『優しいパパとママに泣きついて、引っ越しまでさせたのに、エリちゅわんがしたのは、結局いじめでしたー……はぁ、キッショ! 俺がこの両親の立場だったら、自殺しているわー。だってさぁ、転校までしてやった事がいじめって……控えめにいって、くずじゃね?』
「うるさい! お前に何が分かる! いじめられた事ないくせに、勝手な事ばかり言うな!」
ついに耐え切れなくなり、絵里は自分のパソコンの電源を切った。
途端に静かになる部屋。
最初から聞かなければ良かったが、気になるものは気になる。
それも結局途中で放棄してしまったが。
「はぁ……」
絵里は力が抜け、その場に座り込んだ。
――何で私ばかり……
体育座りのように、膝を抱えながら、絵里が目を閉じると――忌まわしい少女の姿が瞼の裏に蘇った。
姫崎四季――
夏原ユリや
絵里が直接言われたわけじゃないが、いじめを止めようとした四季が男子生徒に向かってこんな事を言っていた。
『どうして、こんな酷い事が出来るの』
『そこまでされる程の事、この子がしたっていうの?』
『悪口以外、話題がない方が、可哀想だよ』
その時、絵里の中には四季に対する複数の感情が巡った。
怒りと嫉妬と、羨望。
いじめっ子を救うヒーローのような態度が鬱陶しいと思った。
しかし同時に、ひどく妬ましくも、羨ましくも思った。
――だったら、何で……私の事は救ってくれなかったの。
――いじめっ子救うヒーローなら、私の事もちゃんと助けてよ。
――あの時、私の前には誰も現れなかったのに……そんなの……
「不平等、でしょ」
*
いつの間にか眠ってしまっていた絵里が気付いた時には翌朝だった。
時刻は朝の9時であり、カーテンの隙間から日差しが入り込んでいた。
――思ったより、寝ちゃったな。
「鮮血ずきんちゃん事件」があってから学校には行きづらく、絵里はずっと不登校のままだ。
特に今は匿名探偵によって過去を暴かれ、不特定多数に個人情報をばら撒かれてしまっている。
同じ立場だった
彼女の自殺未遂が報じられてからは、若葉に対するネットの誹謗中傷は一時的には止まったが、すぐに「自業自得」「逃げるな」「悪いのは自分じゃん」といった心ない言葉が投げかけられるようになった。
結局、誹謗中傷は止まらなかった。
そして今、その矛先は若葉から、自分に向けられようとしている。
匿名探偵が自分の事を報じてからは、絵里はなるべくネットは見ないようにして、部屋に引きこもるようになった。
もし見てしまったら、今度こそ自殺してしまうかも知れないから。
「え、絵里ちゃん」
その時、絵里の部屋が控えめにノックされた。
「お母さん……」
絵里はおそるおそる立ち上がり、扉を開こうと手を伸ばす。
しかしその直前で、凍り付くように身体が硬直した。
「あの話、本当なの?」
「え……」
ドア越しでも伝わる、震えた母の声。
「えっと、ここ最近ね……色んな人……近所の人とか、職場の人とか……あと、知らない人から電話やメールが来て……それで、みんな、同じ事を言っているの。絵里ちゃんが、中学でいじめをしていて……その子が、自殺したって……」
違う。
夏原ユリの自殺は、自分達のいじめが原因ではない。
あれは姫崎四季の復讐のために、彼女達が起こした連鎖自殺だ。報道でも、その事にはちゃんと触れている。
――でも、いじめていたのは、本当の事だ。
「う、嘘よね? だって絵里ちゃん、小学校の頃にいじめられていたし……人をいじめたり、そんな事、出来る子じゃないものね。ねえ、そうだよね? 絵里ちゃん……」
震えた声で、母は続ける。
今ではネットで情報は簡単に集まる。母も、絵里のした事を見たのだろう。
自分が今度こそいじめられないために、夏原ユリを生贄にした事。
