「では、行くぞ! ワン・ツー・スリー!」
タイタンのカウントに合わせて体が浮いた。浮いたというより、何かに空中に投げ出されたという感じだ。一気に加速して上空へ舞い上がる。
「うわあっ、面白れえ!」
ヒイロの歓声は、ものすごい風切り音にかき消された。基地があっという間に遠くなる。なるほど。この魔法は空中を自由に飛行しているというより、希望した地点まで投げてもらっている感じだ。ということは、落下した先がアッシュールか。
帰ってきた時、シャウナがヘロヘロになっていた理由が少しわかった。この魔法は体への負担が大きい。今、右手でアルアラム、左手でシャウナを捕まえているのだが、加速がすごくて腕がちぎれそうだ。体の向きをうまくコントロールしていないと、風圧で首や腰を痛めそうでもある。
しかも思った以上に長時間、飛んでいる。アルアラムはもう握力がなくなって、俺が捕まえていないと脱落してしまいそうだった。一気に飛ばないで、どこか中継地点を作って何度かに分けて飛んだ方が楽だ。次からはそうした方がいい。いや、それ以前に人数分の馬車を手配しよう。そんなことを考えていたら、ようやく降下し始めた。
上空から見るアッシュールは壮大だった。北の方から大地が裂けたように谷が始まり、南に向かうに従って広くなっていく。ずっと南の端まで行けば海だろうか?地平線が少し青黒く見えるのは、あそこが海だからかもしれない。谷の中にはさらにひだのように凹凸があり、隠れることができるポイントがいくつもあった。よくこんな厄介な場所で戦ったものだ。
左側、要するに東側の小高い場所に、ボロくずを散らしたように見える一帯があった。アルバースの陣営があったところだ。落下地点は、そこからまっすぐ谷底に降りたところだった。
真っ逆さまになって落ちていく。おいおい、ちゃんと止まってくれるんだろうな?不安になった頃、ようやく減速した。ふわりと足から着地する。満面の笑みでこちらを向いたパインが、何か言おうとしてゴホッとむせた。乾燥地帯を飛行してきて、喉がカラカラなのだ。ゴホゴホ咳き込んでから「すっごい楽しい!」と言った。
到着したのは昼過ぎくらいだった。太陽がカンカン照りで、地面にくっきりと砂丘の影が落ちている。
「で、どこだ?」
タイタンが言った。ヒイロは谷底の真ん中あたりまで走っていくと、手招きした。
「いいか。『行ける』という気持ちが一番、大事なんだ。『こんなところに街なんてあるわけがない』と思ったら、入れないからな」
ヒイロはみんなを見回して言った。
「何もないけど、ここからは日没都市だ」
空中に壁があるかのように、手を滑らせた。
「どんな魔法を使うんだ。見せてくれ」
タイタンがじりじりしている。
「それじゃあ、行くぞ。みんなこの線の上に一列に並んで」
ヒイロはつま先を使って、地面に線を引いた。その上にずらりと並ぶ。右端からヒイロ、トウマ、シャウナ、俺、タイタン、つみれ、パイン、アルアラム、エンツォ、アイシャ。
「いやあ、ついにこの時が来た! 生きていてよかった!」
エンツォは小躍りしている。
「じゃあ、せえので行くぞ。せえの!」
ヒイロの合図で、一歩踏み出した。
一瞬、真っ暗になって、何かまずいことをしたのかと思ったが、違った。ついさっきまで明るい太陽の下にいたので、暗くなったように感じたのだ。体を包んでいたカラリと乾燥した暑い空気が、ひんやりとした湿ったものに変わる。植物の匂いがする。湿った土の匂いもだ。何もかも一変した。
まず、目に飛び込んできたのは、川の向こうにある、俺の背丈ほどの木だった。松だろうか。すぐ足元から川なのか池なのか、よくわからないけど水場で、50メートルほど先が対岸になっている。河岸は芝生だ。そこに一本だけ、先ほどの松が生えている。その向こうは森だった。それほど深くはない。というのも、木々の向こうに街並みが見えたからだ。
左右を見回す。みんな通過できたみたいだ。
「ここが日没都市なのか?」
エンツォが左右を見回している。
「川を渡って、あっちの森の向こう側だ」
ヒイロは腰の帯に差していた刀を抜くと頭の上に乗せて、特に説明もないまま川にジャブジャブと入っていった。
「あ、ちょっと待て! 誰かワシをおぶっていけ!」
タイタンが叫んでいたので思わず振り返った。目が合う。仕方がないので、背中に担いだ。
川はそれほど深くない。真ん中あたりに来ても、ヒイロの胸くらいまでした水がなかった。シャウナでも腰まで浸かるかどうかという程度だ。しかも、流れがほとんどない。底は水草が茂っているので、歩きやすかった。ただ、タイタンはものすごく足が短いし、開きのような体型をしているので、こんなところに入ったら歩きづらいだろう。
「なあ、俺、実は医者なんだ。その俺から言わせてもらえれば、あんたの体、おかしいんだけど」
初めて見た時から、気になっていたことを聞いた。
「あんた、まるで魚の開きみたいなんだが、その体型、どうしたんだ?」
タイタンはホホッと笑い声のようなものを発した。
