キサナドゥーに帰還したのは、神武院を出て5日目の夕方だった。大学の管理棟の前に馬車を停めると衛兵がすっ飛んできて「王子、部屋でゴライアス様がお待ちです」と言う。雷を落とすために待ち構えていたか。
アルがこっそり抜け出した(と本人は思っている)日の夕方、爺さんが早速、大学にやってきた。「うまいこと言い逃れしておいてくれ」と言われていたので、その通りにうまいことやった。どうやったのかって?余裕ぶった顔をして「王子は今、中座しています。明日の朝まで帰らないかもしれません」と言ったんだ。
中座ってカッコいい言葉だと思わない?前から一度、使ってみたかったんだ。爺さんは一瞬、ポカンとしてからゴホンと一つ咳払いして、ああ、わかったみたいなことを言って部屋から出て行った。えへん、どうだ。うまいことやっただろう。
次の日から毎日、爺さんがアルの部屋に来て書類を処理したり、スケジュールを作ったりしていたけど、暇だったのかな?とにかく、コラーッって怒られるかもしれないと思っていたから、この程度で済んだということは、パインがうまくやったということだろう。
アルからの手紙が来た日も、爺さんは落ち着いていた。アルの部屋に呼び出されて「王子を連れ戻してこい。たぶん神武院にいる」と別に怒りもせずに言われた。ただ、パインには怒ってないけど、アルには怒っているんだろうなというのが匂いでわかった。
アルが危ないことをした時は、爺さんは大概、怒っている。昔、アルが馬に乗り始めたばかりの頃、馬に乗るのが楽しすぎて勝手に外駆けに出たことがあった。もちろんパインが付いていったよ。で、帰ってきたら、爺さんがすごい怒ってた。目を吊り上げて「馬から落ちてけがでもしたらどうするつもりだったのですか?王子としての自覚を持ってください」とキツく叱られた。落ちそうになったらパインが抱き止めるから大丈夫だと言ったら「お前は黙っとれ!」って怒られた。その時の爺さんはマジのマジすけで怖かった。
時々、アルは爺さんに黙って危ないことをする。魚を釣りに行ったり、船に乗ったり、洞窟に入ったり。その度に怒られる。パインは外駆けの時にそういうことをしたら叱られることがわかったので、怒られている時は黙っていることにした。アルは一人で何でもやってみたい。爺さんはアルが心配。別にお互いのことが嫌いで、怒ったり怒られたりしているわけじゃないんだ。
部屋に入ると、薄暗くなりかけた室内で爺さんがロウソクに明かりを入れているところだった。会合のために20人くらい入れる学長室が、アルの部屋だ。広いからロウソク立てもたくさんあって、それに一つ一つ火を灯していくのは結構、手間だった。壁際にいろいろな家具があって、邪魔なんだ。本棚、衣装棚、何かの棚。大体、使ってない。必要なものはほとんどアルの机の中に入っている。王族が使っている部屋っぽくするために置いているのだろう。それを避けながらロウソクに火を灯すのは、とても面倒だ。パインもよくやっている仕事なんだけど、終わって室内が明るくなったのを見るとホッとする。
「パイン、火をつけるのを手伝ってくれ」
爺さんはこっちも見ずに言った。2人で火をつけている間、アルは装備を自分の机の横に置いて、手持ち無沙汰に立っていた。小言を言われるのはわかっていたし、座って待つ気にもなれなかったのだろう。火を全部つけ終わると、爺さんは仕事机を挟んでアルと向かい合った。
「さて、王子。とりあえずお帰りなさい。どうぞ、掛けてください」
ヒョロリと背が高い。ただ背が高いだけではなく、痩せていて体型がヒョロリとしているので、実際よりも背が高く見える。天井に頭が届きそうなくらいだ。ロウソクの灯りがこうこうと照らしているとはいえ、薄暗くなり始めた室内では、深緑色の肌がどす黒く見えた。知らない子供が見たら、怖くて泣き出すだろう。かくいうパインも、小さい頃は暗闇で出会う爺さんが怖かった。実際に泣いたこともある。アルは覚悟を決めた表情で椅子を引いて座った。
「王子、言いたいことは2つあります」
爺さんの話はわかりやすい。大事なことを先に言うからだ。
「1つ目はジョシュが亡くなったことを、なぜいち早く知らせてくれなかったのかということです」
ジョシュのことならよく知っている。近習の一人だからだ。明るい盛り上げ役で、アルの身近にいる人の中では古株だった。南方から物言わぬ姿になって帰ってきた。葬儀の前夜、「見ておけ」と爺さんに言われて、死体を見た。どうなったら、こうなるのだろう。握りつぶされたみたいになって、顔がひしゃげていた。皮膚の色がどす黒く変わって、死体特有の匂いがした。
死体を見るのも、匂いをかぐのも初めてじゃない。村にいた頃は老人が多くて、よく死んでいたから。葬儀の手伝いに行くと、嫌でも死体の匂いを覚えてしまう。そもそも母ちゃんのお葬式で経験済みだよ。
