王女マリシャのことは知っているのだろうか?
「ああ、人間のリーダーだった子だろ?私はよく知らないけど、シャナはよく知っているはずだよ」
この話をしたのも、夜だった。エントはまた月明かりを浴びながら、瞑想の時間に入ってしまった。実際に瞑想しているのかどうかはわからないけど、月明かりを浴びだすと、瞑想しているように静かになってしまう。だから、アフリートと「瞑想の時間」と呼んでいた。
本人に聞くと、体内で魔法を合成することに集中しているので、しゃべっている暇がないのだそうだ。本物の木のように突っ立って、夜空に向かって枝葉を広げている。砂漠の中に一本だけ立っている木は、絵画のようだった。
魔族ってこうして見ると、きれいだな。一緒にいる時間が長くなればなるほど、魔族に対する抵抗感は薄れていった。昔、何かの本で誘拐犯と被害者の間には、ある種のシンパシーが発生するという話を読んだことがある。それと似たような感じがしないでもない。仮にそれだとしても、これだけ得るものが多いのであれば、ボクは喜んで受け入れたし、実際にそうした。
「シャナ」
アフリートが呼ぶと、エントの根っこのあたりからシャナが出てきた。
「マリシャがマリシャのことを聞きたいんだって」
そう言って、プッと吹き出した。同じ名前であることを、面白がっている。
「あなた、その子とめちゃくちゃしゃべっているわね」
シャナは無視して言った。
「だって、マリシャは面白いんだもの」
シャナはボクが見えているのだろうか?今、目が合っているのだけど、アフリートを見ているのか、ボクを見ているのか、どっちだろう。
「その人、もうやめろというくらい、しゃべるでしょ?」
うなずいた。アフリートも楽しそうにうなずいている。
「おしゃべりしない女なんて、女じゃないからねえ」
ゴロリと砂の上に寝転がる。ふと、体が自分の制御下に戻ってきた感じがした。右手を上げる。実際に右手が上がっていた。アフリートが支配権を手放したのか。右足を上げてみた。上がる。
「ずっとコントロールしていると、疲れるんだよ。つくづく不自由なものだねえ」
声だけは聞こえる。
「体を返してくれたの?」
「返したといえば、返した。返してないといえば、返してない。あんたと一緒にいるのは、同じ。だけど、疲れたから一時的にあんたに返すよ。ちょっとの間だけだ」
魔族に信頼という言葉があるのかどうか、聞きそびれてしまったからわからない。だけど、この時をきっかけにオアシスに行った時とか、エントやシャナが話し相手になってくれない時、アフリートは体を返してくれた。そうしてもボクが逃げ出したり、危害を加えたりしないと信頼してくれたのかもしれない。
「マリシャの話が聞きたいの?」
シャナは声が小さい。アフリートのようによく通る声でもないので、話を聞くには近寄らなければならなかった。立ち上がり、砂を踏み締めて隣に行く。月明かりが遠くの砂丘の稜線に反射して、くっきりと浮かび上がらせている。とてもきれいだ。ここまで来ないと、こんな風景を見ることもなかっただろう。
シャナのまなざしは、女子のボクでも思わずドキッとするくらい色っぽい。潤んだ瞳、長いまつ毛。それで見つめられると、思わず目を背けてしまう。
「マリシャとは一緒に東方に行ったの」
「えっ?」
声に出てしまった。シャウナほどの神話マニアではないけど、ボクもかなり読み込んだ方だ。そのボクが知らないことだった。そんなこと、ひと言も出てきた記憶はない。
「エントが木っ端微塵になってアフリートも封印されて、シェイドは逃げちゃって、私だけが残ったの。マリシャが『あなたはどうするの?』と聞くから『静かに暮らせるところに行きたい』って。そうしたら『じゃあ、一緒に行きましょう』ということで、東方に行くことになったの」
神話ではこの辺りはサラッと描かれていて、シャナはエントとアフリートが倒されたのち、東方の泉に封印されたと書かれている。
「王女はあなたを封印しようとはしなかったの?」
「しなかったよ。どうして封印されなきゃいけないの?私はあの時も、何もしていないわ」
