私たちを残して、師父とリュウは家を出て行った。すぐに他の師父を集めて、対策会議を開くという。「俺たちも行こう」とトウマは立ち上がった。「行こうって、どこに?」とアルアラム。完全にくつろいで横になっている。他人の家だよ?
「泉を見に行く。もしかしたら先に到着されているかもしれない」
なるほど、確かにそれは早急に確認しなければいけない。外に出て、トウマについて石段を登っていく。しばらく進むと、開けた場所に出た。ちょっとした運動場という感じだ。奥に横に長い建物がある。
「体術の練習をするところか?」
オーキッドが誰にとはなしに聞いた。
「そうだ」
「アルアラムは、ここに来たことはあるのか?」
いかつい見た目とは裏腹に気が利くから助かる。
イースを出発した日、私は目の前でたくさん人が死んだショックで、とても話をする気になれなくて、ずっと黙っていた。トウマはあんなんだし、アルアラムもビビっちゃってしゃべらないし、まるでお葬式みたいな雰囲気だった。それに気がついて、一生懸命に話してくれたのがオーキッドだった。
「見ろ、あの木。今は何もないけど、もう少し涼しくなったら食べられる実がなるんだ」
そんなどうでもいい話を、誰にするでもなしにしてくれた。誰も返事しなかったし、相槌すら打たなかったけど、すごく助かった。トウマは知らないけど、アルアラムもきっとそう思っていたはずだ。
「あるよ。随分昔の話だけど、あの建物で食事をご馳走になったことがある」
アルアラムは運動場の奥にある横長の建物を指差した。
「お客さんを迎えるための部屋があった記憶がある」
この子は王子という立場を利用というか有効活用して、本当に大陸のあちこちに行っている。王子でなければ、こうはいかない。なにしろ旅をするには金が要る。宿泊、食事、装備、馬車に乗れば交通費もかかる。
イースから西域に行った時は両親に援助してもらったけど、旅というものがいかに金が必要か、よくわかった。イースにいた時には守護者が使える無料宿泊所があちこちにあって、食事も格安で食べられた。だけど、外に出ればそういうわけにもいかなかった。
「泉は見たことがあるのか?」
「ああ、その時に見せてもらったなあ。あの建物の、さらに奥にあるんだ。すごく汗をかいて、気持ち悪かったな」
そうじゃないだろ。神武官が信奉する神聖な泉を見せてもらったというのに、覚えているのは汗をかいて気持ち悪かったということか。このボンボンめ。
でも、アルアラムは責められない。なにしろ彼は王子さまなのだから。彼の下で働いて、しみじみと世の中には高貴な人というのが確かにいるのだと知った。感じ方や物の見方が違う。私もそれほど苦労して成長してきた人間ではないが、なんていうのかな、なにか超越したものを感じるんだよね。一例を挙げればお金の使い方とか。
横長の建物を抜けると、さらに石段があった。ただ、ここは門や運動場の周辺と違って石段の両隣に建物がなく、森が迫っている。湿気が強くなり、確かにここは蒸す。先ほどのアルアラムの言葉を思い返しながらしばらく登っていくと、泉に到着した。
もっと大きな泉を想像していた。思っていたよりもずっと小さい。10人くらいで手を繋げば、周囲を取り囲んでしまえるくらいだ。空から差し込む陽光がキラキラと反射して、まぶしい。淵までびっしり下草が生えていて、不思議なくらい青く見える水面とのコントラストがきれいだった。
なんでこんなに水が青い?山の中の水たまりなのだから、もっと黒かったり緑っぽかったりするんじゃないの?この色彩も想像と違って、興味深かった。泉のそばに座って水に触れてみた。冷たい。これも想像以上に冷たい。ここは、いろいろと視覚や触覚で感じるものと差がある。
「これ、飲んでも大丈夫?」
トウマに聞いてみた。
「本当は神武官の試験に受かったヤツしか口にできないんだぞ」
ダメとは言わなかったので、手ですくって口に含んでみた。美味しい。微妙に甘くて飲みやすい。体にスッと馴染む感じがする。
