驚くほどよく食べた。そりゃそうだ。先生のメシは抜群に美味いからな。よく寝て腹いっぱいになると、女の子はようやく小さな声で「ありがとう」と言った。
名前はみずほと言った。魔族狩りに追われて逃げてきたという。すっかり人間だと思っていたので、びっくりした。だけど、話してみると人間と何も変わらない。親はどうしたのかと聞いたら、泣き出した。たぶん狩られたのだろう。
先生は困ったり迷ったりしなかった。すぐに手元に置いて、育てることにした。
先生は昔、結婚していたけど、旦那さんは早くに亡くなって、子供はいなかった。ずっと子供がほしくて学校の先生にもなったが、ついに神様(そんなものいるのかよ)が子供を授けてくれた、これは運命だと思ったらしい。
みずほは自分が魔族だという自覚があって、人前に出ることを怖がった。殺されそうになったのだから無理もない。生徒が学校にいる間は台所に隠れていた。料理や裁縫を教えたらすぐに覚えたので、教科書を与えて文字も書かせてみた。飲み込みが早くて、どんどん上達した。近いうちに算数もやらせてみるわ、と先生は楽しそうだった。
みずほが外に出るのは、生徒たちが帰ってからだ。庭を掃除したり、水を汲んだり、俺がいない時は薪割りもした。
「いつまでいても構わないからね。新しい家だと思いなさい」
先生にそう言われたことを恩に感じたのだろう、みずほはよく働いた。ゼンジもそうだったが、魔族は義理堅い。先生が少しゆっくりしてもいいのよと言うまで、何かを探して働いた。