朝飯は砂漠では珍しい、柔らかいパンだった。焼きたてでチーズが添えられていた。それから温かなミルクのスープ。なんと、コーヒーが出た。それも砂糖とミルク入りだ。こんな状況でなければ久々に食べたまともな朝食に涙を流して喜んでいただろうけど、そんな気分になれなかった。緊張と恐怖で味がわからず、アルバースを怒らせないように、何とか飲み込むのが精一杯だった。
「それで、何の用があってこんなところまで来たんだ?」
アルがこれまでの経緯を説明した。サラマンドルを拠点にアフリートを探したいこと。規定の料金を支払うから水を使わせてほしいと低姿勢でお願いした。自分が連れてきた仲間が気に障ることをした後だから、そうなるのも無理はなかった。アルバースは黙って聞いていたが、コーヒーを飲み干すと「そこのデカい女をくれたら、水はただで使ってもいいぞ」と、また本気とも冗談ともつかないニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
「兄さん、パインは僕の近習だ」
渡すわけにはいかないよとはっきり言ってほしかったけど、そこまで言い切れないあたりがアルらしい。トウマは食事が始まる前に兵士たちに引きずられて、外に運び出されてしまった。「放り出しておけ」とアルバースは言ったけど、どうしているだろう。ひどいけがでなければいいけど。アルバースはしばらくこっちを見ていた。視線が合わないように下を向いていた。ずっと見られているのを感じる。しばらくすると「そっちのデカい男はどうだ。そっちをくれたら水をただにしてやろう」と言った。
「兄さん」
本当ならため息でもつきたい気分なのだろうが、アルは努めて冷静に言った。
「あげるとかあげないとか、僕の仲間はモノじゃない」
声が震えていた。ここはアルバースの手のひらの上だ。怒らせたらどうなるか、わかったものではない。アルは十分、勇気を振り絞ったと思う。
「お金ならちゃんと払うから、そういうのはやめて」
アルバースはチッを舌打ちをしてあごをさすっていたが、音を立てて乱暴に立ち上がると「ああ、つまらん!」と吐き捨てた。
「都で生ぬるい生活をしているヤツは、つまらんな」
着替えに行くのか、カーテンの向こうに消えようとして、こちらを振り向いた。何かいいことでも思いついたように、ニヤリとする。先ほどから、この笑みからずっと悪い方に話が転がっている。
「そうだ、お前ら、今夜の戦(いくさ)に参加しろよ。谷底に集結している魔族どもに、一発かましてやろうと思っているんだ。そこで活躍すれば、サラマンドルで好きなように振る舞っていいぞ。水どころか食い物も宿も、ただで使い放題にしてやろう」
えっ、とアルが何か言いかけたが、アルバースは聞かずにカーテンの向こうに消えた。食事を準備してくれた兵士が来て、お着替えのあとは会議がございますので、お呼びにあがるまでご案内いたしますテントでお待ちくださいと言った。アルの肘に手を添えて、さあどうぞと有無をいわせずに連れ出されてしまった。
テントの入り口の脇にトウマが座っていた。顔がひどく腫れている。まぶたが腫れ上がっているので見えているのかどうかわからないけど、こちらを向いて「治療してくれ」と言った。無事じゃなさそうだけど、とりあえず話ができる状態でよかった。シャウナは膝をついて、トウマを抱きしめた。怖かったのだろう。その気持ちはよくわかる。
案内されたテントは、想像していたよりは広かった。もっと狭いところに押し込められるのではないかと心配していたが、5人が荷物を置き、体を伸ばして寝転がっても、まだ余裕があるくらいだった。オーキッドが魔法でトウマの手当てをした。見る見るうちに腫れが引いていくのが面白い。治療をしながら、オーキッドが今夜の戦闘に参加することになったことを説明した。
「なぜ避けなかった」
そうだ。トウマならば、そもそも一発目から避けることができたはずだ。
「避けたらもっと面倒なことになっていただろう」
何もなかったように、顔をさすっている。申し訳ない。パインが我慢して触られていたら、トウマがこんな痛い思いをすることもなかった。
「気にするな。こんなの、魔族と戦った時に比べれば屁みたいなものだ」
無愛想でデリカシーがないと思っていたけど、この時、初めて優しい人なんだということを知った。ただ、気にするなといわれてもそれは難しい。黙ってうなずいて、下を向いていることしかできなかった。
戦うとなれば敵情視察が必要だろうということで、トウマとオーキッドがテントを出ようとしたが、入り口にいた兵士に止められてしまった。勝手に歩き回らないでくれということだった。まるで監禁だ。テントの中には簡素な敷物があって、片隅に水の入った大きな壺があるだけだった。車座になると、オーキッドが口を開いた。
「困ったな。俺たちをどうするつもりか知らないが、敵の数やどんな魔族がいるのかわからないと、戦いようもないぞ」
ここに来た時に、ざっと見た限りでは魔族っぽいヤツらは40〜50人(匹?)くらいだった。シャウナも数えていたようで「数十匹はいたよね」と言った。