「魔法が使いやすいように変えていった結果、こうなったんじゃ。前にも後ろにも表面積が大きくて、感覚器も通常の倍ある。最強の魔法使いを目指した結果じゃ。なぜ他の者が真似しないのか、不思議でならんわ」
そんなグロテスクな外見、どんなに便利だとしても誰も真似しないだろう。
「魔法で自分の体を改造したということなのか?」
「そういうことじゃ。以前はそんな魔法も使えた。昔はお前らが足元にも及ばないほど、多くの魔法を駆使したものじゃ。アフリートもワシのものじゃった」
四大元素の一つを従えていたくらいだから、さぞかし有能だったのだろう。
「なぜアフリートと訣別したんだ?」と聞くとタイタンは「あいつの頭がおかしいからだ!」と言ってギリギリと歯軋りをした。
「万物の源と一緒にいれば魔法は使い放題!あの炎があれば向かうところ敵なしなのに、あいつは旅をすることばかり考えて、世界を自分のものにしようとしなかった!ワシと一緒ならできたのに!ワシを引きちぎって捨ておった!」
なるほど。なんとなくアフリートがこの爺さんのことをうっとうしいと感じた理由が、わかってきたぞ。
「あんたは世界を自分のものにしたいのか?」
「そりゃあ、したいじゃろう。ワシは大陸最強、いや、世界最高の大魔道士だぞ。世界がひざまずく大王なのだ。今はお前らにこうやって協力してやっているが、本来は頭を下げても、こんなことはやってやらない。アフリートを取り戻す、それまでじゃ」
世界征服という妄想を振りかざす人間を過去に何人か見たことがあるが、俺はそんなことができるとは思わない。世界が家の庭くらい小さければ話は別だが、そうじゃない。世界は広い。自分の思う通りにならないことだらけだ。
ムスラファンは強大な国で大陸の半分くらいを占めているが、こうして西の端に来ると国王の威光は及んでいない。遠くへ行けば行くほど影響力は薄れて、別の生活がある。世界征服が夢まぼろしだと思うのは、そういう理由だ。仮に大陸中の魔法使いを配下に収めたとしても、魔法使い以外の人間はたくさんいる。所詮、小さな世界の王様になったに過ぎない。
「お前も世界をその手に収める力を得ることができれば、そうしたいと思うじゃろ?」と聞くので「どうだかな」と返事しておいた。
対岸に到着した。
「ここ、どこなんやろうな。魔力で包まれているわけでもないし、タイタンのダンジョンみたいに魔力で作られているわけでもない。普通にどこかに存在する街なのか?」
つみれがエンツォと話している。
「あの〝カーテン〟を通った時に、少しだけ魔力を感じました。瞬間移動したのではないでしょうか?」
エンツォがいう〝カーテン〟というのは、俺たちがアッシュールの谷でくぐり抜けてきた、何かのことだ。確かにヒイロの合図で一歩踏み出した時、何か魔力の気配を感じた。
「瞬間移動したのか、時空の歪みみたいなものなのか…。なんにせよ不思議やな」
「帰る時はどうするんでしょうね?」
「同じやないかな」
タイタンを地面に下ろす。
「ちょっと待て!どうせここまで担いできたのなら、最後まで担いで行け!」
うるさい年寄りだ。でもまあ、この短い足でヨタヨタ歩かれては、いつまで経っても前に進まない。文句を言いたくなるのを我慢して、もう一度、背中に担いだ。
「ようし、いいぞ。後でしっかり魔力を注入してやろう。お前はなかなか使い勝手の良さそうな魔法使いだ」
満足げにしゃべっている。
ヒイロは腰に刀を差し直すと、森の中に向かって歩き出した。木々の間から赤っぽい石を積んで作られた城壁らしきものが見える。
「ちょっと待ってくれ!」
エンツォが呼び止めた。
「街の中は魔族でいっぱいなんだろう?俺たちがノコノコ入っていったら、あっという間に取っ捕まっちまうんじゃないのか?」
ヒイロは足を止めて振り返った。
「何言っているんだ?ここでは人間も魔族もないのさ。実際に俺が街の中をうろうろしていても、何も起きないんだから。気にする必要はないよ」
当たり前のことを聞くなとでも言いたげだった。だが、人間と魔族が対立しているのが俺たちの世界の常識だ。確かに一部では融和が進んで、俺のような混血もいる。だけど、魔族がたくさん住んでいる中に、俺たち人間が入って行って無事だというのは少し考えにくい。
「変装とかした方がいいんじゃないかな」
アルアラムはそう言ってマントのフードを深々と被った。俺とパインは大丈夫だろう。人間っぽくないし。つみれもいざとなればターバンを外せばいい。トウマにシャウナ、エンツォとアイシャはヤバい。タイタンは大丈夫だ。人間に見えないから。
ヒイロはどんどん歩いていく。足元は誰か手入れをしているのではないかと思うほど芝がきれいに生えそろっていて、裸足で歩けば気持ちよさそうだった。鳥の鳴き声が聞こえる。薄曇りの空が赤く染まり始めて、日が落ちてきたことを知らせていた。
近くで見ると、城壁としか言いようがない壁だった。それに沿って右手に歩くと、門が現れた。石造りで頭上にアーチがある。夕日を受けてピンク色に見えた。門番はいない。
「さあ、ここが日没都市だぞ」
勝手知ったる場所なのだろう、ヒイロはスタスタと入っていった。