そんな感じだったから、しばらく帰省する気はなかった。それこそ数年くらいは。だけど、1年半くらい経ったある日、突然、帰省しないといけない気がしてきたんだ。理由は後で知ることになるんだけど、地元に帰ってやらなきゃいけないことがある予感がした。
夢に現れたんだ。最初は何か悪い夢を見て、汗びっしょりになって目が覚めるだけだった。だけど、週に1回が数回に増え、何日も連続になって、次第に内容をはっきり覚えたまま目覚めるようになった。巨大な木がボクの家を叩き潰して、家族やたくさんの人を殺す夢だった。真っ先に死ぬのは、お兄ちゃんだった。小さい頃、同じように嵐が来て家が倒れる夢を見た後、本当に嵐が来て村が被害を受けたことがあった。間違いない。ボクの家族に悪いことが起ころうとしている。珍しく手紙を書いた。何か普段と違うことが起きていないか?
1週間ほど経って返事が届いた。お兄ちゃんの体調が良くない、と。帰った方がいいはずだった。ただ、今の自分に何ができるか、わからなかった。こういう予知能力みたいなものはあっても、回避する力はなかった。魔法は多少使えるようになっていたけど、通用しないアクシデントだったらどうすればいいのか。それでも夢の通りなら、家族に何らかの危害が及ぶ。迷っている間にも、夢はどんどん鮮明になった。迷惑に思われるかもしれないが、帰ろう。決意した夜、シャウナに相談した。
「じゃあ、私も一緒に行くよ」
心強かった。翌日、帰省の許可を求めてアルアラムに会うと「では、僕も行こう」と言い出した。ゴリーさんには言わずに出発するという。いや、すぐバレるだろう。護衛にはトウマを連れて行くらしい。留守番を命じられたパインは「なぜ連れて行ってくれないのじゃ!」と怒っていたけど、ゴリーさんが来た時、パインの方がトウマよりも相手ができそうだからという理由だった。早速翌日、出発することになった。その夜の夢は、ひと際鮮明だった。最後は、ボクも木の化け物に捕まった。枝や根っこを手足のように使う化け物に締め上げられて、窒息して死ぬと思ったところで目が覚めた。
翌朝は起きた時から体調が良くなかった。寒気がして、熱が出そうな雰囲気があった。馬車に乗ってしばらくすると雰囲気ではなく、熱が上がった実感があった。朦朧として起きていられず、荷台で横になった。
「大丈夫?」
シャウナがそばに来て頭をなでてくれた。
「熱いよ、熱がある」
頭ではなく、額に手を置く。「待ってて」と言ってどこかへ行くと、薬を持って戻ってきた。シャウナの調合した薬はよく効く。これまでもらった薬が効かなかったことはなかったし、この時も効いたことは効いた。頭痛が治まって、寒気も少し引いた。けど、そろそろ起き上がってみようかと思った頃にまたぶり返して、起き上がれなくなった。シャウナがずっと隣にいてくれて、また薬をくれた。この時も少し効いたものの、また頭痛と悪寒が襲ってきて、身動きできなくなった。
その日、宿泊した街はキサナドゥーに来た時にも立ち寄った街なのかどうか、わからなかった。体調が悪くて、そんなこともわからないくらい朦朧としていた。宿舎のベットで横になっていると「薬が効かない。ちゃんとした医者に見せた方がいいかも」と言うシャウナの声が聞こえた。
「君もちゃんとした医者じゃないの?」
アルアラムの声だ。
「勉強はしたし、一応の知識はあるけど、その私が見て原因がわからない。風邪で熱が出ているのなら、飲ませた薬が効いて、ここまでひどくはなっていないはずなんだ」
これはシャウナの声だ。そうなんだ。ボクは小さい頃からあまり病気になったことがなくて、こういう状態がどれくらいひどいのか自分ではわからない。ただ、今まで経験したことがないだるさであることは明らかだ。終始、朦朧として、意識を失うと必ず村の風景が頭の中に出てきた。家の前にお兄ちゃんが立っている。ヤバいことが起きそうなんだ。早くそこから逃げてと言いたいのに、口が開かない。そこで目が覚める。
「起きられる? 病院に行こう」
シャウナが枕元にやってきて言った。起きられない。無理だ。
「かわいそうに。こんなにつらそう」
抱き起こして、ハグしてくれた。ハグはムスラファンに来て知った習慣だ。南方には、こうしてことあるごとに抱き合う習慣はない。暑い地域なので、体を接するとむしろ気持ち悪いということもあるのだろう。だが、西域人と北国人はハグが好きだ。シャウナに抱きしめられると、香水をつけているわけでもないのに、ふわりと花のいい匂いがする。しなやかで柔らかな体に包まれると、安心する。
だけど、ここだけの話だけど、ハグはパインの方が気持ちいい。何しろパインは髪の毛が多くてモフモフだ。おっぱいが大きいので、乳房に顔が埋まって苦しいのが難点だけど、それが柔らかくてとても気持ちいいんだ。干し草みたいないい香りがして、最高だ。そこで想像する。パインがこんなに大きくなければ一日中、抱きしめているだろう。パインが子供のとき、たぶん彼女のママは朝から晩までパインを抱っこしていたはずだ。それくらい気持ちいい。病みつきになる。ちなみにアルアラムも北国人のお母さんに育てられたせいでハグが好きだ。トウマはしない。東方にはハグの習慣がない。ハグしたい感情になったと思われるときは頭を撫でたり、肩を優しく叩いたりしてくれる。
話が横道にそれたけど、結局、トウマに抱っこしてもらって病院へ行った。キサナドゥーに比べれば小さな街で、質素な病院が一軒しかなかった。待合室にいると、不思議な、心地のよい歌声が聞こえてくる。
「珍しいね。これ、たぶん高速呪文だよ」
