前にも話したと思うけど、アレックスはアルの母ちゃんだ。パインはアルのそばで働くまで、アレックスの家で、宮廷で生きていくためのいろいろなことを教えてもらった。
知識だけじゃない。アレックスは2人目の母ちゃんになってくれたし、パインが帰る場所も作ってくれた。パインがアルを支えて頑張っていられるのは、アレックスのおかげだ。アルの母ちゃんだから、そうするのは当たり前だと思うかもしれない。だけど、仮にパインが近習にならなくても、自分の子供と同じように愛情をいっぱい注いで育ててくれたと思う。アレックスという人は、そういう女性なんだ。
今でもよく覚えている。キサナドゥーに行くことになって馬車に乗せられて、大泣きした日のことを。
ピレオラを出てから3日後、王都に着いた。3日の間、馬車の中や宿で爺さんはパインがどれくらい知識があるのか、テストした。当時は正直、文字の読み書きが苦手だった。学校に行ってなかったからな。もちろん礼儀作法なんて全然知らない。爺さんは「王子のそばにお仕えするには、それなりの教養が必要だ」と言って「そういうことを教えてくれるところにお前を連れて行く」とも言った。
アルは当時、キサナドゥーに住んでいたけど、まだ大学の学長ではなく、宮廷の近くのお屋敷に住んでいた。前夜に宿で風呂に入って、爺さんが用意してくれた緑色のワンピースに着替えた。「髪も切っておけばよかったな」と言っていたけど、ふわふわの髪はパインの自慢なので、簡単に切らせるつもりはなかった。
お屋敷はすごかった。何しろ絨毯が敷いてあったからな。絨毯が敷いてある建物なんて、村では集会所しかなかった。お屋敷のは真紅でふかふかで、靴を履かなくてもいいんじゃないかと思った。廊下の窓はすごく高くて、差し込んでくる夕日でキラキラ光って、とてもきれいだった。
爺さんと歩いていると、右側の部屋から子供が飛び出してきた。見たことがないくらい肌が白い。サラサラの金髪が夕日に輝いて、母ちゃんが話してくれた昔話に出てくる妖精を思い出した。瞳はブラウンだ。ベージュのシャツに濃い水色のジャケットを着ていて、正装して客を待っていたのだろう。そのお客って、もしかしてパインかな?それにしても、なんて美しい少年なんだ。それが第一印象だった。
「おや、王子。待ちきれなかったのですか?」
爺さん、気軽にこの美しい生き物としゃべるなあと思っていたら「この方がアルアラム王子だ。ごあいさつしなさい」と言われた。えっ、この子がパインのご主人様?こんな美しい人と毎日、顔を合わせないといけないの?恥ずかしくて死ぬかも…と思った。爺さんに背中を押されて、我に帰った。そうだ。あいさつをしないと。移動中に宿で教わった通り、スカートをつまんで右足を引いて一礼した。
「パインです」と言ったつもりだったが、噛んでしまって「パインでしゅ」になった。ああ、恥ずかしい。さっきからこの子の前にいるだけでめちゃくちゃ恥ずかしいのに、さらに墓穴を掘ってしまった。
アルが近づいてくる。パインの前に膝をつくと、そっと右手を取り「よく来てくれた。僕がアルアラムだ。君の一番の友達になりたい。これからよろしく頼む」と言って、手の甲にキスをした。「ひゃあ」と悲鳴を上げた。ダメだ。もう死んだ。今、思い出しても、顔が真っ赤になるよ。
その後、部屋でお茶を出された。アルがどれだけ同年代の友達をほしがっていたか、パインのことを待っていたかしゃべりまくっていた。黙って聞いているうちに、次第に落ち着いてきた。
そんなにパインのことを待っていてくれたのかと思うと、うれしかった。母ちゃんには捨てられたけど、少なくともアルはパインのことを必要としてくれている。また捨てられないように頑張らないと。爺さんは「お前は今は子供で小さいが、そのうち大きくて強い兵士になる。王子の盾になりなさい。どんな時もおそばにいて、王子をお守りする盾となるのだ」と言った。そんなふうに期待されていることも、うれしかった。
その時、アルと一緒に過ごしたのは、わずか一日だけだった。夜は爺さんや近習たちと夕食のテーブルを囲んだ。近習は10数人いたが、みんな10代後半から20代の男子ばかりで、パインから見ても兄ちゃんと言った年齢の人ばかりだった。なるほど、アルが同年代の近習をほしがるわけだ。
みんなパインのことを「かわいい」と言って頭をなでたり、抱っこしたりしてくれた。翌日は朝から服の採寸をして、昼過ぎにはキサナドゥーを出た。アルは「もう行っちゃうの?」ととても悲しそうだった。別れ際、あまりにも寂しそうな顔をするので、母ちゃんがいつもそうしてくれたように、ハグした。
