気がつくと、夜が明けていた。
例の台所だ。白い壁に、あちこちに茶色い染みがある。床に寝かされている。後ろ手に縛られて、足首も縛られていて、身動きが取れない。気を失っている間に暴行を受けたのか、体のあちこちが痛かった。目も腫れあがっていて、よく見えない。口の中が切れて、血の味で充満していた。
少し体の向きを変えると全身に激痛が走って、思わず声が出た。いや、出せない。猿ぐつわをかまされていた。テーブルの上に例の紙包が見える。ナズナだ。もう解体されている。奴隷として売られていれば、また生きて会える可能性もあったが、もう無理だ。
無理だった。助けてやれなかった。あんなに優しくしてもらったのに。腹の底から怒りが湧いてきた。昨夜は戦う場所を間違えた。外ならば、あんな簡単にやられちゃいない。自由を奪われて、自分の生死すらどうにもできないのに、早く脱出して、あのスウィーニーという男以下、全員をなぶり殺しにしてやりたいという思いで破裂しそうだった。
「放せ!」
声を出したかったが、できなかった。しばらくすると、数人の男が入ってきて、ナズナを持って行ってしまった。
「こいつもバラして混ぜてしまおうか?」
若い男が俺を見て、ニヤニヤしながら言う。
「魔族を食うアホどもは、人肉が混ざっていても気がつかねえだろうなあ」
別の男が言うと、ドッと沸いた。やってみろ。この縄を解いた途端、皆殺しだ。
何時間経っただろう。また人の声が近づいてくる。ゴンズの声だ。しばらくすると、スウィーニーと一緒に入ってきた。
「この小僧、うちの仲間を殺しやがった」
2人して俺を見下ろしている。スウィーニーは葉巻をふかすと、ゴンズの顔にフーッと煙を吐きかけた。
「どう落とし前をつけてくれるんだ?」
ゴンズは下を向いた。俺を見る。呆れたような、それでいて哀れみのような視線だった。しばらくの沈黙ののち、口を開いた。
「カケス谷の三分どころ。あと、オオタカ尾根の八分だ」
なぜか、地名を列挙し始めた。
「足りねえなあ。お前のどうしようもねえ弟子を、殺さないでやったんだぞ?」
「…」
ゴンズはふう〜と息をつくと「モズ滝の下」と付け加えた。
「もう一丁」
「勘弁してくれ」
「神武院に垂れ込んでやろうか?」
ゴンズがまた深いため息をつく。
「わかった、わかった。ヒクイ尾根の六分だ」
スウィーニーはニヤリと笑って「連れて帰っていいぞ」と言った。
ゴンズは馬で来ていた。後ろに乗せられて、小屋へ戻った。ずっと黙っていた。俺の馬を回収しなければならなかったが、言い出せない雰囲気だった。
小屋にはまだゼンジがいた。そりゃそうか。まだ一夜しか経っていない。だけど、何日も留守にしていたような気がした。ゼンジは体を起こすと「おお、トウマ。大丈夫か?」と聞いた。
「こいつ、やっぱり一人で乗り込みやがった」
ゴンズは実に忌々しそうに吐き捨てると、台所に行ってコップに酒を注ぎ、グイッと一気に飲み干した。
「なぜだ?!言ったはずだぞ、見なかったことにしろと。自分ならできるとでも思ったのか?!お前よりよっぽど経験を積んでいる俺の言うことが、なぜ聞けない?!」
怒鳴りながら詰め寄ってくる。だけど、腹が立っているのは俺も一緒だった。
「じゃあ、なぜやらないんだよ!あいつらがゼンジの家族をさらっていったことは、わかっていたじゃないか!なぜ助けようとしない!この臆病者!」
ブッ。口から血が吹き出した。傷口がまた開いたみたいだ。肋骨が折れているようで、声を出すたびに激痛が走ったが、言わずにはおられなかった。
「臆病者で悪いのか」
突然、ゴンズは声をひそめた。
「そうやって勝てもしないところに突っ込んでいって、殺されていたかもしれないんだぞ!お前を助けるために、俺が何軒、魔族の集落をヤツらに教えた?!お前一人のために、何人の魔族が犠牲になる?!それでも神武官か!」