シャウナも聞き耳を立てていた。高速呪文というのは神話の時代に使われていた魔法で、長い詠唱を必要とするときに人間以外の言語で短縮して唱えるものだ。ドラゴンの言葉だったり、妖精の言葉だったり、アンデッドの言葉だったりするらしい。らしいというのは本で読んだことがあるだけで、実際に聞いたのはこの時が初めてだったからだ。病室に入ると、部屋を埋め尽くすような巨大な背中があった。大きな男だ。上下ともに深緑色の服で、前で合わせている上着は東方風だった。七分袖からのぞく二の腕は太く、白髪混じりの黒い剛毛に覆われていた。
振り向くと、まずあごを覆った固そうな髭が目に入った。緑っぽい色のターバンの下に太い眉毛と大きな目があった。鼻も口もあごも大きく、オークのような強面だ。しかし「どうしました?」と聞いてきた太い声は、優しかった。この病院の本来の医師は今、往診に出ていて、代わりの医師として留守番をしていると言った。シャウナが今朝から体調が悪いこと、原因がよくわからないことを説明している。いや、そんなことより、このお医者さん、すごい魔力だ。意識がぼんやりしていても、しっかり感じる。「どれどれ」と大きな手でボクに触れた。シャウナはわかっているだろうか? このお医者さん、見た目からでもわかるが末裔だ。それもだいぶ魔族の血が濃い。
ボクの目を見たり、口を開けて喉の奥を見たりと一応、医者っぽいことをして後、彼は「あなた、守護者だから、これが普通の病気じゃないってわかるでしょう?」と言った。そうだ。だからこそ、シャウナはわざわざボクを病院に連れきたのだ。
「どこか別のところから強い魔力の影響を受けて、体調悪化を引き起こしているようです。投薬をしたり、何か治療をすることで良くなるとは思えない。この子に影響を与えている『何か』を取り除かないことには」
直感的にわかったね。ボクの実家を襲おうとしている災厄が、たぶんその何かだ。
「少しでも影響が薄まるように、処置しておきましょう」
そう言うとボクの顔を両手で包んで、待合室で聞いた不思議な音を口から出し始めた。
「あの…それってもしかして、高速呪文ですか?」
シャウナはここでも好奇心を抑えきれない。
「そうだよ。よく知っていますね」
ボクを抱きかかえているシャウナの胸が高鳴るのを感じた。
「本で読んで存在は知っていたけど、初めて聞きました。もう失伝した魔術だと思っていたけど。どこで習ったんですか?」
こんな状況でもグイグイいくなぁ。
「俺の先生が、高速呪文の使い手だったんですよ」
不思議な声を聞いているうちに、苦痛が薄れていくような気がした。そのまま意識を失った。この時は処置が効いたのか、何度も見る忌々しい夢を見なかった。久しぶりに何にも煩わされることなく、泥のように眠った。
翌朝、シャウナに起こされて、やっと目が覚めた。すごくよく眠った感じがした。まだ頭の芯にジーンとする痛みが残ってはいるものの、前日に比べればずっとマシだ。ベッドの上で抱き起こしてもらって水を飲む。美味しい。ここしばらく、何かを食べてもきちんと消化している感じがしなかったが、この水はすぐに体に染み込むように思えた。
馬車に乗ると、昨夜の医師が一緒に乗り込んできた。大きいので荷台がいっぱいになる。明るいところでよく見るとアゴが張って、やはり恐ろしい顔だ。ターバンを巻いているところを見ると西域人なのだろうか? だが、南方人っぽい感じもするし、肌の色などは東方人っぽい感じもした。なぜこの人がいるのだろう?といぶかしんでいると、シャウナが言った。
「このお医者さん、一緒に行ってくれるって。あちこち旅をしながら治療をしているらしくて、この街にもたまたま立ち寄っただけだから、同行しても問題ないんだってさ」
「オーキッドだ。よろしくな」
大きな手を差し出してきた。オーキッドと言うことは略称オークだ。と考えながら、手を握り返した。ボクの小さな手は、オーキッドの手の平の中にすっぽり隠れてしまった。
オーキッドはかなり強力な魔力を持っているけど、出し方は例の高速呪文しか知らないようだった。若い頃は盗賊で、本人曰く、悪行の限り(どんだけ悪いことだよ)を尽くしたと言っていた。
「悪いことをすれば、必ず罰が当たるもんだ。俺にも罰が当たって、それをきっかけに足を洗った。その後、先生に弟子入りして、医者になったんだ。たくさん人を殺したから、その分、助けないといけないと思ってな」
お嬢ちゃんのことも、中途半端に放り出すわけにはいかないからと言ってニヤリと笑った。口を開けると、大きな牙が見えた。
オーキッドの処置が効いて、この日からは頭痛が出たり、寝汗をかいたりはしたものの、旅の初日ほど体調が悪くなることはなかった。オーキッドは一日に何度かボクの頭を両手で包んで、高速呪文を唱えた。聖霊の声らしいが、先生から教わった時には、まだ知的好奇心がなく、突っこんで仕組みを教えてもらうことがなかったのだそうだ。詳しく教えてもらう前に先生が亡くなって、オーキッドは流浪の医師になった。だから、残念ながら自分の使っている術の仕組みがわからない。一度、唱えているのを耳コピして真似してみようと思ったけど、口笛を吹くように出している音が、出せなかった。
「こうやって、口笛を吹くようにして出すんだ」
説明してくれたけど、できなかった。オーキッドが言っていた「影響」は、南方に近づくにつれて強くなっているのを感じた。処置してもらっていても意識が途切れて、例の夢を見た。無理矢理、頭の中にイメージをねじ込まれている感じで、気持ちが悪かった。