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第51話 報いは必ずつきまとう

 寺院は山頂近くにあって、ほとんど人は来ない。月に一度、近くの村の人が集会をするためにやってくる。老師はそこで彼らの祖先のために念仏をあげ、説法をする。俺は自由に動けないうちは奥の間で寝ていたので、村人の前に姿を現すことはなかった。


 それだけに、人前に出るのは怖かった。老師からくどくどと「命を大切にしろ」と言われて、人をたくさん殺した自分が、実は悪いことをしていたのではないかという疑念があった。



 翌日、大きな背負い袋に薬を詰めて、山を下りた。前夜に老師が髪を切ってくれて、伸び放題だった髭も剃ってくれた。俺は頭に角がある。このてっぺんのあたりだ。それが目立たないように、西域でよく男の人が使っているターバンを巻いてくれた。


 「お前のためにコツコツ作っていたのだが、寸法が合うかのう」


 そう言いながら取り出してきたのは、着物だった。薄緑色に染めた着物は老師の体の何倍も大きかったが、俺が着ると少し小さいくらいだった。


 「大丈夫です」


 山賊だった頃の面影はないはずだと、自分に言い聞かせた。



 村に着いた。そこそこ大きな村だ。狼団ならばここを襲えば、7日くらいは居座るだろう。それくらい食糧や水がありそうだった。俺を見て、道路で遊んでいた子供たちが「魔族が来たぁ!」と言って逃げて行った。魔族か。まあ、それもあるな。山賊だと言われないだけ、まだマシか。


 「気にするな。さあ、行くぞ」


 老師はスタスタと歩き出す。背筋がシャキッと伸びて、ものすごい健脚だ。気にするなと言われたが、明らかにこちらを見る目は好意的ではない。老師が一緒にいるから許されているが、俺一人ならば、すぐに石が飛んできそうな緊張感が漂っていた。


 それでも何事もなかったかのように患者の家を一軒ずつ訪ねて、診察していく。俺も一緒に家に入ると大抵、ギョッとされて、老師が「ワシの助手だ」と説明するということを繰り返した。何軒目かで、老婆を診ていた時だった。部屋の隅で見ていた息子らしい男が突然、叫んだ。


 「お、お前、狼団にいた黒いケモノじゃないのか?」


 表情が恐怖に歪んでいる。後退りしながら俺をまじまじと見て「ま、間違いねえ!」と言った。


 「母ちゃん、こっちに来い!」


 男は弾かれたように老婆に駆け寄って手を引くと、部屋を出て行ってしまった。


 「やれやれ。気づかれてしまったかのう」


 老師は淡々としている。まずいぞ。人を呼ばれでもしたら、ただでは済まない。何も武器を持っていない。老師を見ると、診療道具を鞄に仕舞っていた。


 「さあ、次へ行こう」


 部屋のドアを開けて外に出ると、先ほどの男が薪割り用の斧を手に、すごい形相で立ち塞がっていた。後ろに同じく村の者であろう、斧や棒を手にした男が三人いる。


 「間違いない、狼団の黒いケモノだ!」


 男たちも口々に叫んでいる。遠巻きに他の村人も集まってきた。どうする。走って逃げるか。戦うことは許してくれまい。そう思っていた時、老師が一歩、前に出て「何事だ。この者はワシの助手だ」と言った。


 「老師、その男は、このあたりを荒らしまくっていた山賊の一人です」


 男は震える声で言った。顔が紅潮して、涙が浮き始めている。


 「コイツ、俺の嫁と子供を殺しやがったんですよ!」


 老師は俺の横に来ると、肘あたりを小突いた。なんだろう?と身を屈めると「いいか。ワシが切り付けられたら、すぐに走って逃げろ。くれぐれも村人を傷つけてはならんぞ」とささやいた。


