1週間くらいした頃から、トウマは急激に回復し始めた。たぶん内臓の調子が良くなったのだろう。私も最初は水を飲むことすら辛かった。飲んでも吸収してくれない感じで、夕方になると度々、発熱した。
ある日突然、内臓が動き出したのを感じた。お腹がグルグルと鳴ったので、試しに水を飲んでみた。ああ、全然違う。体に染み込んでいく。食事をしても、それまでは回復するために我慢して詰め込むように食べていたけど、吸収しているのを実感するようになった。それに伴って肌の張りがよくなってきた。トウマも私と同じような負傷具合だったので、たぶん同じことが体内で起こっているはずだ。
食べたものが身になるようになると、体力の回復は早かった。鬼ごっこで捕まらなくなったし、スピードもスタミナも急激に戻ってきた。「もっと本気でやってくれ」。オーキッドと組んで押し合っても、負けなくなった。
というか、神武官ってすごくない?オーキッドはトウマより頭2つ分ほど背が高い。横幅も大きいのに、組み合って負けないなんて。魔族と戦える肉体を持っているとは聞いていたけど、どんな訓練をしたらこんなことができるようになるんだろう。本人に聞いてみたら「話せば長い」と例によって説明を拒否された。リュウに聞いてみると「いろいろと細かい技術があるんだけど、簡単にいうとテコの原理かな」と教えてくれた。
「本気って、俺が本気を出したら、腕が折れちまうぞ」
オーキッドはトウマの要求に引き気味だけど、いざ組んでみると思った以上のトウマの力に驚いたようだ。
「どうだ、本気で来ないと、押し倒してしまうぞ」
トウマは半笑いで下からオーキッドを押し上げていく。オーキッドは汗をかきながら、倒されまいと踏ん張るのが精一杯だ。本気になっていないのはトウマの方で、その気になれば、すぐに投げ飛ばしていただろう。
トウマは西域でもそうだけど、訓練は格闘術ばかりで剣や槍は使わない。神武官は基本的に武器を使わないそうで、そもそも装備に入れないという。金槌とかスコップとか、そういう土木用の道具をたくさんバックパック(トウマは背嚢と言っていた)に入れて持ち歩いているから、守護者の基本装備であるガーディアンズスティックのような武器を持つ余裕がない。
だから、魔族と出会っていざ戦闘となれば、まず素手で戦う。金槌やスコップを使えばいい?そう思うよね。私もそうすればいいのにと言ったことがある。するとトウマは真顔で「道具が壊れたらどうする」と言った。なるほど、神武官にはそっちの方が大切なんだ。
「突いて蹴って痛めつけて、それで相手が逃げ出さないようなら投げて仕留める。どうやって仕留めるかって? 首を絞める。殺すに至らなくても、それで大体、失神する」
東方にいる魔族は、神武官を見ると戦わずに逃げていくそうだ。簡単に勝てないし、餌として捉えるにはリスクが大きすぎる。仮に魔族が複数で神武官が一人なら、その場では勝てるだろう。だが、そうやって一人殺したところで、今度はもっと多数の神武官がやってくる。だから、彼らはそんなことはしない。リスクとリターンを天秤にかけられるくらいの知能は、大概の魔族は持っている。
そもそも論で、東方では魔族は人間の前に現れないのだそうだ。出てくるのは、よほど困窮した時だけ。食うに困って人間を襲いにきた時か、逆に人間に食べるものを恵んでもらいに来た時くらい。それに、北国や西域では信じられないけど、東方では人間が魔族を狩る風習がある。
1000年前まで立場が逆だったため、東方の人は、いつかまた魔族に食糧にされる時代が来るのではないかと恐れているのかもしれない。とにかく東方では魔族狩りをする。これを生業にしている人もいるのだそうだ。基本的には生活圏を守るためだが、わざわざ遠くまで足を伸ばすこともある。そうすることで、魔族を威圧するらしい。
