本当にオーキッドは速かった。山の中を馬のようにとは言わないが、人ではないスピードで走った。魔族の血を引く末裔たちは人間と身体能力が違うと聞いていたけど、こういう姿を目の当たりにすると、そうなんだなと思う。
森に入った当初、木の化け物が走った跡は、しばらくはっきりとわかった。草がなぎ倒されて、木の枝もあちこちへし折られていたから。だけど、しばらく行くと、次第にどこを走ったのかが分かりにくくなってきた。
トウマはこういうことには慣れているのか、馬を降りて斜面や小川の周辺を探索して「こっちだ」と行く方向を決めた。木の化け物は斜面や谷間を駆け抜けて移動していたみたいで、馬に乗って追うのは難しくなってきた。気がつくともう夕刻で、頭上高く伸びた木々の間から夕焼けが見えた。馬を止めて湧水で喉を潤していると、オーキッドが言った。
「あれは、エントだ」
名前は知っている。神話に出てくる4人の魔族のうちの一人だ。木の精霊で、魔族が人間を絶滅寸前に追い込んだ時代の、リーダー格だ。神話では動いて人語を話す樹木として描かれている。力が強く、根や枝を蔓のように使って攻撃してくる。確かに言われてみれば、神話に出てくるエントにそっくりだ。でも、本物かどうか、神話に出てくるエント本人なのかもわからない。だって、もう1000年も経っているし。もしかしたら子供か孫か、もっと世代を経た子孫かも知れない。
「たぶん、マリシャのお兄さんが掘り出してきたという遺物が、エントだったんだよ。エントは植物の魔物だから、ダンジョンに閉じ込められている間は日光が当たらなくて、活動できなかった。けど、外に出たことで日の光を浴びて復活したんだ」
シャウナの言う通りだろう。
「ならば、夜は止まるのか?」
トウマが聞いた。
「だろうね。日光が当たっている間は魔力を生産し続けられるけど、夜はそうはいかない。動けば動くほど魔力を消費する。朝までじっとしているんじゃないかな」
シャウナは博識だ。魔法や魔族のことに興味津々で、キサナドゥーでも末裔たちと仲良くしている。守護者の本来の職務を考えると、それはちょっとどうなのと思うくらい緩い。だけど、逆にあれこれ取り締まられたり禁じられたりすると、面倒でもある。そもそも職務に忠実ならば、まずパインを監視しないといけないしね。
逆に魔法や魔族の知識が豊富で、それを生かそうとしてくれるので、こちらとしては大いに助かっている。シャウナは西域向きの守護者だ。それはともかく、エントがそういう性質であるならば、今は追跡する絶好のチャンスではないか。僕が思ったことをトウマも言った。ただ、その夜は新月だった。少し前進したものの、日が落ちると真っ暗で何も見えなくなった。馬も怖がって進んでくれない。夜目が利くトウマのスピードも、さすがに落ちた。
「なあ、この辺で野営しないか。日が昇らないと何も見えない」
オーキッドがありがたいことを提案してくれた。実はさっきから休みたくて仕方がなかった。信じられない事件が起きて、そこから飲まず食わずで追跡している。乗馬は苦手ではないけど、山の道を走りっぱなしでは疲れる。お尻も痛いし、両足がパンパンだった。
「トウマ、少し休憩しよう。何か食べるもの、持ってる?」
シャウナも同意してくれた。それでもトウマは追跡することを諦めきれないようで、オーキッドがみんなが座れるように草を踏みならしてくれても、しばらく座ろうとしなかった。
食べ物は誰も持っていなかった。そりゃそうだ。着の身着のままで追いかけてきたのだ。これ以上、追跡をするなら、それなりの装備が必要だろう。ところで野営するとして、どうやって眠ればいい?野営はしたことがないわけではない。ただ、テントや毛布を持っていっていたし、衛兵たちが設営もしてくれた。
ところが、ここには何もない。僕は荷物も持たずに馬に飛び乗ってしまった。オーキッドとシャウナはちゃんとバックパックを持ってきていた。ただ、長旅の装備ではない。あくまでも南方に行くためのものだ。
オーキッドが小さなナイフを取り出して、周囲の枝や草を切ったりして、横になれるスペースを作ってくれた。ありがたいけど、草を踏みならした上で、服のまま寝ろと言うのか?そんな気持ちの悪いことはしたくない。
草の上は思った以上にゴツゴツしていて、そこで寝るなんて考えられなかった。地面はじめじめと湿気ていて、横になったら着ているものが汚れそうだ。それに、さっきから小さな虫が僕らの周りを飛び交っている。時々、肌にとまるのが気持ち悪くて仕方ない。お風呂にも入りたかったし、眠るのならばパジャマに着替えたかった。
「トウマ、夜が明けたら一度、戻ろう。追跡するにしても僕たちには装備が必要だ。それに、こんな大事件は僕たちの手に負えない。父上に報告して追跡隊を編成してもらうよ」
冷静で現実的な提案をしたつもりだった。そうだ。これは僕たちの手には負えない。追跡隊の件は僕がいる建前上、提案した方がいいと思って口にしたけど、本当は守護庁に全部お任せすべきだと考えていた。だって、守護庁はこういうことが起きた時のために守護者を育成して、大陸各地に派遣しているんだから。彼らこそ専門家で、僕たちは門外漢だ。