 「今ここで仇を討ってやる! 老師、どいてください!」


 男は斧を構えると、ジリジリと近づいてきた。老師は鞄を地面に置くと、男の前に進み出て土下座した。


 「許してやってくれとは言わない。どうか見逃してくれないか」


 男の足が止まる。まずい。老師は自分を切らせて、その間に俺を逃すつもりだ。


 「コイツは知っての通りの悪党だ。だが、今はワシの助手なんだ。どうか、見逃してやってもらえないか」


 土下座したまま男ににじり寄って、もう一度言った。斧を振り上げかけていた男は、半歩後退する。


 「こ、殺せっ」


 どこかから声がかかった。


 「俺の娘もそいつに殺されたんだっ、殺せっ」


 「私の夫もそいつに殺された」


 「ワシの息子も殺されたっ」


 取り囲んだ人々から声が飛ぶ。怒りと憎しみに満ちていた。老師はゆっくり立ち上がった。斧を構えている男を見据えると、取り囲んだ群衆を見渡した。


 「もう一度言う。どうか、見逃してやってはくれないか。代わりにワシの首を差し出そう。足りないと思うがな」


 朗々とした声だった。前にも話したけど、老師の目は金色で猫のようだ。あの目で見つめられると動けなくなる。斧を構えた男も、取り囲んだ村人も、静まり返った。もう一度、周囲を見回すと、老師は鞄を手にして「帰るぞ」と言ってスタスタと歩き出した。


 「どいてくれ」


 村人はサッと道を開けた。その目には恐怖と憎しみの色が宿っている。突き刺さってくるようだ。老師の背中だけを見て、急いでその場を離れた。


 「やれやれ。えらい目にあった。あの村には当分、行けないな」


 村を出たところで、老師はそう言った。俺は何も言えなかった。


 寺院に帰って、土間で背負い袋を下ろした時に、ようやく震えが来た。男が斧を持っているのを見た時から、来たるべきときが来たと思った。怖くてたまらなかった。自分がしてきたことは悪いことだった。ならば、恨みに思っている人がたくさんいるだろう。そういう人に会ったら、その人は俺を殺すかもしれない。殺されはしなかった。だけど、誰かから殺意を向けられることが、こんなに恐ろしいことだとは思いもしなかった。膝が震えて、動けなかった。


 「どうした。今頃、怖がっているのか」


 老師がやってきて、俺の腰のあたりをポンと叩いた。


 「死ななくてよかった。こうやって生きて戻ってきた。神様に感謝しなければ」


 そう言って、手を合わせてムニャムニャと念仏を唱え始めた。両手で顔を覆う。斧の男の顔が消えない。今でも声が頭の中で響いている。


 突然、寺院に来る前の情景が蘇った。逃げ惑う男を後ろから捕まえて、首をへし折る。女に馬乗りになって、顔面に拳を叩き込む。大体、2、3発で静かになった。小さな子供は片手で頭をつかんで持ち上げて、地面に叩きつけた。みんな簡単に死んだ。いや、あまりにも簡単に殺した。


 自分がやってきた行いがどれだけ恐ろしいことだったのか、急に理解した。なぜあの時、なんのためらいもなく、命を奪ったのだろう。なぜだ?震えは膝から背中まで広がった。立っていられずに膝をつく。やめてくれ。思い出したくない。だけど、記憶は容赦なく押し寄せてきた。殺した相手の顔なんて覚えていないと思っていたけど、恐怖に引きつる顔、顔、顔が次々に浮かんでは消える。


 やめてくれ。必死にまぶたに力を込めると、たくさんの顔が消えて真っ暗になった。同時に体がスッと落ちる感覚がした。



 「オーキッド!」


 耳元で声がして、我に返る。顔を上げると、老師の顔があった。


 「それ以上、行ってはいかん。闇に落ちてしまうぞ」


 そして、老師は闇について語ってくれた。人を殺めた者が落ちるところ。それが闇だ。あまりに深いと何も感じられなくなって人格が崩壊し、戻ってこられなくなると言われた。気がつけば、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。


