一応、気を遣って夜中に裏門から抜け出すことにした。馬には夕方のうちに餌と水をやっておいた。装備を背負い、夜の寒さ対策でマントを羽織る。エンブレムが入ったカーキ色のマントは、宮廷直属の兵士に支給されるものだ。シャウナたちから半日遅れた。どこまで行っただろう。一晩、寝ずに馬を走らせれば、明日中には追いつけるかもしれない。
背負いきれなかった装備を馬に積むと、手綱を引いて厩舎を出た。カッポカッポという足音がやけに響く。誰かに見られたところで行くのをやめることはないけど、できれば誰にも見られずに出発したかった。と思っていたら、裏門を出たところでアルとばったり会った。宮廷の兵士のマントを羽織っている。背中の膨らみ具合からいくと、装備を背負っているようだ。
「まさかと思って待っていたけど、本当にこんな夜中に抜け出すなんて」
少し呆れたように言われた。
「アルの代わりに行ってくるのじゃ。アルは安心して残ってくれればええ」
「そういうわけには行かないよ。ここで座って待っていて、パインの身に万が一のことがあれば、後悔するどころでは済まない」
なんてうれしいことを言ってくれるのだろう。アルが一緒に行ってくれるなら、パインは百人力だ。アルがそばにいてくれるだけで、なんだってできる。
「馬は用意してあるのか?」
申し訳なさそうに首を横に振った。世話の焼ける王子様だけど、仕方ない。用意した馬にアルを乗せて、パインは厩舎からもう一頭、連れてきた。体力の限界まで行こうということになり、街道を走った。幸いなことに満月で、明かりがなくても道がよく見えた。この辺りは王都が近いから、盗賊が出ることも少ない。パインたちが抜け出したことを、爺さんはもう勘付いているだろう。何しろ千里眼だからな。何だってお見通しだ。パインをあんな辺境の村から見つけ出したくらいなんだから。
生まれたのは西域の東の端、カンタロスという川のそばにあるピレオラという村だ。普通は川沿いの村というと緑が豊かで、農耕ができたりするもんなんだけど、ピレオラは違う。いや、砂漠じゃない。ずっと岩だらけの荒野なんだ。他には何もない。岩だらけの荒野の間に川が流れていて、ちょっと見応えのある奇岩があちこちにある。村の人はそんな石を切り出すことを生業にしていて、ここの石は、キサナドゥーや大きな街に運ばれて建築資材として使われている。
想像してもらったらわかるだろうけど、石切りの仕事はきつくて危険なんだ。若い連中はもっと楽な仕事を求めてどんどん他の街に出て行ってしまう。もしくは兵士になる。兵士の方が楽だよ。大きな岩を持ち上げたり引っ張ったりしなくていいし、崩れてきた岩の下敷きになって死ぬこともないから。だから、村にはばあちゃんとじいちゃんばかりだ。若いのは少しだけ。子供も少しだけだった。
母ちゃんは、そんな村では少ない若者の一人だったけど、例に漏れず兵士だった。パインが生まれる前から西部の戦場に行っていて、家がピレオラにあるので、たまに帰ってくるという生活をしていた。父ちゃんが誰だかは知らない。母ちゃんは「戦場で出会った誰かだよ」と言って笑っていた。
母ちゃんの名前はモモっていうんだ。母ちゃんのいる部隊はどんな激戦に巻き込まれても人が死ななくて、それゆえに戦場では幸運の女神と呼ばれていた。母ちゃんは人気者だった。よく引退した兵士が家に遊びにきて、食べ切れないくらいの食糧を置いていってくれた。母ちゃんはそれを近所の人たちに分けてあげていたので、いつもすごく感謝されていた。
だから、母ちゃんが戦場に行ってしまうと、近くの家のばあちゃんやじいちゃんが、パインの面倒を見てくれた。母ちゃんに「ちゃんとお手伝いするんだぞ」と言われていたので、小さい時から薪を拾ったり、水を汲んだり、庭の掃除をしたり、たくさんお手伝いをした。お手伝いをすると肉とか魚とか美味しいものを食わせてくれた。