そして、一部では狩った魔族を食べるという。オエッ。自分で言っていて気持ち悪くなってきた。もう一度いうけど、東方の一部では魔族を狩って食べる。主に内臓をね。実際に食べている人に会って聞いたことがないので、どういう目的なのかはわからない。ただ、リュウから聞いた話や、以前に文献で読んだ限りでは、呪術的な目的があるらしい。お腹が空いたから食べるわけじゃない。魔族の肝臓とかを食べて、その強さを取り入れるという、まあそういうわけだ。君の食文化にはないか?魚の目玉を食べたら、目が良くなるとか。その類のものだが、理解に苦しむよ。
要するに、現在の東方では魔族は人間よりも立場が弱いんだ。天敵と言っていい神武官がいるし、狩りの対象でもあるしね。世界奪回のあと、彼らは人間が踏み込まないような山奥に隠れ住むか、逆に人里に出てきて人間社会に溶け込もうとした。人里に現れた魔族は、よく虐殺されたと聞く。マリシャ女王は心を痛めただろうね。どっちが魔族なのかわかったもんじゃない。だから神武官という、一方的に魔族を敵視しない、守護者とは趣の違う職業を作ったのかもしれない。
なぜこんな話になったかというと、ここにいる間にリュウからいろいろと東方の話を聞いて、とても興味深かったからだ。君も知らないだろう、こんなこと。東方って北国とも西域とも全然違う。時間があればここを旅して、もっといろいろなものを見て、話を聞いてみたいと思ったよ。
もう明日にも出発しよう。だいぶ回復したトウマが夕食の時にそう言い張って、アルアラムが困ってしまった翌日のことだった。朝、起きると、何やら門の方が騒がしい。雫がやってきて「あ、おはよう」と少し不安げな表情で言った。「何かあったの?」と聞くと「アルアラムの知り合いだという人が来たので、彼を呼びに来たんだけど…」という。
アルアラムの知り合い?そういえばゴリーさんに手紙を書いたと言っていたので、返事を誰かが持ってきたのではないか?だが、それにしては早朝だ。私は遅くまで寝ているのがあまり好きじゃない。体が動くようになってからは、日の出とともに活動を始めるここの人たちに合わせて、早起きしていた。まだ外は宵闇が残っていて、やっと朝焼けが空を染め始めた時間帯だ。アルアラムはまだ眠っているだろう。誰が来たのだろうか。
「私が行こう」
雫を呼び止めて、一緒に門へと向かった。石段に出ると、門の屋根が見える。あの中に小さな部屋があって、夜になると門番が入って警備につく。私も入らせてもらったのだが、部屋は屋根が低くて細長く、いかにも横になってくれと言わんばかりの形をしている。門番とは名ばかりで、ここでぐっすりと眠ってしまう人も多いはずだ。
石段を降りていくと、門の前に何人かの神武官が集まっていた。緊迫感が漂っている。ゴリーさんの使いの者であれば、西域人の可能性が高い。こんな早朝に異国からの訪問者があれば、門番は何事かと思うだろう。もう少し常識的な時間に来ればいいのにと思っていると、聞き慣れた声がした。
「あっ、シャウナじゃな?よかった!ここで間違いないようじゃ!」
制止しようと立ちふさがる神武院を押しのけて、背の高い、いや、ものすごく背の高い、違う、ものすごくデカい女性が現れた。私よりも癖の強い巻き毛に朝日が当たって、橙色にキラキラと輝いた。青く染めた革製の胸当てと肩当てをつけて、完全な軍装だ。人の背丈ほどもある大剣と槍をクロスにして背負っている。こんな物騒な出立ちでは、警戒されても仕方がない。だが、それとは対照的に、丸っこい顔と大きな瞳は愛嬌たっぷりだ。
「パイン!」
ホッとした。頼もしい子が来てくれた。いや、ちょっと違う。パインはたぶん何もしてくれない。現状を打破するアイデアが出るような子ではない。それでも、彼女がいるだけで場が和む。
「シャウナ!」
パインは神武官を突き飛ばすと、駆け出した。大きいので、2歩くらいで私のところまで到着する。いきなりギュッと抱きしめて、ほおずりされた。
「あ〜よかった!心配したぞ!会えてうれしい!」
苦しい。喜びを素直に表現してくれるのはいつもうれしいけど、体が大きくて力が強いので、パインとのハグは大袈裟ではなく命懸けだ。それにしてもこの子、臭い。汗の匂いがすごい。もしかしてキサナドゥーからここまで風呂に入ってないのか?