 「しかし、老師。俺は耐えきれません」


 「何に耐えられないのだ」


 「自分がやってきた行いにです」


 老師はため息をつくと「ついて来なさい」と言って、外に出ていった。


 寺院の裏は墓地になっている。掃除で何度も足を運んだ。村人の墓が多く、その一角に他よりも少し立派な墓石が並んでいる。歴代の僧侶のものだ。その前で足を止めた。時刻は夕方遅くで、宵闇が押し寄せてきていた。老師は墓石のロウソクに一つずつ、火を灯し始めた。


 「なあ、オーキッドよ。お前は何のために生きている?」


 突飛な質問だったので、即答できなかった。


 「さあ…なぜでしょう」


 「多くの人の命を奪い、その家族から恨みと憎しみを受けているのに、なぜまだ生きていると思う?」


 そうだ。命を奪えば、その代償に自分が殺されてもおかしくない。実際に今日、俺はそうなるところだった。だけど、ああ、そうだ。


 「老師が守ってくださったからです」


 老師はニッと笑って、満足げにうなずいた。


 「そうだ。ではなぜ、ワシはお前を守ったのだろう?」


 なぜ。なぜだろう。老師は俺を村人に差し出せば、自らの命を危険にさらす必要はなかった。なのに、自分の首を代わりに差し出そうとした。なぜ? なぜ俺の命を助ける? あっ。


 「俺が哀れだったからでしょうか」


 答えてみたものの、あまり自信はなかった。


 「当たらずとも遠からずだ」


 そう言って、かがみ込んで、隣の墓石のロウソクを灯した。


 「ここに並んでいるのは、ワシの先代や、その先代の墓だ。みな僧侶で、医者だった」


 全てロウソクをつけ終わると、手を合わせてまた念仏を唱え始めた。


 「医者は目の前にいる患者を絶対に見捨てない。それが善人でも悪人でもだ。なぜだかわかるか」


 何だろう。その話、聞いた記憶がある。


 「命に軽重はないからでしょうか」


 「よく覚えていたな。それもある。だが、他にも理由があっていいと思っている」


 立ち上がって、こちらを向いた。夜の闇の中で金色に見える瞳は、まさしく猫のようだ。心の底まで見透かされているような気がした。


 「助けた命が、また命を繋ぐかもしれないからだ」


 わからない。こういう時は、はっきりわからないと言わないと、教えてくれなかった。


 「わかりません」


 老師はまた墓石の方に視線を移した。


 「先代が多くの人を助け、感謝されるのを見て、ワシも医者になった。誰かの役に立ちたかったからだ。先代も、そうだった。その先代も、そうだと聞いている。ずっとここで医者を続けてきた者がいたおかげで、ワシの居場所がここにある」


 一つ一つの墓石に、改めて手を合わせる。俺も合掌した。


 「例えば、誰かの命を助けたとしよう。助かった人は、また誰かの命を助けるかもしれない。そしてまたその人が、誰かを助けるかもしれない。なかには昔のお前のように殺したり奪ったりする者もいるだろう。だが、そんなことを考えていては、医者はできない」


 少し寒くなってきた。もう秋の気配だ。


 「ワシは時々、夢想する。ワシが助けた者が、大陸に平和をもたらしてくれるかもしれない。この荒地を、緑豊かな土地に変えてくれるかもしれない。命を救うことは、可能性を広げるということだ。ワシが助けたお前も、その可能性の一つだ」


 また、俺の方に向き直った。


 「オーキッド。闇落ちしている場合ではないぞ。ワシが死んだら、ワシの志を継ぐんだ。命を救うんだ。お前が誰かの命を奪ったことを少しでも申し訳ないと思っているのであれば、奪った命を同じ数の命を助けなさい。いや、二倍、三倍の命を助けるのだ。それが、お前が今も生きている理由だ」


 近づいてきて、両手で俺の左手を取った。筋張ってシワシワの手だった。いつもその手が、薬を作っているところを見ていた。俺のために料理をしてくれるところを、水を飲ませてくれるところを見ていた。


 「医術を教えてください」


 老師の両手に右手も添えて、膝をついて頭を下げた。


 「もちろんだ。ワシにはもうそれほど時間は残されていない。明日から忙しくなるぞ」


 老師はそう言って、胸を張った。

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