どれだけそんな生活をしていたのか、わからない。何しろ時間の経過を意識したことがなかったから。
だけど、悪いヤツにはいつか天罰が下るものだ。ある日、ムスラファンの討伐隊と出くわした。出くわしたと思ったのはこちらの方で、あちらは評判の悪い山賊を討伐するために待ち構えていた。
食糧を奪いに、ある村を襲撃した。住民はみんな避難していなくて、代わりに討伐隊が潜んでいた。強弓で一斉掃射されて、手負いになったところを斬りかかられた。狼団はそれなりに大きな集団なのだが、相手も十分な人数をそろえていて多勢に無勢だった。散り散りになって逃走した。俺は先頭にいたから、討伐隊に囲まれてしまった。
振り返ると仲間が逃げていく。おい、助けてくれ!と思った。ろくでなしの集団ではあるけど、戦う時にはそれなりにチームワークがあった。背中を任せている感覚もあった。今にして思えば笑える話だ。それが間違っていたことを、あの時、思い知った。
矢は毒さえ塗っていなければ、刺さったところで致命傷にはならない。俺くらい頑丈ならね。だけど、槍や剣は違う。突かれたり切られたりすると、さすがにダメージを負う。当時、戦う時は両手に短剣を持っていた。飛んだり跳ねたりするときに、槍や剣は邪魔だったからだ。
この時ばかりはそれが裏目に出た。槍相手に短剣で戦うのは厳しい。突かれて傷だらけになって、必死の思いで逃げ出した。腹を突かれて血が吹き出していたけど、気にしている場合ではなかった。
どこをどう逃げたのか、覚えていない。気がつけば、どこかの家の中だった。天井が見えた。煤で黒くなった太い梁があり、茅で葺いた屋根が見えた。体が動かない。声も出ない。あの頃はちゃんと話せなくて、唸ったり吠えたりして意思疎通していた。だけど、唸り声すら出せない。息をするたびに腹の傷が痛み、まだ生きていることがわかった。薄い布団に寝かされていて、誰かに看病されているようだった。
どこかで足音がした。近づいてくる。人間の気配だ。線香(その時は全く興味がなかった。線香というものを知るのは、後になってからだ)の匂いがした。しばらく待っていると、視界に小さな老人が現れた。
「気がついたか。なかなかしぶといヤツだな」
異相だった。色白でしわだらけの顔の中で、猫のような金色の目が異様に目立っている。頭は禿げ上がって、耳の上に白髪が少し残っているだけだった。痩せていて、への字に結んだ口元からは厳しい印象を受ける。黒衣を着ていた。北西部には神話に出てくる神様以外を信仰している宗教があって、その神様を祀っている寺院があるのだが、そこの僧侶の服装だった。老人は俺の額に手を当て、体のあちこちも触った。
「よくこれで生きていたものだ。意識を取り戻したなら、あとは日にちぐすりだろう」
さっぱりわからなかった。さっきも言ったけど、当時の俺は動物のような生活をしていて、知識も動物並みだったから。最初は老人が医者だともわからなかったし、そもそも何を言っているのかすらわからなかった。
老人は俺を看病してくれた。水を飲ませ、飯を食わせ、体を拭いて、手当てをしてくれた。なぜ助けてくれるのだろう?最初はそれがわからなくて怖かった。もしかしたら生かしたままどこかへ連れて行かれて、処刑されるのではないか。体が動くようになったら、早く逃げて仲間の元へと戻らないと。いや、それ以前に仲間はなぜ助けに来てくれない?あんなに役に立っていたのに、なぜ?毎日、天井を見上げながら考えた。朝が来て、夜が来て、一日が過ぎ去っていく。暇なので何日経ったのかを数えた。10日経った。見捨てられたのだと思った。
「ああ、うう」
声が出るようになったので、唸ってみた。
「なんだ、話せないのか」
老人は俺に水を飲ませていた手を止めると、コップを指差して「コップ」と言った。そして再び水を飲ませると「今、お前の口に入っているものは『水』だ」と続けた。
