翌日、村人が10数人で寺院に押しかけてきた。皆、斧や棒を手に、口々に「黒いケモノを出せ!」と叫んでいた。
老師は門を開けなかった。しばらくガンガンと門を叩く音がしていたが、そのうちに諦めたのか、静かになった。次に村人がいつ押しかけてくるのか、もし門を斧で叩き割って入ってこられたら、どうすればいいのか。考えると恐ろしくてたまらなかった。
「さあ、こっちに集中しろ」
老師は宣言通り、翌日から俺に医術を教えてくれた。薬の作り方、手当ての仕方、縫合の仕方。それから、魔法だ。
「なかなか見込みがある」
次々に寺院で唱える念仏のような呪文を教えてもらった。唱え方に特徴があり、喉の奥をすぼめるようにして長い呪文を圧縮する。高速呪文という古い魔法の一つだと教えてくれた。
医術を学ぶことに集中して、恐怖を無視するようにした。夕方に薬が必要な村人がこっそりと寺院を訪れてくることがあったが、こういう人たちは攻撃的ではなかったし、俺がいても見て見ぬふりをしてくれた。
「本当ならここを離れて、別の場所に行ってもいいんだがな。そうすればお前に医術を教えることに集中できるんだが、村の連中を放っておくわけにもいかないからなあ」
老師はボヤいた。心苦しい。俺がいなければ、村の人も老師から心置きなく治療を受けられるだろうに。俺がいるせいで、老師は自由に村に行くこともできない。その分、医術を学ぶことに全力を傾けた。老師の全てを吸収しようと、寝る間も惜しんで勉強した。
そんな生活が2年ほど続いた。「うん、もう教えることはない」と言われた時は、ホッとした。
老師はここ半年ほどで急激に老け込み、体力がすっかり落ちた。村に行かなくなり、人と接触したり、出歩く機会が減ってしまったせいかもしれない。定期的に山を歩き、薬の材料を集めていたが、俺がおぶって行くことが多くなった。寺院で月に一度、開催されていた集会は、俺のせいで開かれなくなった。集会時にはいろいろと村人から食糧の差し入れがあったのだが、それもなくなって栄養状態が悪化したのかもしれない。
とにかく、俺が負担をかけてしまったことは間違いない。申し訳なくて、ただでさえ痩せていた体が、さらに痩せ細っていくところは、見ていられなかった。栄養をつけてもらおうと魚や鳥を捕まえて料理してみたが、以前ほど量を食べられなくなっていた。
間もなく、老師は寝たきりになった。「もう年だから、仕方がない」と言っていたけど、納得できなかった。全てを教えたと言われても、俺はまだまだ老師から学びたかった。同じことでもいい。もう一度、教えてほしかった。ある日、昼食を持って行くと、珍しく布団の上で上体を起こしていた。
「体が冷えますよ」
そばに行って、小さな肩に布団をかけた。
「なあ、オーキッドよ」
老師は金色の瞳をこちらに向けて、言った。年を取っても、目の力は衰えない。
「ワシが死んだら、先代の墓の横に埋めてほしい」
この話はここ数日、毎日のように聞かされていた。「はい」。わかっています。耳にタコができるくらい聞きました。老師が先代からずっと繋いできた系譜を大切にしているのは、よく知っていた。
「それからな」
老師は少し体の位置をずらして、こちらに向き直った。
「ワシが死んだら、旅に出なさい。この近所には、お前の敵が多すぎる。狼団の黒いケモノを知らない人がいるところに行って、医者をやるんだ」
素直に聞き入れられなかった。老師が死ねば、ここに埋葬することになる。ここを離れれば毎日、墓の掃除はできない。それに、恨みと憎しみを抱かれているとはいえ、老師が大切に見守ってきた村人を見捨てて遠くへ行くというのは、受け入れ難かった。
「嫌だと思っているだろう」
心の中を読んだかのように、老師は俺の顔をのぞき込んで言った。
「はい」
「オーキッドよ」
老師は布団の中から手を出すと、俺の左手の上に置いた。いつもこうして手を引いて、導いてくださった。感謝の思いは尽きない。そんな恩師のもとを離れることは、たとえ死んだ後でもできない。
「実は、ワシに夢があるんだ」
俺の手を、優しくなでた。
「大陸中を旅して困っている人を次々に助けていくという夢だ。どうだ、すごかろう」
