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第26話 触れることはできた。でも、それだけだった

 頭が後ろに大きくのけぞるほどの衝撃で、意識を取り戻した。全身が痛い。肌がヒリヒリする。手の平が濡れているのは汗なのか、それとも血か。自分が後ろ向きに倒れるのを感じる。足を一歩引いてそれを防がないといけないのに、動かない。手の平がトウマの背中から離れる。


 目を開けろ!せめて目を開けて、何がどうなっているのか見ないと。まぶたが自分のものではないようだった。無理やり眉根に力を入れて目を開くと、トウマの背中があった。煙が出ている。着物が焼け焦げて、私が手を当てていたところから、ぼろっと崩れた。すごい汗だ。血ではないことがわかって少し安心した。後ろに崩れ落ちる。と、私とトウマの間に、誰かがいるのが見えた。


 小さな人だ。私がそうしていたようにトウマの体に手を添えているが、腰のあたりまでしか届いていない。長い髪が背中を覆っていて、髪の毛から腕が生えているみたいに見える。何より不思議なのは、意識が朦朧としているせいか、それともこういうものなのか、彼女…たぶん彼女だろう、なんだか透き通って見えるのは、なぜだろう?そんなことを考えているうちに、自分の背中が地面にぶつかるのを感じた。このまま意識がなくなるのかなと思ったら、意外になくならなかった。


 「シャウナ!」


 オーキッドの声がする。バシャバシャと足音がして、視界に入ってきた。大丈夫か?とかいうかなと思っていたら、黙って私を抱え上げて、走り出した。


 トウマの背中が見える。腰の辺りに、先ほど見た半透明の女性が組み付いている。その向こうで燃え盛っているのはアフリートことマリシャだ。さらにその後ろにエントが見えた。最後に見た時から、さらに巨大化している。オーキッドでも組み付くことはできないだろう。足一本を捕まえられるかどうかというほど大きくなっている。神武官たちを足元の砂でも払うかのように、蹴散らしている。そして、身を屈めると、アフリートを抱きかかえているトウマを見た。口に見える部分を「ああ」とでもいうかのように開けると、太い枝でトウマの横っ腹を突き刺して、アフリートから引き剥がした。


 もうダメだと思った。だって、完全に突き刺さったんだもの。エントはトウマを振り払うと、少しぐったりしているアフリートをつまみ上げて、地響きを立てて歩き始めた。勝てない。諦めの雰囲気が漂っていた。仕方ない。あんな巨大なものを倒すことはできない。誰も追おうとはしなかった。


 エントは南への森へと歩みを進めていく。周囲の樹木より背が高いので、その恐ろしい姿がなかなか視界から消えなかった。早くいなくなれと祈りながら、伏せていることしかできなかった。完全に見えなくなって、頭の芯まで響く足音が完全に聞こえなくなるまで、息を潜めていることしかできなかった。



 少し話は前後するけど、エントが去り始めると、オーキッドは私に治療魔法をかけ始めた。顔面に手をかざし、高速呪文を唱える。私、どうなっているの?なんでこんなに動けないの?と聞きたかったけど、口元が腫れていて、しゃべることができない。冷たい。ひんやりとした冷気が気持ちいい。


 「ひどい火傷だ。跡が残るかもしれない」


 そう言いながら、首から胸、胸から腹へと手をかざしていく。もう大丈夫。もうたぶん死なないから、トウマを見に行ってほしい。そう思い始めてから随分と長いこと、治療を受けていた。


 オーキッドは私の手当てを終えると、トウマのところへ向かったようだ。どこかで話し声が聞こえる。神武官の人が、一人でもたくさん生き残ってくれていたらいいのにと祈った。しばらくして誰かがやって来て「大丈夫?」と声をかけてきた。アルアラムだ。よかった、生きていたんだな。そう言いたかったけど、口が動かない。


 「おーい、誰か来てくれ! けが人だ!」


 情けない。世界を守るはずの守護者なのに、目の前の人すら助けられていない。




 次に意識が戻ったのは、翌朝だった。トウマの師父の家の寝室で目が覚めた。全身に包帯が巻かれていた。寝返りを打ってみようとしたが、身体中が痛くて思わず声が出た。それが聞こえたのか、オーキッドがやってきた。


