翌日、授業が終わった後にシャウナに連れて行かれたのは、兵士の訓練所だった。広い石造りの建物の床は、板張りだった。あちらこちらでグループに分かれて、屈強な男たちが剣や槍や格闘技の訓練をしていた。なかなか男臭くて汗臭いところだな。ほとんどみんな上半身、裸だ。飛び散る汗といえば何となく爽快な印象を受けるかもしれないけど、大きな窓がある割には熱気でムシッと暑いし、何だか場違いなところに来てしまった気分がした。
シャウナは目的の人物がどこにいるかわかっているのか、大男たちをかき分けてスタスタ歩いていく。剣士だろうか。まあ、普通はそうだろうと思っていたら、剣士のスペースを通り越して、格闘技をしているグループに近づいていく。ちょうど組手、つまり実戦形式の練習をしているところだった。
一人の男が、木刀や木製の槍を持った複数の男たちと戦っていた。見た感じ30歳くらいだろうか。珍しい。東方人だ。うん、東方人は珍しい。短く刈った黒い直毛、白くもなく褐色でもない肌。小柄だが、引き締まった体躯。上半身は半袖、下も膝までの黒く染めた道着を着て、二の腕と脛にはおそらく最初は白かったであろう布を巻いていた。短くて太い脚は東方の山中を歩き回るのに適している。東方由来の格闘術だろうか。軽く腰を落として滑るように移動しながら剣を避け、槍をさばいて次々に組み伏せた。相手はみんな西域人で、この東方人よりもだいぶ大きい。体格差をものともしない動きは、魔法のようだった。
「トウマ!」
練習が一段落したところを見計らってシャウナが声をかけた。東方人は振り返ると、手拭いで汗を拭きながら近寄ってきた。よく日に焼けているが、西域人の肌の色と明らかに違う。太い眉と鼻、黒目がちの顔立ちは、南方人っぽくて親近感が湧いた。
「この子が例の魔法使い。マリシャだよ」
トウマと呼ばれた男は、無表情なままうなずいた。感情表現が豊かなシャウナと違い、何を考えているのか分かりづらいというのが第一印象だった。
「ええっと…マリシャです」
とりあえず、頭を下げた。
「トウマだ」
返事は短かった。すぐにシャウナに向き直って「いつ出発する?」と聞いた。
「すぐには無理だろうね。マリシャはすごい魔法使いだけど、まだ素質があるというだけで、自在に使いこなすところまでは到達していないんだ。準備期間が必要だ。それに、あんたはまだ蓄えも必要でしょ」
シャウナの言葉に、トウマは目を伏せた。
「お金がないんだ。私も含めてね。西域の奥の奥まで行くとなると、それなりの装備が必要だし、道中の宿代なんかも必要になってくるから」
なるほど。確かに宿に泊まればお金が必要だし、食事をするにも、お金が必要だ。
「トウマは日没都市に行きたいんだ。理由はよく知らないけど。それでアルアラムの衛兵をしながら、お金を貯めているんだ。腕前は今、見てもらった通りだよ。剣士ではないけど、下手な剣士よりも強いよ」
全部、シャウナがしゃべっている。トウマは肯定も否定もせずに聞いている。いや、こっちを見ていた。ボクのことを、すごく見ていた。なんだろう?