「いや、たぶんもっといる。目で見て確認できないから何とも言えないが、百近くいるんじゃないか」
トウマの予想はもっと多かった。残念ながら匂いで3、4匹程度なら嗅ぎ分けられても、それだけ多くては濃厚な匂いがするだけで、どれくらいの数がいるのかはわからない。ここでは、パインの能力はあまり役に立たない。
戦闘に加えられるなら、せめて武装させてほしいとトウマが入り口の兵士に掛け合って、いろいろと装備を借りた。布がいっぱい運ばれてきた。包帯くらいのもの、もっと幅の広いもの。トウマは下着を脱ぐと、お腹にぐるぐると幅の広い布を巻き始めた。ここを持っておいてくれとシャウナに頼む。
「何しているの?」
「切られた時のダメージを軽減するんだ」
オーキッドも腹や二の腕に布をぐるぐる巻いている。アルと顔を見合わせて、パインたちもやっておいた方がいいかもと布に手を伸ばしかけたところで、トウマに静止された。
「お前たちはやらなくていい。夜も戦わなくていい」
そういうわけにもいかない。朝の一件で弱気になっていたけど、パインがここに来た理由は、自分の腕前を証明するためでもあるんだ。隠れて待っているわけにはいかない。
「いいか。どこに配置されるかわからないが、戦闘が始まったら谷の斜面沿いに北に向かって、戦場を離脱しろ。俺とオーキッドで敵の追撃を食い止める。夜明けに陣地の裏側で集合だ。もしはぐれてしまったら、何とかしてサラマンドルまで帰れ。サラマンドルのキャンプ地で集合だ」
戦闘中でもないのに、トウマがたくさんしゃべっている。戦う前から逃げる作戦を立てているのは、理解に苦しむ。戦うのが大好きな人間のはずなのに、どういうつもりなんだろう。
「そうだな。俺たちの目的はマリシャの奪還なので、こんなところで時間を食っている暇はない。とっととずらかって、マリシャ探しに戻った方がいい」
オーキッドも同調した。混乱して当初の目的を忘れていた。確かにその通りだ。アルバースの気まぐれに付き合っている暇はない。あいさつをするという義理は果たしたわけだし、戦闘の混乱に乗じておさらばしよう。
ようやく呼ばれたのは夕方だった。トウマはテントの片隅で眠っていた。よくこんな状況で眠れるもんだ。オーキッドも目を閉じて腕組みをして座っていた。入り口にいた兵士が昼頃にパンとチーズとハムを持ってきた。朝よりは食べられたけど、これから本物の実戦だと思うと、緊張してお腹に収まった感じがしなかった。ずっとアルと肩を寄せ合って座っていた。何か話さないとと思って、空元気を出した。
「大丈夫じゃ。アルはパインが守るから」
アルは微笑むと「ありがとう」と言った。膝立ちになってパインの頭を抱き締めて「でも、絶対に無理はしないでくれ。約束だ」と言ってくれた。
「北に離脱したとして、もしはぐれたら、どうやってサラマンドルまで行けばいいのかな。どこから馬なりらくだなり、移動手段を手に入れないと、歩いて行くのは無理だよ」
シャウナが誰とはなしに言っている。ここには馬車で約2日かけて来たわけで、歩いて行けばもっとかかるだろう。早足で行って3日か、4日か。それだけ歩ける体力が残っているのか。水はあるのか。どさくさに紛れて、馬からくだを拝借するのがいい。というか、そうしなければサラマンドルまで帰れずに、砂漠で死ぬかもしれない。
呼ばれた場所は朝、トウマが暴行を受けたテントだった。行ってみると天幕が開いて、兵士が集まっていた。アルバースが出てきて「日没とともに、われわれは谷底の魔族と一戦交える!」とよく通る声で言った。朝のラフな格好から一転、肩当てのついた革製っぽい鎧を着て、頭にはターバンを巻いている。
「敵の数は約50匹。オークが中心だが、ドラゴンがいる。炎に気をつけろ。とはいえ、数的にわれわれの敵ではない。叩き潰せ!アルバース隊の恐ろしさを見せてやれ!」
おおーっと鬨の声が上がる。アルバースも槍を手に「おおーっ!」と雄叫びを上げた。
「では、これから配置を発表する!」
ここにいるのはパインたちを除けば全部、アルバースの兵士だ。とはいえ、200数十人で一つの部隊というわけではない。10人ずつくらいの小隊に分かれていて、それぞれに役目が与えられている。弓矢隊、騎馬隊、白兵戦部隊という感じだ。次々に配置が発表される。全然呼ばれない。補給隊かなんか後方支援を割り振られるのかなと思っていたら、そこでも呼ばれなかった。
「最後にたいまつ担当!」
たいまつ担当って何だろう?と思っているうちに「アルアラム隊!」と呼ばれた。アルバースと目が合う。ニヤリとまたあの不吉な笑みを浮かべた。
「たいまつ担当って何じゃ?」
アルに聞くと、代わりにトウマが「敵の目標になる役目だ」と答えた。配置の発表が終わり、各部隊が思い思いに散っていく。アルバースがこちらに近づいてきた。
「いつでも逃げ出していい役割だ。早々にたいまつを投げ出してもいいぞ」
馬鹿にしたようにアルに向かって言った。そしてトウマの方をチラリとみて「驚きの回復力だな。俺の部下にならないか?」と言って鼻で笑った。