1000年前も、エントに半ば無理やり連れていかれるようにして旅の一行に加わっていたという。エントが削られて芯だけになってしまうと、内部に隠れているわけにはいかず、姿を現した。シャナは抵抗するそぶりを見せなかったので、兵士たちは捕らえて王女の前に引き出して、先ほどのくだりに繋がったというわけ。
「あの頃の東方は、何もなかったわ。今みたいに木も生い茂っていなかったし、岩だらけの山しかなかった。人間があちこちに散らばって、身を隠して暮らしていたの」
魔族の時代は終わり、人間の時代がやってきた。だから、もう隠れている必要はない。出てきて、もっと暮らしやすいところに移住しなさい。王女はそう呼びかけるために、家臣を連れて東方の山々を巡り歩いた。魔族はすでに脅威ではないということを示すために、シャナを連れて行った。
「人間はびっくりしなかった?」
「したわ。でも、私が大人しくしていたら、大丈夫だとわかってくれた。何より、マリシャが一緒だったから。マリシャがいなければ、信じてくれなかったでしょうね」
シャナは行く先々で地下水を湧かせ、植物の種を蒔いた。東方をひと巡りした王女が屋敷を構えたのが、今の神武院のあるところだ。
「マリシャとはいろいろな話をしたわ。人間のことをたくさん教えてくれたし、逆に私から魔族のこともたくさん教えた。彼女は死ぬまで東方の山岳地帯を巡り歩いて、隠れ住んでいる人間を探し出し、時代が変わったことを伝えて回ったわ。さすがにふた回り目からはついていかなかった。その代わり、留守番をすることにしたの。あの泉でね」
王女が留守の間、シャナはせっせと泉を中心に木を植えた。水の精霊が潤いを絶えずもたらしたおかげで、木々はすくすくと成長して、今のような深い森になった。
「簡単に話しているけど、本当に時間がかかったのよ。マリシャに見せたかったわ。東方が緑豊かな土地になったところを」
そうか。シャナが作って、今も水をやり続けているから、東方の森はどんどん拡大しているんだ。広がりすぎて、南方では迷惑になっていることを伝えた方がいいかな?それにしても、人間側のリーダーが、敵対していた魔族の一人と親交を深めていたなんて初耳だ。神話に書きづらいとは思うけど。
「マリシャって、どんな人だったの」
シャナは潤んだ目でこちらを見ると、ゆっくりと瞬きした。またドキッとする。
「どんな人…」
夜空を見上げてしばらく考えてから「よく働く人」と言った。
「あんなに働く人は、見たことがないわ」
期待していた答えと違った。「優しい人」だとか「明るい人」だとか、性格を表すようなことを言うと思っていたのに。
「誰よりも働く人だから、みんなが彼女を助けたわ。そういう意味では、先頭に立つのにふさわしい人だった」
アフリートと話していても思うのだが、魔族にはどうもそういうところが理解できないみたいだ。誰かのために頑張るとか、人の役に立ちたいとか、そういう精神が魔族にはあまりない。だから、シャナの印象に残っている王女は、そういう部分がクローズアップされるのだろう。
「私が潜っちゃった後に、そんなことがあったんだ」
アフリートが割り込んできた。
「マリシャと過ごした日々は楽しかったよ。最初は敵だと思って身構えていたけど、仲間として扱ってくれたわ。寛大な人だった」
「だけどさあ、一番厄介だったのは、あのメガネくんじゃなかった?」
「ああ、あの司祭ね」
「司祭じゃなくて、僧侶よ」
「似たようなものよ」
「私はカインより嫌だったなあ」
誰の話をしているんだろう?
「それって誰のこと?」
「名前、なんだっけ?」
「エドワードよ。後からマリシャの屋敷に来て、夫になったわ」
ああ、賢者エドワードのことか。
「もう一人、魔法使いがいたと思うんだけど」
「いたいた。魔族なのに、人間側についちゃったヤツが」
「アフリート、名前を覚えてないでしょ」
「わかる? 苦手なんだよ、名前を覚えるの」
「ニュウニュウでしょ」
王女のそばで暮らしていたせいか、シャナは人間側の仲間の名前をよく覚えていた。