「起きろ!」
翌朝はすごく早く起こされた。日が昇ったばかりなのか、山の向こうがうっすらと明るくなっている。全く酒が抜けていなくて、頭がガンガン痛んだ。
酒を飲むと必ず頭が痛くなるのは、勘弁してほしかった。体の節々も痛い。ゴンズの小屋には長椅子とテーブルしかなく、予備の布団などなかった。ゼンジともども木の床に寝たので、肩や腰が痛い。
「さあ、行くぞ」
ゴンズもゼンジも酒の匂いがすごい。3人で川に降りると顔を洗い、口をゆすいで、ついでに水を飲む。直接飲めるほど水はきれいだった。まだ夜露で冷たい山道を踏みしめて登っていく。日が昇るとすぐに蒸し暑くなり、酒臭い汗が全身から吹き出した。
尾根を越え、谷を下り、また尾根を越え、谷を下ったあたりに小さな集落があった。集落というほどの規模もない。3、4軒ほどの粗末な小屋が肩を寄せ合っていると言った方が適切だ。
周囲は岩の上にちらほらと草が生えているような荒地だが、そこだけ背の高い木に囲まれていて、ちょうどいい感じに住居が隠れていた。「移動してないのか?」とゴンズが聞くと「ここは場所がいいんだ。離れ難い」とゼンジは答えた。
帰ったぞと言いながらゼンジが近づいていくと、小屋から子供が出てきた。1人、2人、3人。まだ出てくる。4人目が出てきた。みんな深緑色の肌をしていて、頭になんらかの角を生やしていた。
「父ちゃん、おかえり!」
口々に言って、ゼンジに飛びつく。
「ゴンズも一緒だぞ。あいさつしろ」
子供たちは、こんにちはとかおはようございますとか、口々にあいさつをした。でも、ゴンズを見ていない。視線は俺の方に向いている。知らない人間が来たので、警戒しているのだろう。
「こいつはおっちゃんの仲間だ」
ゴンズはそう言いながら背嚢を下ろし、中から何か取り出した。飴だった。子供たちはそれを待っていたのだろう、うわーと歓声を上げて集まってくる。
「小さい子から順番だ。他にも食い物を持ってきたからな。母ちゃんに渡しておくから、後で一緒に食べなさい」
驚いた。魔族に施しをしている。
小屋の中には、まだゼンジの家族がいた。
「妻と娘だ」
奥さん、でかいな。もしかしたらゼンジよりも大きいかもしれない。でっぷりと肥えていて、いかにも肝っ玉母ちゃんという風情だった。口を開くたびに下あごの牙がチラチラと見えて、見た目はゼンジよりも恐ろしい。
「おやまあ、新しい神武官さんが来たのかい?よろしくね」
朝食を作っていたのだろう。鍋を焚き火にかけて、中身をしゃもじのような道具でかき回していたが、手を止めて右手を差し出してきた。握手するのか?魔族と?また混乱しながら、その手を握り返す。柔らかくて温かい手だった。少し力を込めれば、俺の手など握りつぶしてしまいそうな大きさだった。
「ナズナ、メシの前に少し彼と遊んでやってくれないか?」
ゼンジは自分の娘に声をかけた。見た目は俺とそう変わらない年齢に見える。痩せて、背の高い少女だった。父親と同じく、額の両側から角を生やしている。目つきの鋭い、気の強そうな子だ。
「えっ、あたしが?」
母親の手伝いをしていた手を止めて、俺を見る。戦う相手を紹介してやると言っていたけど、もしかしてこの子のことなのか?