トウマは僕のそばに膝をつくと、顔を近づけてきた。感情を表に出すタイプではないのに、珍しく怒気を含んでいる。
「こうしている間にも、マリシャは殺されているかも知れない。救出は早ければ早いほど、生きている可能性は高い」
わかったかというように、人差し指を立てて僕の鼻面に突きつけた。彼は僕の衛兵(近習はジョシュみたいに常にそばにいて、付き合いも長い人のことを指す。トウマみたいに大学周辺にはいるけど、僕の身の回りの世話をしていない人はただの衛兵だ)なのに、全く僕に対して敬意がない。まあ、敬意を払われるほどのこともしていないので、仕方ないといえば仕方ないのだが、もう少し部下として慎みというか、そういうのがあってもいいと思う。
「だけど、闇雲に後を追うのはどうかと思うな。こちらは馬もあるし、先回りできないか? アイツ、どこに行くつもりだ?」
オーキッドの提案にはなるほどと思った。確かに行き先がわかれば、山中を苦労して歩かなくても、馬に乗って街道を突っ切ればいい。その方が速い。
「これは完全に勘だけど、昔の仲間を探すんじゃないかな。だって4人でパーティーを組んでいたんだ。お互いの弱点を補完しあっていた仲だったから」
「じゃあ、次はシャナのところか? それならば行き先は神武院だ」
シャウナの推論に、トウマが即答した。シャナ。文字にするとシャウナと似ているけど、発音が違う。シャウナは女神シャインに由来する名前なので「Shauna」だけど、シャナは「Xana」。シャナは水の精霊だ。世界奪還で人間に敗れた後は、神武院の奥にある泉に封印されている。世界の果てを目指して4人が旅をしていたとき、水源としての機能もあるシャナは、エントのよきエネルギー供給源でもあった。シャナがパーティーにいるおかげで、エントは乾燥地帯でも活動できた。だから、今回もエントはまずシャナとのコンビ復活を狙って、神武院に行くのではないかというわけだ。なるほど。
「いや、私は先にアフリートのところに行くと思う」
シャウナはトウマの意見と違った。
「確かにシャナはエントと相性がいい。だけど、エントは先に武器を手に入れたいと思う。あれがどうやって封印されたか、みんな知ってる?」
僕も一応、神話は読んだので知っている。エントはシャナと切り離された後、夜に人間に倒された。多くの兵士が命がけでエントに切り掛かり、枝を打ち根を払って核(コア)の部分だけにして動けなくした。エントは魔力切れを覚悟で反撃し、人間側は多数の死傷者を出したけど、手数で圧倒して木の精霊を倒した。同じ轍を踏まないために、エントは夜でも戦える精霊をそばに置くだろうというわけだ。
それに、もっとも人間にとって厄介な戦闘力を持っているのは、炎の精霊アフリートだ。鉄製の鎧でも溶かすほどの炎で、何でも瞬時に焼き尽くす。エントにとっては何より頼もしい武器といえる。
「なるほど、それは確かにそうだな」
オーキッドは納得してうなずいた。トウマはどうなのか。イースか、神武院か。僕はトウマを見た。暗闇の中でこちらを向いている様子はうかがえたが、その表情までは見てとることはできなかった。
マリシャを救出しなければいけないというのは、わかっていた。死なせるわけにもいかないと思っていた。だって、先にこう考えてしまうあたりが、また僕の嫌なところなんだけど、ムスラファンにとって大事なお客さまだからね。
建前では異国の優秀な学生を受け入れたということになっているけど、本音は久しぶりに誕生した人間の魔法使いを囲い込むという思惑があったから。イースは魔法を禁じているけど、大陸全部がイースの言うことを聞いているわけじゃない。イースはシャインを、ムスラファンはカインを最上級の神として崇めているので、そもそも魔法に対する考え方が違う。
ムスラファンでは人間に利益があれば、魔法は使っても構わないというのが国としてのスタンスだ。でも、イースや、大陸各地に1000年かけて構築された守護者というシステムと表立って衝突するつもりもない。大陸の秩序に敵対しかねないからね。だから、目立たないように魔法使いを囲い込み、育成して、ムスラファンのために使ってきた。
その最たるものが西部戦線だ。西部の奥地に行くと、まだ人間と敵対している魔族がいる。当然、魔法を使って攻撃してくるし、それを防ぐにも反撃するにも、魔法が必要だ。だから、西部戦線には多くの魔法使いが送り込まれてきた。彼らは他に能力を発揮する場所がないので、ひっそりとただの人間として生きていくことを選んだ者を除けば、大概は自らの意志で西部に向かった。
イースが魔法を禁じているせいで、時代とともに魔法使いは少なくなっていった。マリシャみたいに才能があっても魔法の使い方を教える人に出会えなくて、魔法使いになることなく生涯を終えた人もいた。だから才能があって、魔法使いとして訓練されている人はムスラファンにとっては貴重なんだ。
