*
その傍を、黒塗りの車が通った。後部座席に座る男が、窓から二人の姿を見ると目を細めた。
「……ほう、これも因果か」
「え? 何か言いました?」
運転手がミラー越しに男を見て問うた。
「いいや……ただ、懐かしい顔があったものでな」
「懐かしいって……ああ、そういえば、昔この辺りに住んでいたんでしたっけか」
「ああ、そんな時もあったな」
「知り合いでもいました?」
「知り合い、か。私が知っているのは、ただ一つ……奴が、人を不幸にする死に神って事くらいさ」
「え?」
運転手がキョトンとした顔で、男を見ると――彼はくつくつと笑った。
「何でもない……さあ、先を急ごう。新しい芽を、育てなくては」
車は、走り去った。
*
――あぁ油断したな。
菊乃に刺された右の太ももを見ながら、秋羽は思った。
女子高生相手だと見くびっていたのかも知れない。
「くそっ絶対に文句言ってやる」
秋羽は右足を引きずりながら進む。助けを呼べば菊乃を追えなくなる。
――あの子を止められるのは、あの子の心の片隅に触れた俺だけだからな。
だから秋羽は助けを求めず、負傷した足を引きずりながら彼女を追っている。
止血出来そうな物も持っておらず、地面に血痕を残して進んだ。
たまに通行人が驚いた顔で秋羽を見るが、それ以上特に何もしてこない。声をかける事もなく、ただ見ている。
――当然の反応か。
それに、そっちの方が今の秋羽からしたら都合がいい。
「あー赤西?」
秋羽は電話をしながら、よろよろと進む。
「今から言う場所に、応援を……」
『構わないが、どうした? 息を切らしているみたいだが』
「いや、何でもない」
『そうか? まるで文具屋で売ってそうな安物の折り畳みナイフで太ももを刺されて、致命傷ではないが、めちゃくちゃ痛いって感じの声だが?』
「お前のその洞察力なんなの。エスパーか何か」
『はあ!? お前、本当に刺されたのか!? 応急処置は?』
「……じゃあ、頼んだからな」
スマートホンの画面の向こう側で、茉莉が何か言っていたが、秋羽は最後まで応じず途中で通話を終了する。
そして今度は違う人物に電話する。
「あー、桃太郎か? 緊急だから手短に言うな。もし菊乃が自殺するとしたら、どこだと思う?」
『何だ、藪から棒に? そんなの――』
電話の向こう側の友人の言葉に、秋羽は一度目を見開いた。しかしすぐにフッと笑みを浮かべる。
「ああ、そうか。やっぱり、そうだよな。自分達で始めた物語だもんな」
五
所変わって、中学校の前。
そこで菊乃は佇んでいた。
下校時刻はとっくに過ぎ、グラウンドには部活動をする運動部の姿すらなかった。
校舎の中に人の気配はするが、不思議と菊乃は誰にも会わなかった。
卒業生である菊乃は校舎内に入る事自体は不可能ではなく、事務手続きをすればスムーズに入れただろう。しかし菊乃はそれをやる時間すら惜しく思い、人目を忍んで校舎内に入った。
――こんなにあっさり入れるなんて、やっぱり四季さん達が早く来いって言っているのかな。
それとも、やはり脚本を提供してくれたあの人達が裏から手を回したか――
「まあ、どっちでもいいか。この物語の主役は四季さんで、クライマックスは私が決める。それが、約束だもんね」
菊乃は哀し気に微笑むと、震える指先を握りしめながら前に進んだ。
部屋全体が埃を被った、旧美術室。
表向きは事故だったため、その後は美術室ではなく物置場所として使われる事になった。当時在学生だった時からそれは変わっていなかった。
扉に手をかけると、当然ながら鍵がかかっていた。
しかし菊乃は周囲を確認した後、扉の真下を蹴ると同時に扉を横に引っ張った。たったそれだけで鍵は錠内で外れ、扉が開いた。
――こういうのも、昔から変わってないな。
当時から脆く、生徒の間でも蹴れば開く事は知れ渡っていた。
しかし室内は流石に劣化しており、菊乃の知らない景色が広がっていた。埃の被った床の上に、埃の被った段ボールや画材が積まれている。
入るのを躊躇う埃まみれの部屋に、菊乃は足を踏み入れると、真っ直ぐ窓に向かった。
黄ばんだカーテンを開こうと手を伸ばした時――
「よう、赤ずきん」
「!」
見知った声が聞こえ、菊乃は目を見開いて振り返る。
「刑事、さん……」
*
「どうして、ここに……」
菊乃はそう言いながら、右足を引きずりながら自分に近づく秋羽を見る。
「感傷に浸りながら舞台に向かうお前と違って、大人はもっと確実な手を使うんだよ。世の中には、タクシーっていう超便利な乗り物があってな」
「あぁ、そういう事ですか。あははっ、私もせめて走れば良かったな」
「俺の足を刺したくらいじゃ足止めにならない事くらい、お前だって分かっていたんだろ。あれは、ただお前がタガを外すための儀式……だろ」
「そう、かも知れませんね」
ふいに風が吹き、黄ばんだカーテンが舞った。
今にも消えそうな笑みで菊乃は微笑む。
「誰かに、止めて欲しかったのかな。今となってはそれすら分かりません。ただ、始めたからには、やり遂げないといけない。それだけです」
『止めて、アキ君! あの子、死ぬ気だよ!』
ああ、分かっている母さん!