それから、読み書き教室が始まった。老人は「ヘイメン」と名乗った。この家というか寺院に、一人で暮らしていた。
「そうだな。とりあえずワシのことは『老師』と呼びなさい」
「ロウ…シ」
「そうだ」
体を起こせるようになったものの、立って歩くことはできなかった。老師は寝床に文机を持ってきて、起きている間はほぼつきっきりで文字を教えてくれた。生まれてこの方、人を傷つけることしか知らなかったので、学ぶことは楽しかった。
「ロウシ、ミズ」
「水をください、だ」
起き上がれるようになると庭に連れ出して、目に入るものの呼び名を教えてくれた。
「これが石だ」
「イシ」
「あれは木だ。木にもいろいろな名前がある。あの木はクスノキという」
「クスノキ」
「上の方の青いところは空だ。空に浮かんでいる、フワフワしたものは雲」
「ソラ…クモ…」
言葉が話せるようになったので、前から聞きたかったことを聞いた。
「なぜ、俺を助けた?」
その時、老師は薪を割っていた。小さな老人が使うには不釣りあいに大きな鉈を手にしている。あれを奪ってこの老人の首をはねて、ここから逃げ出すのは簡単だ。そんな考えがチラリと頭をかすめたが、しなかった。俺はまだまだ学びたいと思っていた。老師は手を止めると、こちらに体を傾けた。
「そうだな。お前が哀れに見えたからだ」
哀れという意味がわからなかった。
「アワレ?」
「意味がわからないか」
老師は少し笑った。
「お前は山の中でボロボロになって倒れていた。ワシは知っとる。お前はこのあたりを荒らし回っとる山賊の一味だ。そのまま放っておこうかと思った。だがな、ワシは医者だ。医者に見捨てられるお前のことを思うと、なんと悲しい生き物なのかと思った。それが、哀れということだ」
よくわからなかった。それ以前に、俺のことを知っていたことに驚いた。てっきり知らないから、助けているのだと思っていた。俺が悪さを働いてきた人間だと知って助けてくれたのかと思うと、腹の底が熱くなる感じがした。後で知るのだが、それは恥ずかしいという感情だった。
「そういえば、お前の名前をまだ聞いていなかったな」
そう言われたが、俺には名前がない。狼団では「お前」とか「コイツ」とか呼ばれていて、きちんとした名前はなかった。
「そうだな。では、オーキッドという名前にしよう」
「オーキッド? どういう意味ですか?」
「花の名前だ」
えっ? 俺は野獣みたいで、とても花の名前が似合うような見た目はしていない。
「なぜ、花なのですか?」
老師はフォフォと楽しそうに笑った。
「ゴリラとかイノシシとかより、よっぽどよかろう。どうせ名付けるならば美しく、愛らしい名前の方がいい」
動けるようになると、老師は俺をいろいろなところへ連れて行った。主に食糧を入手する時に駆り出された。川で網を打って魚を取る。たくさん取れて俺が喜んでいると「こんなに食べないから、この2匹以外は逃してやりなさい」と言って放してしまった。「なぜですか? たくさん取れたのだから、腹一杯食えばいい」。俺は憤慨した。
「今日はそれでいいかもしれない。だけど、それでは明日食べる魚がいなくなってしまう。来年食べる魚もいなくなってしまう。命をいただいているのだ。大切にしろ」
弓矢で鳥を取る時も、罠で兎を取る時も、老師は同じことを言った。寺院に戻ると、薬の作り方を教わった。教わったというか、強制的に手伝わされた。木の根や石を拾ってきて臼で挽くのが、俺の担当だ。サラサラの飲みやすい粉にすると一回分ずつ紙で包み、箱に詰める。これで準備完了だ。
「よし、明日は村に行くぞ。お前はワシの助手だ。それだけデカければ、荷物もたくさん持てるだろう」
そう言って、ニヤリと笑った。