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第10話 それは木の精霊、エントだったんだ

 何時間経っただろう。少し圧迫が緩んで、息ができるようになった。同時に少し視界が開けた。星空が見えた。夜だ。いつの間にか夜になっている。体があちこち痛かった。左腕と左足には深く根が食い込んで、ジーンと痺れていた。とりあえずまだ生きている。


 ボクを連れ去った木は、動きを止めたようだ。今は動いていない。パパは、ママは、みんなは無事だっただろうか。喉がカラカラで、声が出せなかった。とにかく脱出するなり、助けを呼ぶなりしないといけない。頭は回っているのに、まだ強い魔力のプレッシャーがあって身動きできなかった。


 何もできないまま夜が明けた。すると再び根の圧迫が強くなって、木が動き始めた。木に魔力がみなぎってくるのを感じる。そうか。植物の魔物だから、日光を浴びると動き出すんだ。ここからでは見えないが、複数の足のようなものがあるのかズルズルと引きずるようにして前進しているのを感じる。ずっと空ばかり見えるので、魔物の背中に固定されているのだろう。もっと観察したいけど、根っこで体を縛り付けられているので少し首を回すことしかできない。というか、左半身の圧迫をもう少し緩くしてくれないと、血が通わなくなってしまいそうだ。実際、左腕と左足は感覚がなかった。


 それに、トイレに行けないのもつらかった。声をかけて魔物が止まってくれるかどうかわからなくて、このときはむしろ声を出したら事態が悪くなるのではないかという思いがあって、仕方がなくそこで垂れ流した。自分のおしっこが左足のけがに染みて、その匂いとともにたまらなく悲しい気持ちになった。これからどうなるんだろう。誰か助けに来てくれるんだろうか。もう死ぬんだろうか。不安で仕方なくて涙がこぼれた。


 夜になると、また化け物は止まった。日中に活動して、夜は休むようだ。大地から水を吸収しているのか、耳のそばにある根っこの中で何かが流れている音がした。夜は根の力も弱くなる。もしかしたら…と思って右腕を一生懸命動かしていると、根の間からスポッと抜けた。体を起こしてみる。火を焚いているのか、明かりが見えた。左半身を固定されたままだったが、試しに声をかけてみることにした。


 「…!」


 最初は声が出なかった。無理に声を出そうと振り絞ると、むせて咳き込んだ。それが聞こえたのか、魔物が動いた。根が緩んで、背中から地面に叩きつけられた。顔を上げると、魔物はこちらを向いていた。


 木だ。いや、木なんだけど、人間っぽい形をしている。頭らしき部分、胸らしき部分、そしてあの枝は腕に見える。這いずって体勢を変えると、焚き火の灯りで顔が見えた。夢に見た通りだった。その顔はお兄ちゃんだった。なんとなく、すでにカインではなくなっている予感があったけど、「お兄ちゃん」と呼びかけてみた。カインの顔をした木の化け物は、聞こえたのか聞こえなかったのか、目に見える部分をすうっと細くしただけだった。


 これは実は、よく知っているヤツなんだ。神話に出てくる4人の魔族のうちの一人、木の精霊エントだ。エントは世界奪還の戦いで人間に倒されて、封印された。それを、お兄ちゃんはどこかで掘り当てたのだ。何がどうなったのかわからないけど、エントは魔力を備えたお兄ちゃんの肉体を使って復活したんだ。


 神話に出てくる通りのエントならば、あまり交渉はできそうにない。エントは4人のパーティーのリーダー格で、もっとも好戦的な魔族だ。人間を食べなくても、地中から水分を補給して日光に当たれば活動できる。だって、木なんだもの。なのに、わざわざ魔力を吸い取るためにたくさん人間を殺した。夢で見て、そうじゃないかと思っていた。今、実際に目の前で見て確信した。どうしよう。自分はどうされるのだろう。魔法使いだから、魔力を吸い取るために捕まえたのだろうか?


 いろいろな絶望感が頭の中をぐるぐると駆け巡る。希望がありそうにない。死ぬんだろうか。こんなところで食われて死ぬために生まれてきたんじゃない。なのに生きることも死ぬことも、自分の力ではどうしようもない。あまりの無力さに、また涙があふれた。と、ふいに木が話し出した。


 「死んでもらっては困る。お前は、受肉する器になってもらう」


 かすれた、空気が漏れるような声だった。右腕に見える枝を左腕に見える枝でメリメリとへし折ると、それをボクの口に突っ込んできた。拒否する間もなかったし、そんな力も残っていなかった。土と木の匂い。太い木の枝が口いっぱいに押し込まれる。へし折られたところから水分が染み出してきた。こんなもの飲んでたまるかと頭では思っていても、2日近く何も飲まず食わずだった体は逆らえなかった。猛烈に濃い木の匂いがする水は、勝手に喉を滑り落ちて言った。


 木の魔物は、やはりエントだった。思った通り南方のどこかのダンジョンに封印されていて、勘のいいお兄ちゃんが掘り当ててしまった。最初は小さな、片手に乗るような木だったらしい。魔物としての肉体を取り上げられ、精神も封印されていたが、お兄ちゃんに掘り出されたことで目を覚ました。魔力をたくさん保持していたお兄ちゃんを乗っ取って、肉体を取り戻した。そして、ボクが久しぶりに実家に帰った日に、満を持して地上に出てきたと語った。


 「もう一度、世界の果てに行く旅に出る。そのために仲間を取り戻す。まずはアフリートだ」


 日中はボクを背負って移動しているが、夜になると魔力の消費を抑え、水分を補給するために止まる。その止まっている時に、エントは気が向いたことだけ説明してくれた。縛られたままでは死んでしまうと訴えると、束縛を緩めてくれた。


 アフリートというのは火の精霊だ。4人の魔族のうちの一人で、人間に倒されて、これも肉体を取り上げられてイースに封印されている。イースの学校の地下にアフリートが保管されているのは有名な話だ。学生たちは初年度にそれを見て、魔法や魔族の存在を改めて実感するんだ。シャウナも見たらしい。地下の石で作られた、人間の腕一本しか入らないような狭い穴の奥に、決して消えない炎がある。一度見たら忘れられない美しさだとシャウナは言っていたが、それは魔族オタクの彼女だからこその感想だろう。


 とにかく、エントは自分がお兄ちゃんを使って復活したように、ボクを受肉対象にしてアフリートを復活させるらしい。ボクも炎系の魔法使いだから、きっと相性はいいだろう。だけど、受肉されたらどうなる? エントはお兄ちゃんを完全に乗っ取ったというか、食べてしまったようで「カイン」「お兄ちゃん」と呼びかけても、お兄ちゃんの人格は出てこなかった。エントも「無駄だ」と言っていた。


 ということは、ボクもアフリートに受肉されたら、もうボクではなくなってしまうのではないだろうか? 伝説の魔物のそばにいて会話もできるということには、ものすごく興奮した。だけど、それは高い可能性で近々訪れる自分の死とすごく密接で、エントが眠ってしまって話す相手がいなくなると、絶望しかない時間が訪れた。今いろいろ知ったところで、それを誰かに伝えることもできないというのは、とても恐ろしく、悲しいことだった。泣いても意味がないと思っていても、ポロポロと涙がこぼれた。

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