*
時同時刻。
男は鼻歌交じりに新聞を広げていた。
場所は、とあるカフェ。一人用のテーブルの上には飲みかけの珈琲と、ノートパソコン。
「~♪」
男が期限よく珈琲に手を伸ばすと、胸元の携帯電話が鳴った。
「はいはい、私だよ」
『あー、すみません。お待たせしまして。車の修理が済みましたので、ご連絡致しました』
「はいはい、いつもありがとうね」
『ですが、本当に修理で良かったんですか? 大分へこんでいましたし、買い換えた方が』
「いいの、いいの。あれは妻のお気に入りの車でね……出来たら、壊れてでも使いたいんだ」
『そういえば、そうでしたね』
「はっはは……いや、すまないね」
『今回、失敗したわりに機嫌良さそうですね』
「おや、これでもへこんでいるよ? あの子には可哀そうな事をしたよ。まさか、あそこで彼女達の最高の舞台を邪魔する不届き者が出てくるとは思わなかったからね。今度は、もっと美しい終わり方を演出しよう。あまり美しくないが、やはり完成させないと意味ないからな……今度は毒もプレゼントする事にしよう」
『今度って、次はどんな無茶をさせるつもりですか』
「私が無茶を言うのは君だけだから、安心していいよ」
『いや、全然安心出来ないんですけど……まあ、ついていきますけど』
「それはそうと、運転手君。人が、罪を犯すのは、いつだと思う?」
『え、何ですか、藪から棒に』
「罪を犯す瞬間というのは、誰にでもある。しかし、人はそれを寸前の所で、踏み止まる。それは、何故だと思う?」
『えー、ムカついて殺したら、自分が悪くなっちゃうから、とかじゃないッスかね』
「はは、君らしい答えだ。だが、私はこう思う。人が罪を犯す時、それは……世界に、失望した時だと。もう世界に対して何の期待もしない。そのくらい、世界に絶望し、社会に失望しきった時、人は罪を犯す。自分がどうなろうと、相手がどうなろうと、今後何が起きようと、どうでも良くなるからね。ゆえに絶望は、芸術になり得る。この不平等な世界で、絶望だけは平等に我々の中にある。そして絶望だけが不変な作品を生み出す、唯一の存在なのだ」
『あー、ぶっちゃけ何言っているか分からねえッス』
「ふふ、まあ、そう言うだろうと思ったよ。さて、長話もこのくらいにして……また後で……ああ、場所は、分かっているね?」
『勿論ですよ。警察に勘づかれないように、隣町に移動しておきます』
「頼んだよ」
『そちらも、遅刻しないで下さいよ。ここ、駐車料金高いんですから』
「分かっているよ、じゃあね、運転手君」
『はい……
そこで電話が切れた。
白石、と呼ばれた男は鼻歌交じりに携帯電話を胸ポケットに戻すと、再度新聞に視線を戻した。
早い速度で新聞を読んでいくが、その途中で、視線を止めた。
「自白班、ね……まったく、白々しい男だ。私の最愛の人を奪っておいて、まだのうのうと、この町にいるとはね。白々しい程に、忌々しい」
吐き捨てるように言った後、男は手帳を取り出す。その間に挟んである白黒の写真を見つめると、幸せそうに目を細めた。
「私の最愛の人。君は、まだあの男の中にいるのかね。まったく、不平等だな……私の最愛の人を奪った憎い相手の中に、私の最愛の人の鼓動が鳴り続けるなんて……本当に、この世界は、残酷だ。君もそう思うだろう? 私の最愛の人」
男は、写真に語りかける。
「世界に必要な人間などいないというのに、皆、当たり前のように、我が物顔で世界を見ようとする。誰が死んでも、朝は来るし、夜は来るというのに……国王が死んでも、政治家が死んでも。……君が死んでも、朝が来たように。だからこそ、誰かが分からせてあげなくていけないんだ。誰だって平等に……『死』を抱いているという事に。我々は生まれながら『死』を所有している。人を殺せる権利と人を殺す権利……それ、即ち『死』の権利。それが不平等の世界で、唯一平等な権利だ。だから、もっと皆に分からせてあげないと、教えてあげないと……自ら『死』を選ぶ権利があるという事を……それを実行した時、初めて、我々は自由になれるという事を」
男はそれだけ言うと、写真を手帳に優しい手つきで戻した。
そして、また鼻歌交じりに珈琲を飲んだ。
