目が覚めると、村にいた。いつもいろいろなものを調達に来る雑貨屋の座敷だった。ここに上げてもらって何度もメシを食わせてもらっているので、よく知っている。日が差し込んでいて、まぶしかった。小屋と違って畳が敷いてあり、薄いながらも布団もあるので、とても寝心地が良かった。
気持ちいい。もう朝飯だろうか?最初、状況がよくわからなくて、しばらくまどろんでいたが、次第にここにいることの不自然さに気がついて、目が冴えてきた。なぜ小屋に戻っていない?最後にゴンズと会っていたから、普通なら小屋に連れ戻されているはずだ。
体を起こす。肋骨の骨折痛で顔をしかめる。朝日だと思ったら違った。もう夕暮れで、夕日だった。何時間寝ていたのだろう。いや、もしかしたら何日かもしれない。焦る気持ちを抑えながら、見知った廊下を抜けて店へ行く。おかみさんが、店に出ていた。
「おや、トウマちゃん。もう目を覚ましたのかい?」
「もうって、おかみさん、だって、もう夕方でしょう」
知りたいことがたくさんありすぎて、しどろもどろだった。
「いやあ、だってあんた、あんな大けがをしていたんだもの。もっと何日も目覚めないかと思ったのよ」
「俺、なんでここにいるの」
「ゴンズさんが連れてきたんだよ。聞いてないのかい?」
すごく嫌な予感がした。
「俺、何日寝てた?」
「昨日の朝に来たから、まだ一日半程度しか経ってないよ」
一日半もあれば十分だ。
「おかみさん、ありがとう。また来るわ」
そう言い残すと、着替えて村を飛び出した。
ゴンズが俺を小屋から遠ざけた。考えられる理由は一つしかない。ゼンジに自分を食わせるためだ。ゼンジに自分を食わせるために、俺を遠ざけたんだ。それしか考えられなかった。ゼンジはゴンズを食べないかもしれない。だけど、ここまで追い詰められた状況になってゴンズが説得すれば、わからない。
ゼンジは善人だ。いい人だ。だからこそゴンズの申し出を断りきれない。もうダメだ。自分の妄想が間違っていることを祈った。小屋に戻ればまだゼンジは負傷して伏せっていて、その横でゴンズが看病していて。そのくせ、「そろそろ飲もうぜ」とか言って。2人で楽しく酒盛りしていて。そうであってほしい。そうであってくれ。
思うように動かない自分の体が、もどかしかった。もっと治療のことを学んでおけば良かった。焦りと後悔ばかりが押し寄せてくる。息を切らせて、ドアを開けた。
遅かった。
長椅子にゴンズが横たわっていた。薄い布がかけてある。布団代わりに使っていたものだ。眠ったような安らかな顔をしているが、死んでいることは明らかだった。だって、ゴンズはいつもいびきがすごいんだもの。いい加減にしろと尻を蹴飛ばしたことは1度や2度ではない。なのに、静かだ。全く静かだった。
それに、見ろよ。長椅子の周りは血の海だ。まだ固まっていない。血糊を踏み締めて、ゴンズに近寄った。どんな光景が待っているのか、予想できた。布をはぎ取る。喉笛から胸、腹にかけて内臓がごそっとなかった。きれいに食われていた。ゼンジが食べたに違いない。他の魔族なら、食い散らかして終わりだ。腕や足も引きちぎっていただろう。
だけど、どうだ。まるで寝かしつけたような、この安らかな姿は。ゴンズが食われた時に息があったのかどうか、それを知る術はない。だけど、食われる直前に何を思ったのか。ゼンジは親友と言っていい人間を、どんな思いで食べたのか。ゼンジのことだ。きっと泣きながらゴンズの肉を口にしたに違いない。2人の気持ちを想像すると、胸が張り裂ける思いがした。自分の涙が、血溜まりに落ちていくさまを長いこと見ていた。
どうすればいい?