結果から先に言えば、この時はコテンパンにやられた。正直、天狗になっていたし、魔族とはいえ、女の、しかも子供に負けるわけがないと馬鹿にしていた。
「オヤジは相撲でって言っていたけど、ここには土俵はかけないし、地面に手をついたら負けというルールでいい?」
集落は山の斜面にあって、足元は平らではなかった。こんな足場の悪いところで相撲もないだろう。相手は魔族とはいえ女の子だし、転ばせてけがをさせてはいけない。そう思いながら組み合ったら、あっさりと崩されて地面に手をつかされた。
魔族と組み合ったのは初めてだったが、鋼のような体だった。しなやかで、それでいて強い。人間にはない感触だった。いや、だが、重心を崩すことは、生き物ならみんな同じだ。
「もう一丁」
そう言って何度も挑んだが、這わされるわ、投げられるわで全然かなわなかった。
「どうした小僧、相手は女だぞ!」
そばでゴンズが他の子供たちと笑いながら見ている。昨夜、飲みすぎたんだ。そうに違いない。だからかなわないんだ。いや、酔っ払っている時に魔族と遭遇することだってある。そんな時にこの有様では命はない。いろいろなことが頭の中をグルグルと駆け巡った。
「君、力任せなんだよ」
もう嫌というほど転ばされて、地面に大の字になっていると、ナズナは俺をのぞき込んで言った。汗こそかいているが、息が切れていない。俺と大違いだ。畜生、全然ダメだ。
翌日から、俺はゼンジの家に通うことにした。もちろん、ナズナに教えを乞うためだ。相手が魔族だろうがなんだろうが関係ない。やられっぱなしで引き下がるわけにはいかなかった。
手ぶらで行くわけにもいかず、途中で山芋を掘って持っていった。ナズナに頭を下げて「俺に相撲を教えてください」と頼んだ。彼女は驚いた顔をしていたが、ゼンジが横から「教えてやれよ」と横槍を入れると、割とあっさりと「いいよ」と言った。
「その代わり、引っ越しの手伝いをしてくれよ」
その日、ゼンジは小屋の場所を移した。小屋は簡単に解体でき、家財道具も数があまりないので、ひとまとめにして運べた。尾根を越えて、2つ隣の谷へと移動した。集落は一族や友人で、一斉に動いた。
「どうして引っ越すんだ?」
「なんだ、ゴンズから聞いてないのか?」
ゼンジは不思議そうな顔をした。
「この辺りは、魔族狩りがよく出るんだ。ヤツらに居場所を突き止められないために、こうやって定期的に引っ越すのさ」
聞いたことがある。魔族を狩る人間がいるということを。他の先輩神武官たちは「よくやるよなあ」と半ば呆れ、半ば感心していた。自分の担当地域にいなかったので、他人事だった。だが、ここには出没するらしい。
「つい先日も、一つ先の谷の集落が襲われてなあ。おやじさんとおふくろさんは死体で見つかったよ。大きすぎて運ぶのを断念したのかなあ。肝だけ抜かれていたわ。子供は見つからなかった。小さな娘さんがいたんだけどな。かわいそうに、今頃は肉か、どこかに売り飛ばされているかだろう」
ゼンジは〝昨日の昼飯をどこで食ったか〟くらいのノリで話しているが、内容はゾッとするようなことだった。
どうして魔族を狩るのか?