「すぐに帰ってくるから、待っていてほしいのじゃ」
恥ずかしさを隠すために、村で老人たちが使っていた口調を真似してみた。
宮廷で必要なことを教えてくれるところは、キサナドゥーから馬車で半日くらい北東に行ったトリスタンというところだった。ムスラファンは砂漠の国だけど、キサナドゥーの周辺は比較的、緑がある。特に街道を川沿いに北東に進むとすぐに丘陵地帯になり、緑が増えていく。
「ほれ、あれがトリスタンだ」
爺さんが指差す先を見ると、川の向こうの森の中に、石造りの小さなお城があった。一応、城壁に囲まれていて、尖塔もある。当時はお城を見たのが初めてだったので、ただ感心するだけだったけど、今にして思えば、城というよりも大きめのお屋敷だった。見た目がお城風なだけで、部隊が駐留できるような大きさではない。馬車を降りると川岸に船が待っていた。流れは緩やかで、それほど深くない。川底の石が見えるくらいの清流だった。
対岸に着くと、桟橋の目の前が城門だった。小さいながらも木製の門があって、革の鎧を着て腰に剣を差した衛兵が立っている。
「ご苦労さまです」
衛兵は敬礼をして爺さんにあいさつした。
「例の子供を連れてきた。姫のご機嫌はいかがかな?」
「はい。われわれが思っている以上に、楽しみにしておられるようです」
後から知ることになるが、この衛兵はラシッドと言う。気のいい兄ちゃんで、警戒心があまりないので門番に向いてない。城壁は大人が肩車をすれば、すぐにてっぺんに手が届きそうで、本格的に戦争に備えて作ったわけではなさそうだった。城内に入る。壁の外からは想像できないほど広い庭があって、たくさん花が植えられていた。いい香りがする。夕方で、どこかで水を撒いているのか、湿った土の匂いもした。お城自体は2階建てで、見張り用の尖塔が1つ付いている。
玄関に入ると、初めて来たのになぜか見覚えのある光景が広がっていた。赤い絨毯。縦長の窓。差し込む夕日。ああ、そうだ。昨日、アルと初めて会ったお屋敷と似ているんだ。
「姫はどこだろうな。迎えに出てくるかと思ったのだが。探してくるから、ここで待っていなさい」
爺さんはパインを置いて、廊下の奥の方へ姿を消した。窓から庭が見える。バラの花が咲いていた。もう咲き終わりなのか、花びらの縁が茶色くなっていて元気がない。昨日、アルのお屋敷はたくさんの人が出入りしていてにぎやかだったし、いろいろな匂いがしたけど、ここは静かだ。あまり人の気配もしない。匂いも今は草と花の香りしかしない。匂いに集中していると、人の香りが近づいてくることに気がついた。いい匂いだ。2人だな。一人からは化粧の匂いがする。だが、嫌な感じではない。もう一人からは鉄の匂いがする。武器の匂いだ。帯刀しているのだろうか?
「あらまあ」
その声で、意外に近くまで来ていることに気づいた。振り向くと廊下の先に2人、女性が立っていた。ひと目でアルの母ちゃんだとわかった。だって、匂いが似ていたから。化粧の匂いと混ざっているけど、アルがまとっていた花のような香りがする。見た目も似ていた。抜けるような白い肌、軽くウェーブがかかった髪。アルはストレートだけど、同じ金髪だ。同じブラウンの瞳。いつも微笑んでいるように見える目元も、よく似ている。鼻筋の通った美女だった。濃い緑色のワンピースを着ている。派手なドレスを着ているわけではないのに、気品があった。思っていた以上に若い。20代半ばくらいだろうか。
もう一人は、鉄の匂いがした女だ。アルの母ちゃんよりもさらに若い。まだ10代か、20代でも前半という感じだ。北国人らしい白い肌だけど、髪はストレートで真っ黒だった。瞳も黒い。目力が強くて怖かった。こちらはネイビーのワンピース姿だ。
「シャルロット、あの子が例の子ね」
アルの母ちゃんは言った。
「どうでしょう。見たことがないので、私にはわかりません」
シャルロットと呼ばれた女性は警戒心を隠さずに言った。だけど、アルの母ちゃんはどんどん近づいてくる。
「あなたがパインね?」
すぐそばまで来ると膝を付いて、目線の高さを同じにして優しく聞いた。スカートをつまんでお辞儀するかどうか迷っていると「私の名前はアレックスよ。アルアラムのお母さんなの。よろしくね」と言って、手をとられた。目がキラキラしていて、ほおが上気して赤くなっていた。
「とっても、かわいいわ!想像していた以上!」