前に話したことがあると思うんだけど、意地悪をする男子を投げ飛ばしてけがをさせてしまったことがあって、それ以来、同年代の子供の間には入っていけなくなった(その子の親に拒否されたという方が正しい)ので、なおさらばあちゃんたちの手伝いをする時間は多くなった。
何だか母ちゃんに放っておかれたみたいな話になっているけど、そうじゃない。母ちゃんは村に戻ってきた時には、めちゃくちゃかわいがってくれた。「お前はふわふわだ」と言って、朝から晩まで何度も抱き締めてくれた。
戦場で起きたことを面白おかしく話してくれるんだ。それを聞くのが大好きだった。西の果ての前線には末裔どころではない、ドラゴンやオークといった昔ながらの魔族がいて、母ちゃんたちはそういうヤツらと戦っていた。日中に砂漠で見るドラゴンは鱗に日光が反射して、ギラギラ光ってでっかい宝石みたいだと言っていた。
「暴れ出したら手がつけられないけど、遠くから見ている分には、ほれぼれするくらい美しいんだ。パインも大きくなったら一緒に行こう」
西の果てにはすごい世界がある。パインは生まれた時から体が大きくてツノがあって、どこからどう見ても末裔だった。村にこんなふうに外見からして明らかに末裔という人間はパインしかいかなかったので、石を投げるヤツもいた(それがさっき言った意地悪した男子だ)。だけど、西の果てに行けば、パインと同じようなのがいっぱいいる。行きたい。行ってみたい!最前線に行きたい理由は、自分の力を見せつけてやりたいからだけじゃない。そこが、パインの本当の故郷のような気がするからだ。
爺さんが村にやってきたのは、パインが5つか6つの時だった。
その日は暑くて、朝から川の仕事の手伝いに行っていた。川では結構、大きな魚が獲れる。じいちゃんたちが網を打って捕まえるので、それを締めて家まで持っていくのだ。何度も川からあちこちの家を往復して魚臭くなったので、早く帰って水浴びをしようと思っていたところだった。家の近くまできて、道端に見たことがない人がいるのに気づいた。
すごく背が高い。すごくどころじゃない。魔族が出た!と思った。肌の色も異様だった。こんなの人間じゃない。逃げ出すべきか、それともこのまま通り過ぎて家まで駆けていくか迷っていると、あちらの方から近づいてきた。
「お前さんがパインかな?」
近くでよく見ると、しわくちゃの老人だった。うなずくべきか、無視するべきか。また迷っていると「私はゴライアスだ」とよく通る声で言った。爺さん…その時は爺さんなんて呼んでいなかったけど…は、パインの前に膝をついた。それでも見上げないと視線は合わない。
「私はね、宮廷で王子にお仕えする子供を探しているんだ。お前さんみたいな、素晴らしい子供をね。ぜひとも宮廷にお前さんを連れて行きたいと思っている。さっき、お母さんとも話をさせてもらったよ」
急な話で、何が何だかわからなかった。宮廷?王様がいるところか?じいちゃんやばあちゃんが「宮廷にもこんな立派な石はないぞ」とよく言っているけど、その宮廷?自分とは全く縁のない世界だと思っていたので、どんなところなのか想像できなかった。
「急な話で驚いているだろう。帰って、お母さんとよく話すといい。また来るよ」
爺さんはそう言うと、去っていった。丘の向こうに姿が見えなくなるまで見送ったが、時々振り返って手を振ってくれた。見た目は怖いけど、悪い人ではなさそうだと思った。
家に帰ると、母ちゃんが酒を飲んでいた。母ちゃんは酒が大好きだ。自分でも戦場からの帰りに樽で買ってくるし、もらい物の中にも酒はよく入っていた。
「おかえり」
早くも少しとろんとした目をしていた。
「どこ行ってたんだ。うん…うわっ、すごく魚臭いな!こりゃあ先に風呂だな」
パインをハグしようとして驚いて、水浴びの準備をしに外に出ていった。扉の向こうでたらいに水を張っている背中を見ながら、おずおずと「背の高いおじいさんに会ったよ」と言った。