「よし、わかった」
やっと口を開いた。
「この子が、旅に耐えうる魔法使いになるまで待ってもいい。その間に、しっかり準備をする」
そう言い残して、また訓練に戻っていった。
トウマはアルアラムの衛兵で、よく大学の周辺にいた。濃紺のジャケットに同じ色のフォーマルなパンツという、暑い西域でなぜそんな服装なのかというのが、大学職員の制服だ。アルアラムの趣味らしい。ちなみに男女ともに同じスタイルなんだ。それに身を包んでアルアラムの外出に同行したり、門番をしたりしていた。訓練所では他の人が大きかったので小柄だと感じたが、大学にいると東方人にしては背が高い方だとわかった。分厚い腰は、いかにも東方の山を歩き回ったことで鍛えられたように感じられた。
東方は神話によれば、昔は草木の生えない岩山が延々と続いている土地だった。平地が少ないから、住むのにはあまり適していない。作物も取れないからね。ただ、だからこそ魔族全盛の時代には、人間がたくさん隠れ住んでいた。
今は岩山どころか、どこもかしこも木々が鬱蒼と生い茂っている。そして湿気がすごい。あれだけ空気中に水分があれば、ボクも水の魔法が使えるかもしれない。それくらい蒸すから、植物がどんどん成長するんだ。今では東方は「広がり続ける森」と呼ばれていて、特に南方は東方の森に侵食されている。切っても切っても木や草が生えてくるし、森に飲み込まれると湿気がすごくて木造の家は崩れてしまう。
だから1年に1回、村人総出で伐採をするんだ。周辺部でもそんな感じだから、東方は内部に行くほど住みにくい。もともと家を建てたり作物を育てる平地が少ないし、湿気の問題もある。それに人間が世界を奪還した後は、逆に東の山間部は魔族が隠れ住む地域になってしまったからね。
東方に住んでいた人間たちの多くは他の地域に移り住んで、北国人や西域人、南方人と混血になった。だから、トウマみたいに「見るからに東方人」というのは珍しいんだ。あれだけ強いからちゃんとした仕事に就けているけど、そうでなければ奴隷商人に捕まって、高額で売り飛ばされていたかもしれない。東方人っていうのは、そういう存在なんだよ。
トウマはボクに興味があるのか、よく話しかけてくれた。最初は「おはよう」とか「お疲れ」とか、簡単なあいさつだったけど、しばらくすると「疲れてないか」とか「よく眠れたか」とか気遣ってくれるようになった。無表情なので今、どんな感情で話しかけてきてくれているのかがよくわからないのが難点だった。それでも、少なくとも好意的なのはわかった。だって、「明日はお祭りがある」とか「あそこの角で美味しいお菓子を売っている」とか女子が喜びそうなことを教えてくれるんだもの。
実際にお祭りに連れて行ってもらったり、スイーツを買ってもらったりしたこともある。大体、シャウナが一緒だったけれどね。そうやって一緒にあちこち行っているうちに、表情に出ないだけで、実はちゃんと喜んだり、悲しんだりしていることがわかるようになってきた。何より異国人だらけのキサナドゥーで、ボクと外見が似た人種と一緒にいることには安心感があった。
なぜ日没都市に行きたいのかを尋ねてみたことがある。すると「会いたい人がいる。話せば長くなる」と言って、それ以上は説明してくれなかった。シャウナによれば夜になると時々、討伐隊が立ち寄る酒場に行って、情報収集をしていたそうだ。世界の果てと一緒で、噂の範囲を出ない場所に本気で行こうとしていた。会いたい人って誰だろう? ボクによくしてくれるのは、なぜだろう? あまり多くを語ってくれないので、トウマについては「?」だらけだった。
それ以上に問題というか、ボクがトウマに興味を引かれたのは、彼が魔力とは違う何かを持っていたからだった。持っていたと言うのが正しいかどうかはわからない。自分の意志で身につけたのか、そうでないのかがわからなかった。とにかく時々見えるんだ。トウマの体から、魔法レベルでないと感知できない黒い煙みたいなものが立ち上るところが。ただ、本人に聞いても自覚がないようだったし「神武官だったから」というだけで話そうとしなかったので、それが何なのか、あの時は分からなかった。ああ、神武官については、話すと長いので、また後で説明するよ。