言葉を失った。地名を言っていたのは、そういうことだったのか。
「なんだ、なんの話をしている」
ゼンジが不思議そうな顔をしている。
「お前の家族を狩った連中から連絡があったんだ。こいつの命と引き換えに、魔族のいる場所を教えろってな。全く、商売が上手なヤツらだぜ」
ゴンズは自虐的に笑った。
「ゼンジ、俺を食えよ。敵討ちのチャンスだ。カケス谷、オオタカ尾根、モズ滝、ヒクイ尾根のどれかにヤツらはやってくる」
嘘だろう。ゼンジが小さな声でつぶやくのが聞こえた。
腹に刺さった矢のせいで、その日の夜から熱が出た。あちこち骨折しているようで、寝返りを打つのも辛い。ゴンズは黙って治療してくれたけど、顔を見ることができなかった。なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。正義感を振り回して、やれると思って行動した。だけど、全部裏目に出た。それどころか、ますます被害を増やしてしまうことになってしまった。
阻止しないと。夜になってゴンズが静かになると、小屋を抜け出してカケス谷に向かった。確か三分どころと言っていたな。かなり下の方だ。カケス谷は小屋から山を2つ超えたところにある。すり鉢状になっていて足場はいいが、水場が少ないので住むのにはあまり適していない。だからこそ、隠れ家になるのだろう。
骨折の痛みよりも、足を上げるたびに痛む腹の方が厄介だった。神武官は歩くのが速い。普通の人間の3倍くらいのスピードで歩く。だが、この夜は腹が立つくらい遅かった。山を1つ超えたところで後ろから追いついてくる足音が聞こえた。この匂いはゴンズだ。振り返ると、月明かりで明るい道に、寝巻き姿で立っていた。
「やめろ」
なんの感情もこもっていない声で、言った。
「やめない」
襲われることがわかっていて、助けにいかないなんて選択肢は、俺にはなかった。しかも、俺が撒いた種だ。魔族狩りに対する怒りよりも、馬鹿で仕方がない自分への怒りで、気がおかしくなりそうだった。
「トウマ、世の中には見なかったことにした方がいいことが、たくさんあるんだ」
ゴンズは一歩近づいてきて言った。
「あいつらに教えた地点は、お前の命と引き換えだ。そこで、狩りを邪魔したらどうなる。せっかく貸し借りなしにしたのに、また貸しを作ることになるぞ」
ゴンズは見ていないから、そんなことが言えるんだ。紙に包まれて、冷たく、固くなったナズナを見ていないから、そんなひどいことが言えるんだ。貸しも借りも関係ない。俺は何度叩きのめされても、あいつらの前に立ち塞がる。そもそも、あんたは一体、どっちの味方なんだ?いろいろな思いが頭の中を駆け巡ったが、口から出てきたのは「嫌だ」というひと言だけだった。
ゴンズはフッと笑った。いつもの馬鹿にした笑いではなかった。優しい笑みだった。この人、こんな笑い方ができるんだ。
「お前はどっちの味方なんだ、トウマ」
ハッとした。同じことを、俺もゴンズに対して思っていた。だけど今、俺は魔族に味方しようとしている。ゴンズは人間の味方だ。どっちが正解なのか?ここに着いたばかりの俺なら、迷いなく人間の味方であることを選んだだろう。
ゴンズは近づいてくる。
「そんな体で無茶はよせ。お前が優しい人間だということは、よくわかったから。だから、無茶をして死ぬな。その優しさを人助けに使うんだ」
ああ、すごい。初めてゴンズにやられた。あんなに大きな手をしているのに、まるで細い釘で打ち抜かれたような突きだった。いつ撃ち抜かれたのかさえわからない、鮮やかさだった。腹の傷を避けて、鮮やかに水月に突き刺さり、衝撃は脳天に抜けた。
俺は意識を失った。