魔族が集落を襲うからというだけではない。目的はさまざまだが、大きく2つに分けられる。まずは趣味として。彼らは鹿を狩るように魔族を狩る。大きな獲物だし、知能も高いので駆け引きが面白いのだそうだ。
もう1つは商売として。魔族を捕まえて、奴隷として売る。東西南北の各地の影響力が薄い中央高地は無法地帯で、眉をひそめる商売をしている連中がたくさんいる。その1つが奴隷商人だ。彼らは子供の魔族を捕まえて、労働力や愛玩用(ものは言いようだ)として売る。
生きたまま売っているのは、百歩譲って理解できる。今でも意味がわからないのは、殺して肉や骨を売っている連中だ。魔族の肝や角は、一部の人間には高級な薬として重宝されている。肉もそうだ。魔族を食べれば長寿になるという言い伝えを本気で信じている地域が、大陸の一部にはある。そういう連中が、魔族狩りからいい値段で魔族の肉を買うのだ。
話には聞いていたけど、本当にそういうヤツらがいて、それを警戒している魔族が目の前にいるというのは、ちょっと衝撃だった。
正直、最初に魔族狩りの話を聞いた時には、嫌悪感を覚えた。確かに1000年前には魔族が人間に対して、そういう仕打ちをしていただろう。だが今、逆の立場になったからと言って魔族を奴隷にしたり、肉を売りさばいたりしてもいいのか。
魔族は牛や馬ではない。人間の社会に溶け込み、末裔としてその血を繋いでいる者もいる。そこが他の動物とは決定的に違う。これまで会ってきた魔族も、それほど乱暴で恐ろしいヤツはいなかった。むしろ人間から隠れて住んでいて、そういう連中をあえて探し出して捕まえたり殺したりするということは、ひどいことに思えた。
引っ越した先は尾根の開けたところだった。
「ここなら誰かが接近してきたら、よく見えるだろう」
ゼンジは言った。それほど広くはないが以前と比べれば足場のいい平地があったので、そこでナズナに相撲を教えてもらった。
相撲というよりも、投げ技だな。相手を崩して、転ばせる。文字で書けば簡単だが、実際にはそんなことはない。力めば相手はそれ以上の力で押し返してくるし、逆に力を抜き過ぎれば自分が崩れてしまう。相手の重心を崩してコントロールする。何度も組み合って、経験して覚えないとできないことだ。
神武院でも投げ技はいろいろと学んだが、どれも結局は力が強ければなんとかなるものだった。だが、鬼は人間とはパワーが違う。彼らを投げるためには、まずしっかりと崩す必要があった。そのやり方を、この時に学んだ。
「こんなの子供同士で遊んでいたら、自然と身に付くもんでしょ」
ナズナはそう言っていたが、人間よりも桁外れに強い魔族相手には、俺の技術も体力も通用しなかった。力で勝る相手を制御するためには、もっと繊細な技術が必要だった。
ただで教わるわけにはいかないと思い、近くの村に積極的に出かけて働いた。「今度来た神武官さんは、よく働いてくれるから助かるわあ」とすごく感謝された。働けば食糧や衣類、時には金銭を得ることができた。必要な分だけ手元に残して、あとは全部、ゼンジの家に献上した。「こんなにしてくれなくてもいいのに」と言っていたけど、それでは俺の気が済まなかった。
少し転ばされないようになると、ゼンジの差し金なのかもしれなかったけど、ナズナは俺をあちこちに出稽古に連れて行った。単に遊びに行くのに、連れて行っていただけかもしれない。行く先々に同じくらいの年齢の魔族がいて、俺の相手をしてくれた。
相撲の時もあれば、殴り合いの時もあった。魔族の少年は基本的に背が高くて手足も長いので、打撃の相手としては非常に厄介だった。最初は手も足も出なかったが、何度もやっているうちに彼らのパワーやスピードに慣れていった。投げ技も少しずつ上手くなって、転ばせることもできるようになった。
俺が投げ技が得意なのは、この時期にここでみっちりと魔族相手に練習させてもらったからだ。ちなみに蹴り技が得意になったのも、ここでだった。ナズナのいとこにタマジという少年がいて、足技がうまかった。足を引っ掛けて投げるのがとても上手で、そこへの繋ぎ技として、足をよく蹴っていた。
これがすさまじく痛い。蹴られたくないから足を浮かせると、パッと引っ掛けて転ばされた。転ばされるのが嫌で踏ん張っていると、太ももを強烈な蹴りが襲ってくる。タマジには別に果物やお菓子を持って行って、蹴りを教えてもらった。神武院でも蹴りは習ったが、タマジに教わったことで何倍にも威力が増した。そう、俺の蹴り技は魔族仕込みなんだ。