 「まだ動くな。全身を火傷している。動けるようになるには数日かかるだろう」


 トウマは大丈夫なの? まるで自分のではないような、かすれた声に驚いた。喉もやられてしまって、ヒリヒリと痛い。


 「ああ、生きている。奇跡的にな。泉の女神様がいなけりゃ死んでいたわ」


 どういうことだろう。


 オーキッドは、私が意識を失った後のことを話してくれた。私は全身が赤剥けになるほどのひどい火傷で、髪も焦げて、服もボロボロになっていたらしい。トウマのことも気にはなったが、まずは私を治療しないと死んでしまうと思って、目の前のことを優先した。最低限の治療を施してから、トウマを探しに行った。泉の水は干上がり、トウマは底だった部分の一角に投げ出されていた。左脇腹に大きな傷があり、出血がひどかった。


 だが、それよりもむごかったのは、全身の火傷だ。私よりもひどくて、助からないと思ったそうだ。そんなトウマのそばで、救命処置をしていた人がいた。私が見た、半透明の女性だ。サイズがおかしかった。顔立ちや体つきは明らかに成人なのに、小さすぎる。私の背丈の半分くらいだったそうだ。地面につくほどの長い髪は青く、肌の色は目がおかしくなったのかと錯覚するような半透明だった。トウマの脇腹に手を添えて、止血しようとしていた。その隣にしゃがみ込みながら、オーキッドは「あんた一体、なんなんだ」と尋ねた。


 女性はチラリとオーキッドの方を見た。そしてまたトウマの方に向き直ると、顔も上げずに「私の名前はシャナ。あなたたちが泉の女神と呼んでいる者よ」と言った。小さな声だった。蚊の鳴くようなとは、こういう声のことを言うのだろう。「この男、死んでしまうわ」と悲しげに呟いた。そうはさせない。脇腹の傷をシャナに任せて、オーキッドは火傷の治療を始めた。


 「2人でやれば助けることができるさ」


 魔力を全開にして注入すると、ようやくトウマの鼓動が回復した。「あなた、古い呪文を知っているのね」。シャナは顔を上げた。悲しげな目だ。長いまつ毛が印象的だが、美しいというよりも憂いを含んだという表現の方がふさわしい。


 シャナの魔法は不思議だった。手をかざすと、どこからともなく水がサラサラと流れ出す。それをトウマの脇腹にかけ続けているうちに血が止まった。傷口も、ふさがったようだ。


 「申し訳ないけど、できるのはここまでだわ」


 シャナは言った。


 「助かったよ。ありがとう。泉の女神様に助けてもらえるなんて、こいつは幸せ者だ」


 そう言いながら、オーキッドは何かおかしいことに気がついた。さっきよりも、シャナが小さくなっている。少女くらいのサイズだったのに、今は犬くらいの大きさだ。


 「あんた、縮んでいないか?」


 「そうよ。さっき私の大部分はエントに吸い取られてしまったわ。ここにいる私は、残りかすみたいなものよ。本体は持って行かれてしまったので、遅かれ早かれ消えてなくなるわ」


 えっ、それは困る。こいつは元とはいえ神武官で、あんたを信奉しているんだ。目が覚めるまで、消えないでいてくれないか。オーキッドが懇願している間にも、シャナは小さくなっていった。


 「無理よ。魔力もこの男にほとんどつぎ込んでしまったし。手遅れね」


 この魔族がどのような性質なのかまだよくわからないが、こうやって本体と分離するのは初めてではないのだろう。これから消えてなくなるというのに、淡々としていた。


 「この前の時も、エントと一緒に行くのは嫌だったわ。静かに暮らしていたいのに、無理やり連れて行かれて。いつも逃げ出すことばかり考えていた。やっと安住の地を見つけて落ち着いていたのに、また来たのね。懲りない魔族だわ」


 オーキッドに話しかけているのか、独り言なのか、どちらなのかよくわからない小さな声で呟いた。


 「本当に申し訳ないわ。私の本体を探してちょうだい。きっと、エントから離れたくて仕方がないと思っているわ。私、またここに帰ってきたいの。ここが好きなの…」


 最後の方は、小さくて聞き取れなかった。どんどん小さくなって、霧のようになって見えなくなってしまった。

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