これは、俺が招いた状況だ。先輩にケツを拭かせて、友人にもケツを拭かせた。どうすればこのひどい状況をもとに戻せる?
なぜか不意に楽しかった時のことを思い出した。ゴンズに強制されて飲む酒は、不味かった。だけど、おっさん2人に囲まれて毎晩、ワイワイ騒いで、楽しかった。ナズナの手の感触。傷ができると、洗って薬を塗ってくれた。温かくて、すべすべしていて、気持ちよかった。弟や妹たちの笑顔。にぎやかで楽しげな声。全部失った。もとに戻すことなんて、もうできない。
気がつけば、背嚢を背負って山道を歩いていた。何を詰め込んだのか覚えていない。夜になって、空気が冷たかった。東方の冬は寒い。湿気が多くて、肌から染み込むような冷たさだ。
カケス谷への襲撃は、もう終わったかもしれない。あれから二晩経っている。行くなら別のところの方が可能性がある。一番、近いのはヒクイ尾根だ。もし魔族狩りが現れなくて、待ち構えているゼンジと会えれば、少なくともゼンジだけでも救うことができる。一人でも少ない人間が、魔族も含めて死なないようにしたかった。
ヒクイ尾根は急峻だ。平らな足場も、水場も少ない。こんなところに居を構える意味がわからないが、逆にそういうところだからこそ盲点なのだろう。小屋から行くと、峠に出てしまう。集落は確か六分と言っていたから、ここからだいぶ下だ。魔族狩りは中央高地から来る。おそらく下から登ってくるだろう。ゼンジはどこで待ち構える?セオリー通りなら上だ。
峠に出たところで、血の匂いを感じた。遅かった。もう始まっているのか、それとも終わった後か。急いで狭い足場を駆け降りる。声も聞こえてきた。悲鳴や怒号が聞こえる。月が出ているので視界は十分にあった。狭い尾根に張り付くように小屋がかけられていて、そのすぐ下で大きな影が跳ね飛んでいた。
動いていたではない。文字通り、跳ね飛んでいたんだ。猫が獲物に飛びかかるのを見たことがあるか?まさにあんな感じだ。人間の動きではない。大きさから言って、ゼンジに違いなかった。逃げ惑う人間に飛びかかり、捕まえると首筋に噛みついた。顔を背けたくなる絶叫が響く。あれでは生きていまい。残り2人。剣を構えている。どこかで見た顔だと思ったら、屋敷にいた若者だった。
本来、神武官なら彼らを助けるのが務めだろう。だけど、しなかった。ゼンジは俺が見ていることに気づいている。チラリとこっちを見た。金色の瞳が、いつも以上にギラギラと輝いていた。体が膨れたのか、着物がパッツンパッツンになっている。
視線が外れた瞬間、男たちは逃げ出した。ゼンジが飛びかかる。動物の跳躍力だ。これが魔族の本来の力か。背中に飛びつくと爪を立てて、喉をかき切る。もう一人の男にも軽々と飛びつくと、頭の上に抱え上げて力任せに胴体をへし折った。
ゼンジは振り向くと、近づいてきた。デカい。いつもデカいが、いつも以上に大きく感じる。筋肉がパンパンに盛り上がって、別の生き物のようだ。見えないプレッシャーがすごかった。まだ十分に間合いがあるにもかかわらず、足を引いて後退した。何か声をかけなければ。
「こんなふうになるのか」
口を突いたのは、その時、思っていたことだった。ゼンジは立ち止まった。
「そうだ。こんなふうになるのだ」
静かな声だった。月明かりの下で見るゼンジは、恐ろしいを通り越して美しかった。薄く輝く深緑色の肌。金色の瞳。額から突き出た角は、神々しくさえあった。ゼンジは、涙を流していた。
「許せ、トウマ。俺は、ゴンズを食べてしまった」
知っている。だから、ここに来たんだ。
「人間を食べて、強くなる。魔族は、罪深い」
声が震えていた。哀れだと思った。同時に、その罪を先にばら撒いたのは、俺だということもよくわかっていた。