悪戯っぽく笑う。どうしてそんなこと今、言うんですか? そんな話、今まで聞いたことがない。
「ワシの夢を、叶えてくれないか。お前は、いつでもここから逃げ出すことができたのに、最後までワシのそばにいてくれた。ワシの全てを受け継いでくれた。だから、最後もワシのわがままを聞いてくれ。お願いだ」
俺を旅立たせるためのハッタリだ。でも、そこまで言われたら、言われた通りにするしかないだろう。
「はい。わかりました」
辛くて、切なかった。翌朝、老師は眠ったまま息を引き取った。予感がして、夜通し枕元にいた。息遣いが静かに消えた後、声を殺して泣いた。一人にしないでください。老師、どうか俺を一人にしないでください。
言われた通りに、先代の墓の隣に老師を埋葬した。いつか自分も、その隣に埋めてもらおう。そう思いながら数日をかけて寺院を隅から隅まで掃除して、徹底的に戸締りをした。
荷物をまとめて村へ下りる。最初に村へと降りて以来、半年くらいは村人が寺院に押しかけてきていたが、それ以後は諦めたのか、薬をもらう人以外は来なくなった。かつて斧で斬りかかろうとしてきた男の家に行く。村に入ると、また子供たちが「魔族が来たぁ!」と言って逃げていった。大人たちの視線も前回とは異なり、最初から敵意に満ちている。無理もない。玄関をノックした。村人が遠巻きに集まってきているのを感じる。
「なんだ!」
ドアの向こうから声がした。
「俺だ。ヘイメン先生の助手だ」
開ける気配はないが、ドア越しにこちらをうかがっているのがわかる。また斧を手にしているだろうか? それならそれでいい。一歩下がって、頭を下げた。
「家族を殺してすまなかった。謝って許されるとは思っていない」
顔を上げる。
「ヘイメン先生が亡くなって、お寺に埋葬した。俺はこれから旅に出る。お願いできる立場ではないとわかっているが、先生のお墓を時々、掃除してもらえないだろうか」
自分で言っていて呆れる。本当にお願いできる立場ではない。馬鹿にするなと斬りかかられても仕方がない。だけど、これだけは誰かに伝えておきたかった。俺に強い印象を持っている人ほど、記憶に残してくれるだろう。仮にその人がやってくれなくても、その人が誰かに話せば、その誰かがやってくれるかもしれない。何しろ老師は長らくこの村の主治医だったのだ。みんなが憎いと思っているのは俺だけで、老師のことを憎いと思っている人は少ないはずだ。そういう狙いだった。
返事はなかった。あると思ってもいなかった。それなりに大きな声を出したので、遠巻きにしていた村人にも聞こえたはずだ。頼む、誰かやってくれ。心の中でそう祈りながら、足早に村を出た。
それから、あちこちを旅した。あれから何年経ったかな。もう100年くらい経ったんじゃないか? 末裔は長生きすることが多いのだけど、まさかこんなに生きるとは思っていなかった。
おかげで数え切れないほどの人を治療した。命を救った人も少なくない。たくさんの人に出会った。寺院を出た時は寂しかったけど、感謝してくれる人や励ましてくれる人に出会って、いろいろな経験をして、今ではそれなりにやりがいを感じて生きている。全て老師のおかげだ。
俺ももう寿命だと思ったら寺院に帰るつもりだが、あの村はどうなっただろう。もう俺のことを知っている人間はほとんどいないんじゃないか。幸いなことにと言っていいのかどうかわからないけど、「狼団の黒いケモノ」を知っている人には、もう会わなくなった。
だけど、俺の記憶には今もヤツがいる。俺が背負っている闇の中にいて、いつでも俺を引きずり込もうと狙っている。闇というのは、そういうものだ。俺は自分が犯した罪を償うために、自分の闇と向き合って、人助けをする原動力にした。したというか、老師がそうしてくれた。だから、今もきちんと向き合えている。
トウマはどうなんだろう?あいつは闇を戦う力に変えている。アッシュールで戦った時、トウマが強い理由は闇の力を使っているからだと確信した。それが闇と向き合えているせいなのか、闇落ちしたせいなのかはわからない。ただ、あまりいいことだとは感じなかった。