またトウマが僕たちを捨て置いて、一人で追いかけていってしまうのではないだろうか(実際にそんなことはこれまでもしなかったけど)と思ったが、そんなことはなかった。魔物に逃げ切られて、僕たちは装備を置いてきた守護庁へと一度、引き返した。ひどいものだった。あちこちに回廊やテラスが崩れ落ちてできた瓦礫の山があり、一階の広間には崩落や炎の攻撃で負傷した人が運び込まれて、うめき声が響いていた。
「シャウナ!」
背の高い、初老の男性がこちらへと近づいてきた。豊かな口髭をたくわえた、品のよさそうな人だ。
「お父さん」
ああ、なるほど。この方がシャウナのお父さんなんだ。
シャウナのお父さんは、守護庁の学院で守護者を育成している。簡単にいえば先生だ。僕たちが到着するまでの話を、ざっくりと聞いた。エントは湖畔に突然、現れると守護庁の壁を破壊して侵入。地下階も破壊して、アフリートを取り出したようだ。ようだというのは、誰も見ていないから想像するしかないということ。次に地下から現れたとき、エントは炎をまとった少女を連れていた。それが、たぶんアフリートなのだ。
「アフリートは精霊の姿で封印されていたので、単体で動き回ることはできない。誰かしらに受肉したのだろう」
さすが、守護庁の先生なので詳しい。でも、僕たちはもっと知っている。エントはマリシャの兄カイン、アフリートはマリシャを依り代にして、復活したんだ。外見から想像すれば、それで間違いないだろう。
「追おう。次の行き先はわかっている」
トウマは立ち上がってズボンの腰の辺りで手のひらをぬぐった。
「エント、アフリートとくれば、あと封印されているのはシャナだけだ。彼女は神武院にいる」
確かにそうだ。風の精霊シェイドは西の砂漠の果てで、まだ逃亡中と言われている。ここからなら圧倒的にシャナの方が近いし、そもそも砂漠の果てにいるシェイドを追うためには、シャナが必要だ。エントは植物なので、活動するためには水分が必要だからだ。シャナは水の精霊なので、空中からでも水を生成して供給できるという。
だが、追いついたところでどうする? アフリートの炎は、触れただけで人間を焼き尽くすほどの威力がある。エントの枝や根を振り回す攻撃も、強力だ。
「お嬢をどうやって取り戻すよ?」
疑問に思っていたことを、オーキッドが言ってくれた。
「あの炎は、触れるだけでもヤバい。アフリートにお願いして、マリシャを手放してもらうか?」と肩をすくめる。
「いや、意外とそれいいかも」
シャウナが割って入った。
「神話の時にアフリートが受肉していた相手も、魔法使いだったの。最後にアフリートが人間に負けるのは、その魔法使いと切り離されたからなの。どういう理由があるのか知らないけど、アフリートは受肉対象を完全に乗っ取らないの。だからアフリートに呼びかけてマリシャを手放させることができれば、マリシャを取り戻せるわ」
へえ、そうだったのか。神話マニアは細かいところまで覚えているな。
「俺にも考えがある」
珍しくトウマが口を開いた。
「シャナを味方につけられれば、マリシャに接触できるかもしれない」
精霊を味方につけるだって? わけのわからないことを言い出したぞ。もちろんトウマは、どうやってとか、なぜ味方につけられるかとか、そんなことは説明してくれない。
その後、シャウナはお父さんに、追跡パーティーを離脱して守護庁の復興を手伝ってくれと頼まれていた。もともとシャウナの両親は彼女が遠隔地に行くことに反対で、守護庁か、せいぜい城壁内での勤務を望んでいたと聞いたことがある。だけど、世界中をその目で見て回るという冒険に憧れて、愛娘は地元を飛び出してしまった。久々に戻ってきたと思ったら、危険な魔物を追いかけている。親とすれば心配で仕方ないだろう。引き止めるのが当然だ。
とはいえ、シャウナが「嫌だ」と即答するのも、当たり前だった。せっかく出会った本物の魔法使いがさらわれて、しかも危険に晒されている。妹みたいにかわいがっていた友人でもあるのだ。ここで追うのをやめるわけがない。
代わりに僕が守護庁の復興をお手伝いしましょうか?そう申し出てみようかと思った。そうすれば、もうあの魔物を追いかけなくても済む。僕の思いを見透かしたのか、トウマが怖い目つきでにらんでいた。わかってるよ。シャウナはお父さんの要望を飲まず、そのうちに僕らの見ている前で「残れ」「絶対に嫌だ」と押し問答になった。
シャウナは、あまりお父さんのことをよく思っていない。過保護で、いつまでたっても自分を一人前の守護者として扱ってくれないという不満を聞いたのは一度や二度ではない。だけど、父上と口論、それどころか言葉を交わした記憶すら希薄な僕は、うらやましかった。実の親と率直な思いをぶつけ合うなんて、僕はしたことがない。お父さんは過保護なのではない。シャウナが心配なのだ。自分の目の届かないところで危ない目にあっているのではないかと心配しているのだ。でも、今のシャウナには、そんなお父さんの思いは邪魔で仕方がないのだろう。