「パイン、苦しいよ」と言って離してもらった。いぶかしんでいる雫や神武官たちに「アルアラムの家臣だ。怪しい者ではない」と伝えた。
言葉は悪いけど、もっとどうでもいい衛兵が来ると思っていた。パインが来るとは。彼女はアルアラムの一番の近習だ。王様に例えれば、将軍が迎えに来たようなものだ。
「途中で地図をなくしてしまってのう。ずっとアルアラムの匂いを頼りに、ここまで来たんじゃ」
えっ、それってどのへんから地図がなかったの?パインは末裔独特の身体能力の持ち主で、嗅覚も鋭い。とはいえ、犬でもないのに、匂いを頼りにここまで来るとは。忠誠心のなせるわざか?と思わなくもない。
「シャウナ、髪を切ったのか?何があったのじゃ?髪は女の命じゃぞ」
大きな体に似合わぬ、乙女ちっくなことを言っている。いつも通りニコニコしている顔をよく見ると、目の下にクマができていた。
「パイン、もしかして寝てないの?」
徹夜でやってきたのなら、こんな早朝に登場したのも納得がいく。
「昨晩だけじゃないぞ。キサナドゥーを出てから、一睡もしてないのじゃ!馬の上で寝た!気がついたら、馬がいなかった!」
低い鼻を突き上げて自慢げに言っているが、何を言っているのか意味がわからない。「!」も多すぎる。
「なるほど。つまりキサナドゥーを出発してから、ろくに休んでいないということね」
「そうじゃ! ろくではない。全然休んでない!」
「だから、そんなに臭いんだ」
「えっ!」
パインは腕を上げて、自分の脇の下をクンクンと嗅いだ。さらに自分の髪の毛を鼻先に持ってきて嗅ぐと、困った顔をした。
「臭い。臭いのじゃ。シャウナ、パインは臭いぞ」
テンションが急降下して、目がうるっとなる。ヤバい。パインは泣き出すと長いんだ。
「大丈夫、パイン。アルアラムはまだ眠っている。その間にお風呂に入ってきたら?あの建物で待っているから」
宿泊している棟を指差し、雫にパインをお風呂に連れて行ってもらった。
目が覚めるとパインがいたので、アルアラムは驚いていた。「いつの間に来たの?」と言っているが、ニヤけて、とてもうれしそうだ。風呂はさすがに沸いていなかった。それでも残り湯で湯浴みをしてサッパリとしてきたパインは、ふわふわの髪からほのかに石鹸の香りを漂わせていた。もう臭くないという自覚があるのだろう。
「アル!会いたかったのじゃ!」
遠慮なくアルアラムを抱きしめた。いつも思うのだが、パインは相手が死なないギリギリの力で抱きしめてくる。あれを気持ちいいと言っているマリシャは、どんな体をしているのだろう。私もしょっちゅうハグされるけど、いつも身構えてしまう。
その日の朝食は、パインも交えてにぎやかだった。彼女はキサナドゥーを出てから夜を徹して移動していて、道中はろくなものを食べておらず、久々の温かな食事を「うまいうまい」と言いながらほおばった。王都からここまで宿泊しながらだと5日か6日か、その程度だ。たぶん、3日くらいで来たのではないか。
「途中で馬の上で寝てしまったので、何日かかったのか、よくわからないのじゃ!」
トウマと南方を出た直後もめちゃくちゃな強行軍だったけど、それに輪をかけてめちゃくちゃだ。
「にぎやかなヤツが来たなあ」
オーキッドが呆れている。体が大きいことを考慮しても、ものすごい量を食べ、絶え間なくしゃべり、食べ終わると「ごちそうさまなのじゃ!」と言って横になってしまった。
ダメだ、このままではすぐ寝てしまう。揺さぶって「パイン、何か用事があってここまで来たんじゃないの?」と聞くと「おお、そうじゃ!」と言って大きな体に似合わぬ俊敏さでピョンと起き上がった。アルアラムの前へ進み出ると、うやうやしく膝をついた。
「爺さんからの伝言じゃ。『今すぐ帰ってこい』なのじゃ。ワシはアルを連れ戻すためにここまできたのじゃ」
えっ、と思った。爺さんというのは、もちろんゴリーさんことゴライアスのことだ。パインはそう呼んでいる。てっきり誰かしらエント退治に詳しい人を紹介してくれるとか、アフリート封じに必要なアイテムを教えてくれるとかするのではないかと勝手に想像していた。帰ってこいというのは意外だった。
「どういうことだ、パイン」
アルアラムも私たちと毎晩、次にアフリートと遭遇した時にどうすればいいかを話し合ってきたので、彼の頭の中にも帰るという選択肢はなかったようだ。
「どうもこうもないのじゃ。爺さんは『すぐに王子を連れ戻してこい』と言っていたのじゃ。嫌がったら首に縄をつけてでも構わないと言っていたけど、ワシはそんなことしないから安心しろ!」
無邪気に笑っているが、ゴリーさんの要求はにわかに受け入れ難いものだった。
「帰ってどうするんだ」
トウマが聞いた。
「さあ、そこから先はどうするか知らん。爺さんが決めるじゃろ?」
パインはケロリとしている。そして、唐突に質問した。
「そういえばマリシャはどこなのじゃ?一緒ではないのか?」
パインは知らされていなかったのだ。マリシャが魔族にさらわれて、私たちが文字通り死にそうになりながら、追いかけているということを。まあ、それを知ったら、ちょっと変わるんじゃないかという予感はあった。何しろ、パインはマリシャのことが大好きだからね。お互いのことを、妹みたいに思っているから。