事件は突然、起きた。
ある日の朝、ゼンジが小屋にやってきた。いつも酒を飲みに来るので、現れるのは決まって夕方だ。川で顔を洗っていると、向こうから見慣れた大きな体がやってきた。朝っぱらから登場したから何事かと思った。近づいてくるとボロボロになっているのがわかって二度、驚いた。
「ゼンジ!」
そばに駆け寄ると、力尽きたように座り込んだ。顔は傷だらけだし、肩や背中に刀傷があった。肩を貸したものの、重すぎて動かない。小屋に戻って寝ていたゴンズを叩き起こし、2人がかりで運び込んだ。俺とゴンズで治療している間に、息も絶え絶えに「魔族狩りにやられた」と言った。
「だから、もっとこまめに引っ越しをしろと言っただろう。家族は無事なのか?」
ゴンズが聞くと、ゼンジはボロボロと涙をこぼして泣き出した。
「たぶんダメだと思う。俺だけ、こうやって逃げてきたんだ」
なんだって。
「あいつら、子供をさらって行きやがった。もうみんな、食われちまったか、売られちまったに違いねえ」
ゼンジはめそめそと泣いている。いきり立って追いかけようという気はないらしい。
「奥さんはどうしたんだ?」
ゴンズが聞く。
「子供たちを守って殺されちまった。今頃、肉になってるよぉ〜」
おいおいと声を上げて泣き出した。大けがをしているのに、泣く体力はあるらしい。手当てを終えると、ゴンズは外出する準備を始めた。「出かけるぞ」と言う。
「あてがある。様子を見に行ってみよう」
嫌な予感がした。
ゼンジを小屋に置いて出発した。近くの村で馬を借りた。俺がよく仕事をしにきている村だったので「トウマちゃんのお願いなら、断れねえ」と格安で貸してくれた。
谷を下り、山を越えればもうそこは東方ではなく、中央高地だ。昔から東西南北各勢力の緩衝地帯で、それゆえにどこもここを統治しないので、犯罪者やすねに傷を持つ連中がたくさん隠れ住んでいた。たくさんというか、そういうヤツしかいないと言った方が正確だ。
奴隷商人として財を築いたヤツや、人間同士の殺し合いを見せ物にしている興行主とか、とにかく他の地域ならば「まともではない」と言われるような連中だ。深い森で覆われていて、日の当たる場所で生きていけない人間が隠れ住むには、ふさわしい場所だった。
高地を登っていくと、坂の途中に2階建ての屋敷が現れた。木造で赤く塗った小洒落た屋根がついているが、窓という窓に鉄格子がはまっていて、陰惨な雰囲気が漂っていた。
玄関の前で大柄な太った男が桶を洗っていた。薄汚れた白いシャツを着て、洗いざらしの青いズボンを履いている。ベルトが回らないのだろう、サスペンダーを使っていた。禿げ上がって、口髭に白髪が混じって、50〜60歳に見える。俺たちが近づいていくとすぐに気がついて、手を止めて体を起こした。葉巻をくわえていたが、火が消えている。
ゴンズが馬から降りると、男は「何しに来たんだ」と不愉快そうに言った。北国人に見えた。
「ご機嫌うかがいに寄っただけだ、スウィーニー」
スウィーニーと呼ばれた男はズボンのポケットからマッチを取り出すと、葉巻に火をつけた。
「昨夜は仕事だったみたいだな」
ゴンズがそういうと、スウィーニーはピンときたようだった。
「なんだ、お前の知り合いか」
プカッと煙を吐き出す。葉巻の匂いで、他の匂いがわからなくなりそうだった。この男以外に、この屋敷には間違いなく人間がいる。複数の違う匂いが混ざっている。そして、魔族もいる。独特の焦げたような香りがした。ここは魔族狩りのアジトか。ゴンズはバツが悪そうな笑みを浮かべると「知り合いってほどじゃないが…」と曖昧な言い方をした。
「商売の邪魔をするなと言ったはずだぞ」
あっちの方が優勢だ。なぜ、もっと強気に出ないんだろう。子供たちを返せとはっきり言えばいいのに。
「ちょっと狩りすぎたんじゃないか?あまり大々的にやらかすと、あいつらも黙っちゃいないぞ」
「人間を食わねえ魔族なんざ、怖くともなんともねえわ。用がないんなら、とっとと消えな」
スウィーニーは振り返ると、重そうなドアをドンドンと叩いた。それが合図だったように、建物の裏から続々と男たちが出てきた。スウィーニーのような中年もいれば、屈強な若者もいる。みんな一様に殺気立って、こちらをにらんでいる。
手に手に武器を持っていた。ナイフ、槍、剣。ボウガンを持っている者もいる。ざっと数えただけで11人いた。ゴンズは背筋を伸ばして、ふう〜と息を吐くと「わかったよ。まあ、そうカリカリするな」と言って、立ち去ろうとした。
「えっ、ちょっと待てよ」
まさか、何もせずに帰るのか?俺の声に、珍しく歩みを止めた。近付いて顔を寄せると「この人数相手にどうかしようっていうのか?」と声をひそめて言った。
「いいか、俺たち神武官が一度に相手できる人数は、人間ならせいぜい3人から5人だ。だけどな、武器を持っているヤツは2人分だ。つまり、ここには正味、20人以上いるんだ。その人数相手にやり合おうというのか?」
正直、できると思っていた。相手は魔族じゃない。武器を持っているとはいえ人間だ。
「子供たちを返せと交渉できないのか?」
俺はやっとの思いで言った。そんなことできっこない雰囲気なのは、馬鹿じゃないから分かりきっていた。だけど、言わないと気が済まなかった。ゴンズはフッと寂しげに笑うと「何も見なかった。俺たちは、何も見なかった」と言って、クルリときびすを返して馬の方に歩き出した。
帰り道、馬に乗っている間、ずっとナズナや子供たちの顔が頭の中でグルグルと回っていた。まだ生きているのだろうか。生きて、あの家に囚われているのであれば、助け出さないといけない。仮に殺されているとしても、せめて遺体を取り戻して弔ってやりたい。俺は、彼らに世話になった。そうしてやるのが筋というものだ。
ゴンズの言うことはわかったようで、全く腑に落ちなかった。俺たちは神武官だ。そこらの人間よりも訓練されていて、強い。特に俺は魔族に格闘術を教わって、普通の神武官よりも強いという自信があった。なぜ戦わない?ゴンズの臆病さに腹が立った。確かにリスクがあるのはわかる。あの人数相手に戦えば、殺してしまうだろう。
神武官にはいくつか決まりがあるのだが、その一つが「人を殺してはいけない」というものだ。それを守り切れるかどうか、誰も殺さずに魔族を救出して戻れるかどうか、何度も想像してみた。奇襲だ。ヤツらが眠った夜なら、できる。見張りがいるかもしれないが、1人や2人だろう。そいつらさえ静かにさせてしまえば、子供たちを救出して逃げられる。
小屋に戻ると、床にゼンジが横たわっていた。
「どうだった?」
目だけこちらに向けて聞く。
「多勢に無勢だった。すまんな」
ゴンズは首を振ってそう言った。そして俺のそばに来ると「いいか、絶対に乗り込んだりするんじゃないぞ。もう諦めるんだ」とささやいた。