初めてマリシャに会ったのはキサナドゥーへの留学が決まって、僕がパパレイ村まで面接に行った時のことだった。あちらの方から「受け入れてもらえないか」という打診があって、魔法使いだと聞いて喜び勇んで行ったよ。
パパレイの家で初めて見た時の印象は「地味な子」だった。南方の女性がよく着ている黒いワンピース姿だったということもあったし、広間で日陰に隠れるように座っていたということもあった。14歳にしては小柄で、丸顔のせいもあって、もっと幼く見えた。ただ、黒目がちな瞳は意志が強そうだったし、眉毛も太くて、頑固な印象も受けた。その時は僕が一方的にしゃべってしまったので勝手に無口な子だなと思っていたけど、キサナドゥーに来てからはよく話すようになった。
見た目とは裏腹に辛辣で毒舌だった。14、15歳といえば、もっとかわいい印象があるじゃない? でも、マリシャには年相応のかわいげがなかった。思ったことをよくも悪くもズバズバ言うし、遠慮なく本質を突いてくるから自分より年上の人間としゃべっているみたいな感じがした。キツい子だなあとは思ったよ。だけど、キサナドゥーに来て本来の彼女らしさを出してくれているとすれば、それはそれでいいことだと思っていた。
親元を離れての寮生活にもすぐに馴染んだし、勉強も実に良くできた。特に天文学の知識が豊富で、魔法使いではなく、そっちの研究者として大学に残ってほしいくらいだった。
シャウナやパインとは仲が良くて、2人ともマリシャのことを妹のようにかわいがっていた。そうそう、マリシャはハグが好きだった。僕にはあまりしてくれなかったけど、パインとはよく抱き合ってふざけていた。そういうところは年相応のかわいげがあったよ。そんな感じで学長である僕にとって特別な学生だったし、王子である僕にとっても歯に衣着せぬ貴重な友人でもあった。
マリシャを失ってはならない理由で、前者を先に考えてしまうのは良くないよね。利害ばかり考えて心の交流とか人と人の絆とか、そういうことを後回しにしてしまうところは変えないといけないと思っている。でも、いざとなると、どうしても「どちらを取れば利益になるのか」を先に考えてしまう。これは僕の生い立ちに多少原因があるのかもしれない。
僕の母上は20数年前にイースとムスラファンの国境にあった、クラクフという小さな国の王女だった。ムスラファンではクラクフ戦争と呼ばれているけど、他の地域では「クラクフの惨劇」と言われている、あのクラクフさ。国土は小さかったけど、北国と西域の間にあって交易で栄えていた。王都ヴァルハラには両国の人だけではなく、東方や南方からも商人がやってきた。中央高地に住み着いている怪しい連中も交えて、手に入らないものがないと言われたほどだった。イースにもムスラファンにも属さず、中立を保っているというのも特徴だった。当然、そんな国だからムスラファンとしては支配下に置きたいわけだよ。何十年も前から交渉してきたけど、クラクフは強大な資金力と、背後にイースがあるという地理的な強みを背景に、絶対に傘下に入らなかった。
痺れを切らしたのが、僕のお祖父さまさ。父上を総指揮官に立てて、クラクフに侵攻した。クラクフは軍事力はあったけど、それはあくまでも周辺地域の治安を維持するためのもので、西の砂漠の奥地で魔族と絶えず戦争をしているムスラファンの兵力と比べれば、大人と子供くらいの差があった。イースの助けも来ず、あっと言う間に占領されてしまった。
父上はクラクフの王族に対して城を明け渡し、国外に退去するように求めた。だけど、僕の母上の父上、要するに母方のお祖父さまは拒否した。まあ、普通はここから妥協点を探して、交渉が始まるとしたものだ。ところが、僕の父方のお祖父さまはそうしなかった。城を強攻して攻め落とすと、王族とその家臣を処刑した。王都に火を放ち、国民は全員、追放さ。何を思ってそうしたのかはわからない。守護者の本拠地であるイースの目の前で無慈悲な戦いをしてみせて「われわれと戦うとこうなるぞ」ということを見せつけたかったのかもしれない。
その時に生き残った王族が僕の母上だ。名前はアレックスという。捕虜としてキサナドゥーに連行されたけど、お祖父さまが処遇を一任したので、父上はキサナドゥーから少し北に離れたところにあるトリスタンというお城に母上を幽閉した。お城といっても少し大きなお屋敷といった感じで城壁も低いし、堀もあってないような深さだ。小さい時、僕はよくその堀で水遊びをしたくらいだから。
その後、どんな経緯があって母上が僕を産むことになったのかは、よくわからない。母上はいつも「父上のことを恨んではいけませんよ」と言っていた。なぜ、自分の親を殺して祖国を滅ぼした人の子供を産むつもりになったのかは、今でもわからない。クラクフはもう後がなかったにもかかわらず、最後までイースが助けてくれるのではないかという可能性に賭けて、滅亡した。そう何度も聞かされて育ったので、僕はいつも「どうすれば一番いい結果になるか」ということを考えてきた。どうすれば有利かと考えがちなのは、そういうわけだと思っている。言い訳だけどね。