キサナドゥーでは定期的に討伐隊の兵士を雇うための試験をしている。シャウナがトウマに初めて会ったのは、その試験会場だった。剣も槍も持たないのにやたらと強い東方人がいて、気になって触ってみると魔力ではないのに魔力っぽい何かを感じて「ヤバい」と思ったのだそうだ。シャウナはそれを「闇」と言っていた。放置しておくわけにはいかないとアルアラムに言って、自分の目の届くところに置くようにしてもらったのだそうだ。シャウナに「あれ、見た? 何だと思う? 魔力?」と聞かれたけど、当時はわからなかった。トウマに関するいろいろな疑問が解けるのは、随分と後になってからだ。
トウマが腕利きとはいえ、やはり剣士はいた方がいい。同じことをシャウナも考えていたようで、もう一人、目をつけている人物がいた。それが、パインだ。ああ、わかってるって。そりゃよく知ってるよね。初めて見たのは、大学に来て2日目のことだった。見たというか嫌でも目に入る。最初は季節外れの紅葉した木を、誰かが植樹するために移動させているのかと思った。よく見ると、それはオレンジ色の髪の毛だった。癖の強い巻き毛で、歩くたびにモッサモッサと揺れ動いている。耳の少し上の辺りが、犬か猫の耳のように激しく跳ね上がっていた。
ヘアスタイルも存在感抜群だったが、体格もすごい。ものすごくデカい。大女という言葉がふさわしい。ゴリーさんほどではないが、パインも見上げるほどの背の高さだった。そして、この人、いや、パインの場合は「この子」という表現の方が似合うんだけど、この子は明らかに末裔だった。
「ワシに何か用か?」
初めて言葉を交わしたのは、それから1週間後くらいだったかな。あまりに大きいのでよく目立つ。授業の移動の合間、廊下の向こうからやってきたパインを見上げていると不意にあちらから声をかけてきた。
「ああ、ジロジロ見ちゃってごめんね。とても大きいなと思って」
真正面から見ると、圧倒的なデカさから受ける迫力とは相反して、可愛らしい顔立ちだ。クルクルとよく動く大きな瞳に長いまつ毛。ふっくらとした頬から、たっぷりと厚い唇に続くカーブはよく見るとなかなかセクシーだ。もう少し鼻筋が通っていれば美人と言っていいだろう。フルートの音色を思わせる柔らかでよく通る声も、大きな体とは不釣あいだった。でも、こんなに大きいのに、なぜかとても愛らしい。ボクより年上だけど、この子と呼びたくなるのは、そのせいだ。失礼なことを言ってしまったかな…と思っていると、パインはアハッと笑って「そりゃあ、そうじゃろう。なんしろパインは、王子の盾じゃからな」と言って胸を張った。
胸を張ると、バストが大きいせいでシャツのボタンが千切れて弾けそうだった。いつも後ろ姿を見ていて気づかなかったけど、よく見るとウエストがくびれてヒップは大きく張って、すごくグラマーだ。思わず自分の貧弱な胸を見た。大人になれば、あんなふうになれるんだろうか? 南方の女性は、みんな歳とともに太っていく。子供を産むたびに太くなると言われている。それが当たり前なので、誰も太いことを咎めはしないのだが、パインを見ていると、自分も一度はこんないい体になりたいと思わざるをえなかった。
パインは自分のことを「王子の盾」と言っていたが、その言葉通り、アルアラムの近習だった。少女時代に宮廷入りして、魔族譲りの強い体を生かして護衛として勤務していた。普段は白い長袖のシャツにカーキ色のロングパンツという出立ちだが、正式な仕事に同行するときには、青く染めた軽量の皮鎧をつけて帯刀している。この刀、いや、剣だな。が、また大きいこと。刃渡りだけでボクの肩から足先くらいまでありそうだ。この大剣は本来は両手持ちなのだけど、パインは片手で振り回す。さらにもう一方の手には槍を持って振り回すんだから、訓練の時に相手をする人はたまったもんじゃない。
時々、中庭で訓練をしているところを見かけたけど、3人程度では相手にならないんだ。その戦闘力にシャウナは目をつけていた。「すごいだろう。前衛に最適だ」とよく言っていた。ただ、問題はパインに冒険に出る気がないことだった。出会ってすぐ、シャウナはパインをスカウトしたらしい。だが、即座に断られた。
「ワシは王子の盾じゃ。王子のそばを離れるわけにはいかん」
パインの忠誠心は相当に強く、心が動く様子はなかった。確かにパインがパーティーにいればトウマは要らない。でも、冒険したくない人を連れていくのは難しい。他を当たればどうかと思うのだけど、シャウナは諦めきれないようだった。パインは戦力という以外にも実に魅力的で、天真爛漫でおしゃべりで一緒にいるととても楽しかった。連れて行きたいという気持ちは、わからなくもなかった。