腕の中のみずほの温もりがなくなったと思ったら、体がフワッと浮いて、気がつけば地面に転がっていた。激痛が全身を襲う。声を上げそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。痛みは次第に右の腰に集中して、あまりの苦痛に体が震え始めた。
「戻ってきた!」
つみれが俺の顔をのぞき込んでいる。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「頑張れ、もう少しだ」
オーキッドの大きな肩が見える。表情はわからないが、右足の処置をしているみたいだ。エンツォとシャウナがいた。
「名前を呼び続けろ!魂を出すな!」
相変わらずエンツォの声は大きすぎる。
「トウマ、頑張って!」
マリシャの不安げな顔が見える。背後にはパインとアルアラムもいた。それにしても、マリシャはやっぱりそっくりだ。笑ってしまうくらい、初めて出会った頃のみずほに似ている。
ごめんな、心配させて。
「トウマ、聞こえるか!死んだらあかん!トウマ!トウマ!」
つみれが耳元でうるさい。泣きすぎて、鼻水を垂らしている。それが俺のほおに垂れている。鼻水をふけ。もう大丈夫だから。腕を上げてどかせようとしたが、上がらない。震えも止まらないし、体がすごく重くて、どこも動かせなかった。
「足はもうダメだ」
オーキッドの声が聞こえる。
「いいよ、命が助かれば。まずはそっちが優先だよ」
シャウナの声だ。思った以上に、みんなが俺を助けようとしてくれている。好かれていたのだろうか。俺は、できるだけコイツらのことを好きにならないでおこうと努力していた。好きになってしまったら、日没都市に行くという目的を途中で見失ってしまうのではないかと、不安だった。
物心ついた時には、自分に価値がないと思っていた。
赤ん坊の時に神武院の門前に捨てられていた。拾われて、師父に育てられた。東方は貧しい地域なので捨て子が多い。乳飲み子は労働の邪魔だし、無用な荷物なのだ。だから、神武院に捨てていく。
あそこは神武官の養成所だが、孤児院もやっていて、少なくとも門前に置いていけば子供が死ぬことはない。捨てていく親にしてみれば山の中ではなく神武院の門前に置いていくことは、できる限りの優しさを示したつもりなのかもしれない。とはいえ、育てることを放棄したことに変わりはなく、それならばいっそのこと産まなければいいのにと思わなくもない。
脱線したが、そういうわけで、俺は実の親の顔を知らずに神武院で育った。神武院は捨て子ばかりというわけではない。師父の子供や、師父ではない職員の子供もいる。神武官になりたくて、親元を離れてやってくる子供もいた。寄宿舎制で、自宅から通ってくる生徒はいない。みんな師父の家で兄弟のようにして大きくなる。
自分が捨て子だと知ったのは何歳くらいだっただろう。4歳か5歳くらいか?ある日突然、兄だと思っていた子供から「トウマも捨て子だったから」と言われた。
それまでずっと自分は師父の子で、周囲の子供たちはきょうだいだと思っていた。捨て子であることに、何か問題があるのだろうか?最初はそう思っていたが、成長していくにつれて、親がいる子とは違うということを認識していった。親元を離れて来ているヤツが、夜になると泣く。親が恋しくて。だけど、それが捨て子にはわからない。
「大丈夫か。どうして泣いているんだ?」
「おっ母に会いたい…」
実の親がいないので、恋しいという気持ちがわからない。師父はいつもそばにいるので、寂しいと感じたこともない。
だけど、実の親がいることは、うらやましかった。それははっきりと感じた。時々、親が子供に面会しに神武院にやってくる。抱き合って喜び、食べ物や着物をもらっている姿を見ていると、自分がそういうものに不足していないにも関わらず、うらやましいと感じた。
師父は自分の子供たちと捨て子たちを分け隔てなく愛してくれた。リュウは年齢的に兄、雫は妹という感じで育った。2人が贔屓されていると感じたことは一度もなかったけど、実の親子は違うなと感じることはしばしばあった。
一番、そう感じたのは、俺よりも厳しくしつけられていたことだ。そこに期待度の違いを感じた。特にリュウに関しては。自分にもあんなふうに、厳しく言ってほしいと思った。高い目標を設定して、挑ませてほしかった。師父は自分に対して甘いと思う時、やはり実の子供と捨て子は違うのだと強く感じた。