そのために夏原ユリがいじめられるように、ずっと仕向けてきた事。
「……っうぅ……」
絵里はその場で泣き崩れた。
「なん、で……こんな事……どうしてっ……」
絵里はドアの前で泣きじゃくる。
「何で、ここまでするの……何で、あんた達みたいな無関係の人間に、そこまでされないといけないの……お母さんは、関係ないじゃん……お母さんにだけは……」
ドア越しに泣きじゃくる絵里の声から察したのか、母が諦めたように息を吐いた。
「絵里ちゃん、どうして……何で、いじめなんて……あなた、いじめられていたなら、分かるでしょ」
母の声に徐々に怒気が含まれ始める。
「ねえ、答えて! お母さんとお父さんが、あなたのために、どれだけ苦労したか、分かっているの!? あなたのために、引っ越しまでして……そのせいで、どれだけ迷惑かけているんのか……! それなのに、いじめ? 何で普通に出来ないの! 何でいじめなんて、最低な事……」
「ち、違う、お母さん、私っ……」
母にだけは失望されたくなかった。
絵里はドアに縋りつきながら、母に訴える。
「私、お母さんとお父さんに感謝している。私のためにしてくれたこと、ちゃんとわかっているよ。だから、お願い……見捨てないで……嫌いにならないで、お母さん……」
「……っ」
ドアの向こう側で、母が息を呑んだのが分かった。
絵里はわずかな期待を胸に、ドアノブに手をかけた。しかし――
「……そうやって、他の子にも取り入ったのね」
「え……」
「もう、あなたのやり口は、知っているわよ。たいした演技力ね。そうやって、他の子にも取り入ったんでしょ……本当に、浅ましい子……誰に似たのかしら。お父さんもお母さんも普通なのに、どうしてあなたは……」
「おかあ、さん……?」
「……もう、いいわ。しばらく外には出ないでちょうだい。お願いだから、これ以上、困らせないで……
母は失望しきった声で、続ける。
「ええ、でも、たしかに私のせいね。育て方、間違えたみたい……はぁ……本当に……若葉ちゃんの容態もどうなるか分からないのに……」
「待って、お母さん……私の話を……」
「もう何も言わないで。あなたと話していると、イライラするから。それから、外にも出ないで……これ以上、お父さんとお母さんを困らせないで」
そう吐き捨てるように言った後、母の気配が遠ざかっていった。
「あ、あぁぁ……」
ドアの前でずるずると力なく足を折り、絵里は声にならない悲鳴を上げた。
「やだ、お母さん……いかないで、お母さん……」
――『大丈夫。今度は女子高だから。男の子達にボールをぶつけられたり、突き飛ばされる事はないわ』
そう言って、転校をすすめてくれた優しい母はもういない。
絵里はその事を自覚した途端、自分の中の何かが壊れた気配を感じた。
「ふっははっ……あははっ! そっか、そうなんだ……もういないんだ……もう私には……」
笑い、泣いて、笑い、泣いて、叫んで。
壊れたように、絵里は声を上げ続けた。
*
そして時間は流れて昼頃。
ピンポーン。
静寂な家で、チャイムの音が鳴り響いた。
――誰だろう? こんな時に……
脳裏によぎった母親の「出るな」という冷たい声を無視し、絵里は自室を飛び出し、玄関に向かった。
そしておそるおそるドアスコープを覗き込む。
――あれは……
「やっぱり留守か?」
「学校には行っていないそうだから、娘の方はいる筈だぞ。裏は取ってある」
「赤西がそう言うんなら、そうか……」
気だるそうな長身の青年と、スーツをきちんと着こなした凛々しい女性。
絵里はその二人に見覚えがあった。
ひとりは秋山菊乃に絡んだ時に。もうひとりはメディアなどで見た。
――そうだ、たしか……『自白班』の白石って人と、刑事課のお姉さん……
「けい、さつ……?」