興奮気味に言うと「ハグしてもいいかしら?」と言うなり、返事も待たずにギュッと抱きしめられた。背中越しにシャルロットが呆れたような顔をしているのが見える。その後方から、やっと爺さんが戻ってきた。
思い出した。つみれは、初めて会った時のアレックスと似ているのだ。パインはそんなにかわいいかな?かわいくないとは思わないけど、特別かわいいと思ったこともない。確かにふわふわの髪は素敵だし、キラキラした瞳も我ながらきれいだと思う。スタイルも悪くないしな。でも、そこまでメロメロになるかなあ?悪い気はしないけど。
それはともかく、アレックスと一緒に暮らした1年間は本当に楽しかったし、幸せだった。いや、母ちゃんといた時も幸せだったよ。でも、大好きな人のそばにずっといたという意味では、トリスタンでの1年間は、本当に幸せだった。
朝はキャロルと一緒に朝ごはんの支度をする。水を汲み、庭の畑から野菜をもいできて、パンを焼く。鶏小屋から卵をもらってきて目玉焼きを作ることもあった。最初はやり方がわからなかったけど、キャロルが教えてくれた。
ああ、そうそう。シャルロットのことはキャロルと呼んでいる。というのも、シャルロットと呼ぶと大体、噛んでしまうからだ。
「シ・ャ・ル・ロ・ッ・ト!」
何度も本人から教えてもらったけど、ダメだ。縮めてキャロルと呼んでいたら最初は「キャロルじゃなくて、シャルロット!」と訂正されていたのに、いつの間にか直されなくなった。
キャロルは17歳で、パインがいる間に18歳になった。それはそれは厳しい先生だったよ。何度も同じ失敗をすると、お尻を叩くんだ。口調もキツかった。「ちゃんとやって!」「何度教えたらわかるの!」とよく言われた。アレックスは「叩くのはやめなさい。『ちゃんと』ではなく、きちんと言葉で伝えられるようにならなきゃダメよ」と言っていたけど、言われてもキャロルはパインに手を上げた。
実際、パインは覚えが悪かったし、不器用でいろいろなことがうまくできなかったから、仕方ない。卵もグチャグチャにしてしまったし、パンも焦がしてしまったし、水を運んでいて台所にぶちまけたこともあった。その度にキャロルはブチギレながらも一緒に掃除したり、作り直したりしてくれた。そりゃあ、腹も立ったと思うよ。
朝ごはんを作っていると、アレックスが2階から降りてくる。
「おはよう…」
アレックスはいつもお寝坊さんだ。体があまり強くなくて、病気がちなせいかもしれない。早起きしているのは見たことがなかった。自分で起きてくるのだけが救いで、パジャマのままだし、髪はいつもグシャグシャだ。座らせて身だしなみを整えるのはキャロルの役目で、その間にパインが配膳をする。食事中も気が抜けない。最初はわからなくて手づかみで卵料理を食べようとして、キャロルに引っぱたかれた。
「これを使って食べるの!」
テーブルの上に並んでいるフォークやナイフの使い方を教えてくれたのはキャロルだった。食事が終わると掃除だ。キャロル以外にも数人の侍女が通ってきていて、ベッドメイクをしたり、廊下や庭を掃除する。パインは最初、庭掃除の当番になったけど、虫を探したり穴を掘ったりして遊ぶものだから、途中から室内の掃除係に変えられた。なぜなら、キャロルと一緒だからだ。ここでもキャロルは厳しかった。
「ここ! ほら見て! ほこりが残ってるでしょ!」
「ここ! ちゃんと拭けてない!」
きちんと掃除しているつもりだったから、泣きたい気分だった。叱られたくない一心で一生懸命やった。すると、ガミガミ言われなくなった。キャロルは厳しかったけど、何をやらなきゃいけないのか、何度も根気強く繰り返し教えてくれた。おかげでパインは立派な近習になれたと思っている。
掃除が終わると、アレックスに読み書きを習った。だけど、もうこの時間になると眠いんだ。大体、絵本を読んでくれている間に寝てしまう。そして、アレックスも添い寝してしまう。昼ごはんの準備をするために呼びにきたキャロルに叩き起こされるというのが、最初の1カ月くらいのパターンだった。
2カ月目からはどうなったのかって? ちょっと慣れて、ちゃんと起きて勉強するようになった。何しろアレックスはパインが新しい言葉を覚えると、とてもほめてくれる。それがうれしくて、どんどん新しい本を読んで、毎日会っているのにたくさんアレックスに手紙を書いた。絵本も読んであげたな。長い話の時には途中で寝ちゃうんだ。アレックスは体が弱くて、しょっちゅう寝ていた。だから、絵本を読んでいる時にうつらうつらし始めても、そのままにしておいた。