それを意識するようになってから、自分に厳しくするようになった。リュウに負けないように勉強して、体を鍛えた。親がいる子供より優秀になって、認めてもらいたかった。
神武院では「役に立つ人になれ」と教えられる。神武官という仕事が、そういうものだからだ。人の生活を助け、よりよい生活に導いていく。そのために知識を身につけ、体力を養う。役に立つからこそ人に認められ、生きている価値のある人間になる。早く一人前になって、親に捨てられるような、価値のなかった自分から変わりたいと思った。
他の連中が遊んでいる時に進んで手伝いをし、誰よりも早く大人がやっている仕事を覚えた。13歳になると実地訓練に出た。外に出て先輩の下につき、実際に仕事をする。本当は15歳からなんだけど、必要な知識を習得したので、志願して外に出してもらった。
幸いなことに腕利きと評判の先輩とコンビを組めて、土木作業から医者の真似事まで、何から何までやった。失敗もたくさんしたが、自分が成長している実感があって、うれしかった。それは取りも直さず、価値のある人間に近づきつつあるということだったからだ。
たまに神武院に帰ると、いつまでも界隈をうろうろしている連中が馬鹿に見えて、イライラした。今にして思えば俺の方が生き急ぎすぎていて、あっちの方が本来のペースだったのだ。
14や15の子供が遊びもせずに汗水流して、他人のために橋をかけたり野良仕事を手伝ったりしている方がおかしい。周囲に同じような年頃の子供がたくさんいれば、遊びに行ってしまう方が自然だ。だけど、一刻も早く独り立ちしたかった俺には理解できなかった。
「随分とたくましくなったなあ」
もちろんリュウは悪気があって言っているのではない。でも、俺の目には、実の親の下という恵まれた環境でぬくぬくと過ごしながら、全然進歩していないように見えた兄弟子は、この頃は馬鹿の一人に見えた。
「たまには帰ってきたら? いつも出張ばかりで全然、いないじゃない」
雫は心配してくれていたのだ。だけど、あの頃はそれがわからなかった。俺にとっては、外に出て知識や技術が実際に使えるか試す方が大事で、神武院できょうだいと過ごすということに、意味は見出せなかった。
もともとあまり大騒ぎする方ではなかったが、俺はより感情を表に出すのをやめた。こいつらと一緒に笑っていたら馬鹿になってしまう。こいつらとは生きている速度が違う。もっともっと生き急いで、誰よりも価値のある人間になる。そう思っていた。
試験の時にリュウの膝をぶっ壊してしまったのも、そういう焦りが出てしまったんだ。リュウは俺みたいにガツガツ勉強したり鍛錬したりする人間ではなかった。天才肌で、なんでも器用にこなした。15歳になって外に出ると、さすが師父の子だと評判になるくらい、最初からいい仕事をやってのけた。
俺の方が2年も早く外に出てやってきたのに、この差はなんだ。自分が積み上げてきた価値が、崩れ落ちていくように感じた。リュウより劣るわけにはいかない。もっと必死に仕事に励んだ。コンビを組んだ先輩の仕事がなくなるくらいの勢いで働いた。
18歳になると生徒は皆、一人前の神武官として認めてもらうために試験を受ける。よほど鈍臭いヤツでもない限り、ほとんどの生徒はそこまでに2、3年は実地研修を受けているので、落第することはまずない。いつも使っている知識を答案用紙に書き、いつもやっている体術を披露する。それだけだ。
だけど、俺はそれでは気が済まなかった。他のヤツらよりも2年早く外に出て、少なくとも同期では一番、優秀な神武官になったことを証明したかった。わかりやすいのは組手だ。半端じゃないところを見せてやる。組み合わせが発表されて、俺の相手はリュウだった。好都合だ。実戦経験が違うところを見せてやる。頭に血が昇って、冷静さを失っていた。
実際に数えたわけではないので断言できないが、俺は他の同期に比べて実戦経験は多い方だ。というのも、それができる場所を選んで研修に行ったからだ。思っていたのとは違う形になったけど、結果的に多くの経験を積むことができた。神武院に近い地域は人間が多く、魔族はあまり出没しない。けど、南の方に行くと、魔族がよく出ると評判の地域があった。3年目以降の研修は、希望してそこに行った。
当時、一帯を担当していたのはゴンズという50歳くらいのベテランだった。東方人にしては大柄で、まず見事な太鼓腹に目がいく。坊主頭に丸眼鏡をかけていて、年齢以上に老けて見えた。大酒飲みということもあって、いつも浮腫んだ顔をしていた。