ジョシュの死体は湿度の高い南方を数日、通過したこともあって、腐敗が進んでいた。「じゃあな! 留守を頼むぞ」。そう言って元気に出かけていったジョシュの変わり果てた姿は、ショックだった。悲しいはずなのに、なぜか恐怖を感じて声が出なかった。南方で怪物と戦って死んだと聞いた。人間をこんなふうに破壊する生き物がいるということが怖かった。
ジョシュは人気者だったので、翌日の葬儀には参列者がたくさん来た。でも、肝心の主人であるアルはいなかった。大学なんて平和な施設の衛兵なのだから、ご両親もこんな形で突然、死に別れるだなんて思っていなかったのだろう。父ちゃんは気丈に振る舞ってあいさつもしていたけど、母ちゃんは兄ちゃんかな?弟かわからないけど、ジョシュの兄弟っぽい男の子に支えられて、口元を押さえて泣いていた。
それを見ているとパインも耐えきれなくなって、ウォンウォンと声を上げて泣いてしまった。ジョシュの葬儀のことを思い出すと、また涙があふれそうになる。ダメだ。出てきてしまった。もう止められない。
「葬儀は厳粛に行われました。ですが、あそこにはジョシュの主人であるあなたがいるべきでした」
アルは当然、申し訳なさそうな顔をしている。神武院から戻ってくる馬車の中で、ジョシュの話をした。葬儀の様子を聞かれたので、家族が悲しんでいたことを話した。話しているうちに思い出して泣いてしまって、細かいところまでは話せなかったけど、たぶんどれだけ悲しかったか伝わったと思う。
「もう1つは、なぜもっと早く相談してくれなかったということです。いつも言っていますが、勝手に一人で危険なことに飛び込まれては困ります。王子がいなくなると困る人間は、国中にたくさんいるのです」
本当に大事なのは、こちらだ。アルは第3王子という気楽な身分ではあるが、一応、3番目の王位継承権の持ち主なのだ。国民からも割と人気がある。以前はアル兄ちゃんが1番人気だったけど、王都から出て行ってしまったので、今ではアルが1番だ。民衆の前に出ていく機会も多いし、大学の学長だから若い人にも顔が知られている。美男子なので、女子からは世代を問わずにすさまじい人気だ。パインはそんな人のおそばに仕えていることを、本当に幸せだと思っている。
爺さんは改めてアルが自由気ままに行動してはいけない立場であることを懇々と説いてから、あとはこちらでやりますので、明日から学長の仕事に復帰してくださいと言った。「してください」とは言ったけど、爺さんの「してください」は「しろ」だ。
「あとはこちらでやっておくって、どうするつもりなんだ」
アルは声を振り絞った。爺さんは、アルだけではなくトリア兄やバース兄も父親代わりに育てた人だ。世界とはどういうもので、大陸の覇者としてどう民衆を導いていくかを叩き込んだ人でもある。言ってみれば王子としてのアルアラム・シャファーン・ムスラファンを作った人であり、そんな人に対して反抗なんてできない。質問をしたのは、アルの最大限の反抗だろう。
「西の砂漠には、たくさん討伐隊がいます。彼らに探索指令を出します」
「見つけ出したところで、どうやってマリシャを助け出す」
アルとシャウナとトウマとオーキッドが何度も繰り返して作戦を練って、いまだに答えが出ていない。爺さんには策があるのか?
「とりあえず捕えてキサナドゥーに連れてきましょう。どうやって分離するかは、西の果てにいる専門家たちの意見を聞いてみるつもりです」
捕えてというけど、どうやって?捕えたところで、どうやって連れてくるのか?ハテナだらけだったけど、パインの経験から言えば、これ以上、爺さんを追及するのは得策ではない。アルもそれはわかっている。今、どうにもならなくても、爺さんは大概のことはうまく切り抜ける。だから今回も何とかするだろう。
「王子はここ数日、大変な目に遭ったのですから、今日はゆっくりとお休みください。明日からは、心ゆるりと元のお仕事をなさってください。いいですね?」
そういうと、爺さんはローブを翻して部屋を出て行こうとした。が、ドアのところで立ち止まって振り向くと「マリシャの家族は謹慎しているそうです。父親も族長を辞して、蟄居しているのだとか」と言った。
南方には行っていないので何があったのかは聞いただけのことしか分からない。でも、マリシャの父ちゃんは部族の偉いさんだったはずだ。その家から魔族が出たのだから、恥ずかしくて謹慎せざるを得ないだろう。最後に爺さんは「くれぐれも抜け出して魔族を追ったりしないでくださいね」と付け加えた。それから「パイン、しっかりと王子を見張っているんだぞ」と言い残して去っていった。
何を言っているんだか。パインはアルの盾だぞ。アルがマリシャを追えば、もちろん一緒に行く。仮にアルが爺さんの言いつけを守って残ることになっても、パインがアルの代わりに探しにいく。そんなこと言うだけ無駄だって、わかっているはずだ。長い付き合いなんだから。
大体、爺さんは「千里眼のゴライアス」というあだ名があって、何でもお見通しなんだ。どうせ、またマリシャを追いかけていくんだろうと、わかっているんだ。