結局「ダメだ」「絶対行くから」の繰り返しでシャウナが押し切ってしまって、僕らはまた魔物を追う旅を続けることになった。ボロボロになった守護庁をそのままにして去ることには、すごく抵抗があった。僕のスキル的に言えば、ここに残った方がよほど役に立つんじゃない?復興に必要なお金と人材を調達して、スケジュールを立てて、運営管理する。いつもやっていることとそっくりだ。またトウマが怖い目でにらんでいるので、余計なことを考えるのはやめよう。彼は周囲を全く見ていないようなのに、意外に周囲の人の心の動きに敏感だ。神武官の能力なのだろうか。仕方がない。最後まで付き合うしかない。
出発する時、シャウナのお父さんがやってきて、僕の手を取って「どうか娘をよろしくお願いします」と頭を下げた。どうかと言われても、僕にはシャウナを守れるほどの力はない。たぶん、お父さんもそれはわかっている。だけど、無表情で何を考えているのかわからない東方人とか、巨大で獣人みたいな末裔に頼むくらいなら、西域の王子様に頼んだ方が、話が通じるだろうと思ったのだろう。
出発してから、シャウナは不機嫌だった。この旅の間、おそらく彼女もだいぶ怖い思いはしていたはずなのに、ただ一人のムードメーカーとしてよくしゃべってくれていた。だけど、この時はムスッとして黙りこくって、馬車の中はお葬式みたいだった。お葬式でも、もう少し誰かが話しているだろう。でも、彼女のお父さんの身になってみれば、目の前であんなものを見せつけられて、娘がそれを追いかけるといえば、普通は止めるよね。その気持ちをわかってあげなよと言っても、間違いなく火に油を注ぐことになるだけだとわかっていたから、僕も黙っていた。
ああ、こんな時にパインがいてくれたらなあ。連れてこなかったことを、この時ほど後悔したことはなかった。君もよく知っている通り、パインは場を和ませる天才なんだ。基本的におしゃべりだと言うこともあるけど、黙っている時でも、なんとなく周囲をほっこりさせる雰囲気がある。だからこそ、残してきたんだけど。
もし、ゴライアスが不意にやってきて、僕が山積みになっている仕事を放り出して南方に行ってしまったことを知っても、パインが相手をすれば「仕方がないな」で終わる可能性が高い。別に話術が巧みとか、そういう特別な能力があるわけではない。たぶん「王子に放っていかれたのじゃ!ワシも悔しいのじゃ!」とか言うだけだと思うのだけど、そう言っているパインを見ていると怒る気が失せるんだ。自由奔放で天真爛漫で、彼女を見ていると自分の抱えている悩みとかが、すごくちっぽけなことに思えてくる。そういう人なんだ。
パインに初めて会ったのは、7歳の時だった。宮廷に来て2年目だったかな。ゴライアスは僕に近習をつけてくれたけど、みんな10歳近く年上だった。ジョシュたちがやってくるのは、もう少しあとになってからだ。「同じくらいの年の友達がほしい」とわがままを言って探してきてもらったのが、パインだった。「女の子ですが、よろしいですか」と言われた記憶がある。
女の子でも男の子でもよかった。初めて同年代の子供が僕の生活に入ってくるのだから、楽しみで仕方がなかった。絶対に大切な友達にしようと心に決めていた。雨季にしては暑い日で、当時は宮廷内の屋敷に住んでいて、広間で到着するのを待っていた。ゴライアスの馬車が到着した音が聞こえたから、待ちきれずに廊下に飛び出したんだ。
ゴライアスに連れられて、僕と同じくらいの背丈の女の子が立っていた。まず目に飛び込んできたのは、オレンジ色の腰のあたりまで伸びたもしゃもしゃの髪だった。頭髪の両側、耳の上あたりが犬か猫の耳のように跳ね上がっている。すごい癖っ毛だった。
「おや、待ちきれなかったのですか?」
ゴライアスは少し笑うと、少女に向かって「この方がアルアラム王子だ。ごあいさつしなさい」と言った。粗末な、何度も洗濯してヨレヨレの緑色のワンピースの裾をつまむと膝を折り、ついさっき教えてもらったのあろう、ぎこちないお辞儀をした。
「パインでしゅ」
消え入りそうな小さな声だった。顔を上げると、キラキラと輝く大きな瞳が印象的だった。貧しい村の出身と聞いていたが、栄養状態がいいのか、ほっぺたが丸々として血色がいい。少し鼻がツンと上を向いているけど、それがむしろ愛らしさを増幅させていた。そう、かわいかったんだ。キュンとした。これは今でも覚えている。胸がキュンとしたんだ。思わず抱きしめたくなるような愛おしさがあった。どんな人なのか全く知らなかったけど、僕は思わず膝をつき、彼女の手を取った。
「よく来てくれた。僕がアルアラムだ。君の一番の友達になりたい。これからよろしく頼むね」
そう言って、手の甲にそっとキスをした。パインは「ひゃあ」と悲鳴なのかなんなのか、よくわからない声を発すると、僕の手を振り払って顔を覆った。真っ赤になっていた。その姿がまたなんとも言えずかわいかった。