「トウマ、俺は怖い。俺は、お前も殺してしまう。魔族の血が叫んでいる。殺してしまえと、叫んでいるんだ」
殺される。さっきの動きを見ていたから、意外なほど冷静にそう思った。この状態のゼンジと戦えば、間違いなく負ける。喉をかっきられるか、体をへし折られるかわからないが、とにかく敵わない。
覚悟した。ここで死ぬのだ。
「トウマよ、俺はお前を殺したくない」
涙を流しながら、飛びかかってきた。
「殺したくない」と聞いた瞬間、俺の中の何かのスイッチが入った。最後に抗った方がいい。その方が、親友を殺してまでしてこうなったゼンジに対して、礼を欠かないであろうという思考が、ふと思い浮かんだ。反射的に帯に差していたハンマーを右手で抜くと、突っ込んでくるゼンジの顔面に叩き込んだ。
腕がへし折れるのではないかという衝撃とともにカン!という乾いた音がして、角が吹き飛んだ。そのまま額にめり込ませる。ゼンジの勢いが止まる。もう一発、今度は横面に叩き込んだ。ちょうどこめかみの辺りにめり込んだ。十分な手応えだった。ゼンジは俺の足元に音を立てて崩れ落ち、そのまま立ち上がってこなかった。
ハンマーをふた振りしただけなのに、息が上がっていた。全身から汗が吹き出し、急速に外気に冷やされて寒い。背筋が震えた。
「ゼンジ」
普通に口にしてみたつもりだったが、声は震えていた。返事はない。
かがみ込んで、顔に手を当てた。目を閉じている。こめかみから、おびただしい血が流れ出していた。体が冷たくなっていく。勝ったという感じは、全くしなかった。それよりも殺してしまったという恐怖で、また体が震えた。数日前に初めて人間を殺した時には全く何も感じなかったのに、震えも涙も止まらなかった。しばらく動けなかった。右腕に残ってしびれだけが、自分がまだ生きていることの証しに思えた。
ゴンズとゼンジが死んだ後、俺は担当地域を引き継いだ。体が治ってからスウィーニーのアジトに行ってみたが、もぬけの殻だった。生き残りがいるのか、いないのか。あの時、山でゼンジに殺された人間は、確認できただけで8人だった。屋敷で見た全員ではない。逃げたヤツがいるのか、そもそも狩りに参加していなかったのか。スウィーニーはいなかった。まだどこかで活動しているのかもしれない。
幸いなことにというか、神武院に俺が人を殺したことを告げ口しなかったようで、とがめられることはなかった。俺が未熟なことは相変わらずで、試験の時にはリュウに大けがをさせてしまった。これだけ大変な経験をしたのだから俺の評価は相当に上がっているだろうと思っていたら、全然、そんなことはなかった。東方の辺境でせっせと魔族の保護活動をしているのがバレていたのかもしれない。それとも人を殺したことが。
とにかく、何やら遠くに行っていたヤツが久々に帰ってきたという程度の扱いで、焦った俺はなんとかして注目を集めたいとリュウの膝を蹴り折ってしまった。やってしまってから、また取り返しのつかないことをしてしまったことに気づき、試験が終わるや否や逃げるようにして辺境に帰った。
当時は神武官を辞めるという考えはなかった。引き継いだゴンズの持ち場には愛着があったし、顔馴染みの魔族たちを守ってやらないといけないという使命感みたいなものがあって、人を殺したことがバレなければ、ずっと続けるつもりだった。
こうして振り返ってみれば、俺はいつも自分のことばかり考えていた。すごく身勝手だった。もう少し周囲のことを考えて、周囲に尽くすつもりで行動していれば、違った結果になっていただろう。だけど、当時はそれに気づかなかった。それに気づいてから会いたかった。みずほに初めて出会ったのは、その頃だ。