周囲を見回しても、エントが来た気配はなかった。なぜわかるかというと、周囲の木々が倒れた気配がないからだ。あれだけ大きな魔族がこの淵のすぐそばまで来ていたら、どこかで木が倒れたり、押しひしがれたりしている。馬鹿正直に階段を登っていたら、それはないか。だけど、エントがそんな登場の仕方をするとは思えない。
これまでの行動パターンを思い返すに基本、最短距離でやってくる。階段を登っているとすれば、門から入っているはず。だけど、神武官の人たちはエントを見ていない。ということは門から入っていない。すでに来ているとすれば、泉の周囲の森のどこかをかき分けている。その形跡がないということは、まだ来ていないということだ。
「ここで待ち受けるか」
トウマがつぶやいた。それがいい。絶対にここには現れるんだし。
「ところで、シャナってのはどこにいるんだ? この泉の中にいるのか?」
オーキッドが聞いた。泉の中で間違いはないけど、正確に言えば、この泉そのものがシャナだ。神武官たちが泉の女神と信奉しているのが、シャナなのだ。
最初にトウマから聞いた時は驚いたけど、シャナがここに泉になって封印(という表現が正しいかどうかはさておき)されて以来、東方は次第に荒れた岩山から緑深い土地へと変わっていったと言われている。だから、生命の源という意味で、神武官たちはこの泉を神様として崇めている。神話で人間を滅ぼしかけた魔族のうちの一人が、今や一部の人間の神様になっているなんて、面白いよね。
「この泉が、シャナそのものだ」
オーキッドは、えっ!と驚いた顔をした。この大男は、神話にはあまり詳しくないみたいだ。アルアラムは以前に来た時に説明されて知っているのか、特に反応はなかった。どこを見ているのか、斜め上を向いている。
「それなら早くご登場願おうじゃないか」
オーキッド、それはどうだろう。シャナは世界奪還の戦いの時に自ら魔族のパーティーから降りたと伝えられている。そして東方のこの地までやってきて、泉になった。封印されたというより、自ら眠りについたといった方がいい。
その後、神武院ができて信仰の対象となり、1000年近い年月が流れても泉のままだ。シャナは女性の魔族だといわれているが、姿を人前に見せているのであれば過去の神武官が目撃しているだろう。だが、トウマからそんな話を聞いたことはない。
「シャナは泉になってから、ここから動いたことも、姿を見せたこともない。俺たちの力では無理なんじゃないか。エントとアフリートがここに来れば、何か変化が起きるかもしれないが」
トウマが説明した。オーキッドはそれを聞いていたのか聞いていなかったのか、泉に向かっておーい、シャナさんよぉーと呼びかけている。もちろん、何の反応もなかった。
エントの来襲に備えてオーキッドを泉のそばに残して一度、装備を取りに師父の家まで戻った。すると、一人の神武官が探しにきて、総出で魔族退治に参加してくれることになったと教えてくれた。ありがたい。ここで決着をつけられるかもしれない。泉で待機することを伝えて、再び石段を登った。
「アルアラム、死なないようにどこかに隠れていてもいいぞ」
トウマは真面目な顔をして言った。冗談ではなく、本気のようだ。「えっ」と返事なのかなんなのかわからない音を出すと、アルアラムは下を向いてしまった。
全く戦力にならないわけではない。アルアラムが剣術の練習をしているのを見たことがあるので、そこそこの腕前であることは知っている。ただ、基本的に使うのが片手持ちの剣(今も腰に差しているのはそれだ)なので人間相手ならともかく、巨大な怪物が相手では分が悪い。
「少なくとも自分の身は自分で守れ。わかったな」
アルアラムは下を向いたまま、返事をしなかった。こういう場面で役に立たない自分を恥じているのだろうか。ならば、私だってそうだ。ただ、今回は考えがあった。トウマがアフリートに接触できれば、私にもできることがあるかもしれない。私は触覚で相手を分析できる。トウマを仲介してアフリートに接触できれば、魔法とは縁のないトウマ以上に、何かできるかもしれない。