ああ、そうそう。パインはそばにいる人をキュンキュンさせるんだ。世界で一番、彼女にときめいているのは悔しいけど、たぶん母上だ。僕は母上よりもパインのことが大好きで大事にしているといつも証明しようとしているけど、なかなか難しい。
パインは当時、宮廷でのマナーとかはもちろん知らなかったし、文字の読み書きもまだできなかったので、母上に預けられて1年間ほどトリスタンで暮らした。研修みたいなものだ。気になって何度も見に行ったけど、母上がパインにキュンキュンしているところを何度も見てしまった。
いや、妬いているんじゃない。パインなら仕方がない。むしろ、僕は母上と代わりたいと思った。くそっ、あんなにパインと仲良くして。母上だけど、許さないぞと思った。文字も剣術も、僕が教えてやる。だから、パインがずっと僕のそばにいたらいいのにと思った。宮廷に帰りたくなくてトリスタンに2泊も3泊もするもんだから、ゴライアスが僕を連れ戻しにきた。ものすごく後ろ髪引かれる思いでキサナドゥーに帰ったものさ。
そんなこんなで、パインが正式に僕の近習として働く日が来るのを指折り数えて待っていた。トリスタンから戻ってきた彼女は、それはもう見違えるほど優雅に…はなっていなかった。驚くほどたくましくなっていた。わずか1年で背が伸びて、僕より大きくなっていた。玄関で馬車が着くのを待っていたのだけど、降りてきたパインは見上げるほどだった。パインは僕の前に膝をつくと「ただいま、戻りましてごじゃりまする」と言って一礼した。
ん…どこで習ったんだ、そのおかしな言葉遣いは?まあいい。少々言葉遣いが変でも、僕のそばにいてくれることの方が大事だった。その後もどんどん大きくなって頼もしくなっていったけど、初めて会った時に感じたときめきは色褪せることはなかった。朝、最初に会う時。昼休みに会う時。午後の仕事が終わって食事に行く時。毎日、顔を見るのが楽しみでドキドキした。一緒にいると楽しくて、時間がたつのを忘れた。10歳くらいになるとものすごい怪力を発揮するようになって、剣術も槍術もメキメキと上達していった。
剣はトリスタンにいたときにテゾという衛兵長(随分と長いことトリスタンを担当していて、僕も小さい頃は剣の基本を教えてもらった。釣りや狩りに連れて行ってもらったりもしたな)から教わったのだが、基礎しか知らない割には、ものすごく筋が良かった。
槍はゴライアスに教わったみたいだ。ゴライアスが宮廷で相談役になる前に、ムスラファンの軍人だったことは以前に話したと思うけど、当時は「白槍の騎士」と呼ばれて恐れられていたんだ。槍の柄を白く塗っていて、夜でも目立つんだ。しかもゴライアスは白い槍を持って、芦毛の馬に乗る。まあ目立つ。その出立ちで夜襲をかけるんだ。当然、敵は一斉にゴライアス目がけて襲い掛かるんだけど、これが強くて蹴散らされる。敵が浮足だったところに、隠れていた部隊が襲い掛かるというわけさ。
そんな槍の名手が教えたんだから、うまくならないわけがない。まあ、うまくなる前から、パインは多少の技術不足はパワーでカバーしていた。訓練で衛兵たちをヒイヒイ言わせて天狗になって「西部の戦場に行ってみたいのう。ワシが行けば、すぐに戦争を終わらせることができると思うんじゃがのう」と口癖のように言っていた。もちろん行かせなかったけどね。
今、パインがいれば、この険悪な空気をなんとかしてくれていただろう。魔物も倒してくれていたかもしれない。オーキッドほど大きくはないが、力は同じくらい強いし、剣と槍が使えるので、少なくてもエントとはやりあえるはずだ。アフリートは…あっちは簡単には触ることができないので無理だな。
今頃、どうしているだろう。ゴライアスは僕が勝手に抜け出したことに気づいたかしら。エントが復活したことを知ったら、何かいい手を打ってくれるかもしれない。何しろゴライアスは物知りだ。ああ、ゴライアスは見ての通り末裔だよ。すごく長生きしているので、昔のことをよく知っている。さすがに神話の時代のことまではわからないかもしれないけど、魔族の世界に精通しているので、エントやアフリートの倒し方を知っているかもしれない。
そうだ。今更気がついたけど、相談すべきなのはゴライアスだ。一刻も早く手紙を書いて、どうすればいいか教えてもらおう。この日の夜の宿屋で、ゴライアスとパインに手紙を書いた。前者には勝手に仕事を放り出したことを詫びた上でここまでの経緯を詳細に記して、指示を仰いだ。
パインには何を書いたのかって?北国の夜空は星がめちゃくちゃ一杯見えて素晴らしいって書いたよ。あとはゴライアスの言うことをよく聞くようにって。だって僕が大変な目にあっているって書いたら、あの子はゴライアスが止めるのも聞かずに、王宮を飛び出してくるだろうから。それはマズい。パインは僕の盾であることを自認しているので、無茶をしそうだ。それは一番、避けないといけないことだった。