「ちと苦いな」
*
「くっそ! あの野郎は、まだこんな事をしているのかよ! 毎度、毎度!」
「白いの」
太郎の言葉で、秋羽はハッと我に返る。
「桃太郎……」
「良い。気にせん。だが、あまり自分をいじめてやるな……お前が傷つくと、母君が泣くぞ」
「……」
秋羽は何も言わず、視線を逸らした。
そして、自分の心臓に触れる。掌を通じて、鼓動の音が優しく鳴り響いた。その光景は、会話をしているように太郎には見えた。実際に、秋羽は母親と対話しているのだが。
『落ち着いて、アキ君』
心臓の鼓動を聞きながら、秋羽は言う。
「分かっているよ、母さん。クソ親父は、俺が、捕まえる」
「……本当に、嫌な繋がりだな」
太郎が言った。
「あの男がやっている事は、法的に裁けん。所詮、奴は提供しているに過ぎないからな。その上、証拠を一切残さない」
「そういう奴なんだよ。昔から……条件を出して、飲むか飲まないかは当人の自由だって感じで……無理強いも強制もしない。だから、タチが悪い」
「少しだけ、今回の事件に似ているな」
「え?」
「いじめなんてものは、誰も強制しては行わない。きっかけさえあれば、いい。誰だっていいんだ……対象にさえなれば。例えば、そいつの方がテストの点数が高くてムカついたから。その日風邪で休んでいたから。退屈だったから……よく、いじめられる方にも理由があると言うが、そんなものは後付けに過ぎん。きっかけさえあれば、それでいいのだ。そして、やった方はその場限りの事で、覚えていないかも知れないが、やられた方は一生背負う」
太郎の言っている事は、もっともだと秋羽は思った。特に、今回の事件でそれを痛感した。彼女達が連鎖自殺まで至った理由に、いじめが深く関わっていた。いじめられた経験と、孤独から救ってくれた人物の自殺。それが重なり、世界に絶望し、自殺にまで至った。
「いじめは決して解決しない。たとえ止められたとしても、された記憶は一生残る……言われた言葉は永遠に消えず、いじめの影は一生そいつの人生について回るだろう」
そこまで言うと、太郎は秋羽を見つめた。
「なあ、白いの」
「なんだよ?」
「相反する正義と正義はぶつかる。そして誰もが、みんな、自分が正しいと思っている。ゆえに我々は、正しさを奪い合う」
「え……」
「正義なんて、いつも曖昧なものさ。その時代では悪とされた行いも、のちの時代で善行とされる事だってある。ようはタイミングだ。だから俺様達みたいな、正義のあり方がコロコロ変わる半端な連中は明確な正しさが必要だ。そして、それこそが、法なのだと、俺様は思う」
「法律が正しいのは、当然だろ?」
秋羽の言葉に、太郎は少しだけ残念そうな表情をした。
「そうだな。法律は正しい。正しくなくてはいけない。法という絶対正義を失ったら、俺様達は破滅するからな……明確な悪がなければ、何も出来ん、俺様達は」
「桃太郎、さっきから何が言いたいんだ?」
いつもの中二病かと思ったが、今日のは少し違う。
言葉を選ばないと壊れてしまいそうな程に弱々しい。
「白いの。お前は正しいかも知れない。そしてお前が憎む相手もまた、正しいかも知れない。そして二つの正しさは、いずれぶつかる。どちらかが屈するまで、徹底的に。だから、白いの……せいぜい、自分の信念だけは忘れてくれるな。お前を倒すには少々骨が折れそうだからな。正義を見失っても、根っこの信念さえ無事なら、きっと、お前なら……」
「何だか、今日のお前は変だ……って、いつもの事か」
「くっ! 凡人には理解出来ん、天才ゆえの苦悩! ああ、いつの日か、俺様を理解してくれる盟友は現れるのだろうか!」
先程までの態度が別人のように、太郎は突然謎のポーズをとり、声高らかに叫んだ。
――何だったんだ、今の……?
彼の言動がおかしいのはいつもの事だが――少し胸騒ぎがした。
「忘れる所だった! 白いの! 貴様、この間、俺様のローズたんを傷物にした詫びがまだだぞ!」
「ローズたんって、ああ、お前の自作のノートパソコンね」
「見よ! 今回はさらにグレードアップした! さあ、今すぐローズたんの足にキスをし、謝罪せよ! さあさあさあさあさあ!」
「パソコンに足ねえだろ!」