この話は、してはいけないような気がした。だって、母ちゃんがいいよと言えば、宮廷に連れて行かれるのだ。母ちゃんと離れ離れになってしまう。しょっちゅう家を空けているけど、他の家庭を知らないから、それが普通のことだと思っていた。母ちゃんのことは大好きだったし、離れて暮らすのも嫌だった。
「ああ…宮廷から来た人のことかい」
母ちゃんは振り返らずに言った。ざばぁ〜ざばぁ〜と水を張る音が頭の中にうわんうわんと響く。この話は、もう終わりにしよう。そうしなければ、幸せな生活を自分の手で壊してしまうことになる。どうしてそう思ったのかはわからない。子供の勘だった。違う話をしようとしたその時、母ちゃんが言った。
「パイン、宮廷に行きな」
意味がわからなかった。石けんを泡立ててパインの髪を洗いながら、母ちゃんは言った。こんな小さな村にいても先はない。王都に行けば、いろいろなチャンスが転がっている。もしかしたら金持ちに見染められて、幸せな結婚をして、裕福な生活ができるかもしれない。「母ちゃんと離れるのは嫌じゃ」と言ってみた。
今までも離れていた時間はいっぱいあったじゃないか。それに会いたくなれば、戻ってきたらいいんだから。その間、母ちゃんはまた戦場に行って稼いでくるから。パインに腹一杯食わせてやれるように、稼いでくるよ。
「ひもじくてもいい。パインは母ちゃんと離れたくないんじゃ」
そう言って、水をバシャバシャやってみた。もう涙がこぼれていた。悲しくて、どうしてこんなふうに突き放されなければならないのか、理解できなかった。夕日が石けんの泡に反射して、虹色に輝いていた。
「パイン、わがままを言うんじゃない」
母ちゃんは静かに微笑んで言った。
「これまで母ちゃんは、パインを残して戦場に行くことがすごく不安だったんだ。ばあちゃんやじいちゃんや世話をしてくれる人がいるとはいえ、ここは危険な仕事をしている村だ。何があるかわかったもんじゃない」
それは知っている。母ちゃんは帰ってきた時はいつも、すごく安心した匂いがした。ホッとして、パインのことをとても気にしていたことがわかった。
「だけど宮廷に務めるとなると話は別だ。安全なところで、立派な人に囲まれて暮らすんだ。パインが危ない目に遭うわけないじゃないか。なあ、パイン。母ちゃんを安心して戦場に行かせておくれ。これ以上、心配させないでおくれ」
そんなに戦場に行きたいのか。パインよりも戦場が大事なのか。悲しくて悲しくてウォンウォンと声を上げて泣いた。宮廷行きを飲まなければ母ちゃんがずっと不安な思いをするということも辛くて、涙が止まらなかった。
母ちゃんはなぜパインを産んだんだろう?あんなに小さくてかわいかったパインを宮廷にやってしまったということは、パインよりもよほど戦場が好きだったんだろう。それなら子供なんて作らなければよかったのに。村を離れてから、そんなことを考えたこともあった。一度、本人に聞いてみたいと思っていたけど、聞けずじまいだった。
母ちゃんはパインが宮廷に行ってから6年後、戦場で死んだ。知らせを受けた時は、ウソだと思った。だって、母ちゃんは幸運の女神なんだから。母ちゃんが先頭に立てば、相手が放った矢が当たらないと言われていた。なのに、射られて死んだ。あたりどころが悪かったらしい。大急ぎで帰ってみると、家にはあふんばかりの兵士が集まっていた。男も女も、みんな泣いていた。矢は心臓を射抜いて、一撃だった。「こんな死に方をするなんて」とみんな口をそろえた。
死に顔はきれいだった。母ちゃんは東方系だ。つるんと大きな額や、切長の目や少し尖った唇が、とてもきれいだった。悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。どうしてパインを手放したの?その理由を聞きたかった。聞きそびれたことを、すごく後悔した。