秋羽は心の中の同居人に答えると、痛む右足を無視して窓辺に菊乃に向かった。
秋羽が伸ばした手が彼女の髪を掠るが――
「……え?」
指の先が彼女の背を掠め、そのまま彼女の体を後ろから抱きしめた。
風の音が、どこか遠くに感じた。
「何で……」
そう呟いたのは秋羽の方だった。
あの距離は間に合わなかった。特に足を負傷している秋羽では彼女を止める事は出来なかった。そうならないために、茉莉にあらかじめ菊乃が飛び降りた時の予備策を依頼していた。もし止める事が出来る者がいたとしたら、それは――
「秋山、お前……」
「うっ……うぅぅ」
菊乃はその場で泣き崩れた。
「駄目なのにっ……やらないと、完成しないのに、何で私っ……」
菊乃が床に拳を叩きつける。
「何で、何で……もう私一人だけなのに。誰もいない世界で生きていくの、すごく怖いのに。でも死ぬのも、怖くて……意味、分からない。どっちも嫌で、どっちも怖くて……だったら私、どうしたらいいのっ……」
生きるのも死ぬのも怖い。
その叫びが、痛く響いた。
「何で、こんな簡単な事すら私は出来ないの……四季さん、みんな、ごめん……ごめんなさっ」
泣きじゃくる菊乃の頭に、秋羽は手を置いた。
「いい……謝るな。謝るなよ……」
「うっ、だって私……」
「そんなの、謝らなくていい。謝る必要なんて……」
「だけどっ、私がやらないと、駄目だったのに……教えてもらったのに……何も……。全部、無駄にしちゃった。私が、みんなで決めたのに……裏切ったんだ」
泣きながら叫ぶ菊乃の言葉は段々と支離滅裂になってきた。
「だから、謝るな……生きている事を、謝らないでくれ。生きていく事を、責めるな」
秋羽はそこまで言うと、彼女を抱きしめた。ちょうど自分の心臓の音が聞こえるように。
「教えてやるよ……命の鼓動ってやつを」
母さん、頼みます。そう秋羽が心の中で唱えると、心臓の音がそれに応える。
『ええ、あとはお母さんに任せて』
それを合図に、心臓の鼓動に交じって「人の声」が混じった。
――助けて、誰か……たくない……っ
これは――
聞き覚えどころか、菊乃には誰の声かはっきりと分かった。
「私の、声?」
鼓膜を揺らす心臓の音が、自分の声に聞こえた。
「そうだ。音には感情が宿る。緊張したら不安な音、恋をしたら優しくも新鮮な音。その時の気持ちによって、様々な音を奏でる」
秋羽は、菊乃の心臓の音に語りかけるように言う。
「お前の心臓が叫んでいるんだよ。まだ生きていたいって」
「嘘だ。こんなの、ただの子供騙し。今時、引っかかったり……」
そう言葉では言いつつ、菊乃はその言葉を受け入れつつあった。先程まで冷たく高鳴っていた心臓の音が徐々に落ち着きを取り戻していく。
「だって、今更、生きたいだなんて、そんなのっ……ダサすぎでしょ」
「あんだけ泣きじゃくっていたくせに、よく言うぜ」
秋羽は軽く菊乃の額を小突く。
「生きたい、生きたいって、お前の心臓がうるせえんだよ」
「なんで、止めらないの……」
心臓に対してか、涙に対してか。菊乃は止まらず溢れ出す涙を何度も拭いながら言った。
「そりゃあ、生きてえって思っているからじゃねえか」
「……っ」
菊のはそのまま泣き出した。ただ泣いて、喚いて、叫んだ。
「私達の世界は、四季さんを中心に廻っていた。だけど、私……死にたくない。死にたくない……死にたくなかったの!」
嗚咽混じりに叫んだ声は、初めて聞く彼女の本音のようだった。
六
「必要なかったようだな」
茉莉は四階の窓から見える二つのシルエットを見て呟いた。
秋羽から連絡がきて、茉莉はすぐに中学の校舎の周囲を封鎖するように指示した。さらにグラウンドに消防隊員を配置までした。飛び降りてくる女の子を受け止めるために。
「先輩!」
その時、結局不要になった消防隊員に頭を下げていた緑区が駆け寄ってきた。
「緑区」
「あ、白石さんだ! じゃあ、止められたんですね」
「そのようだな」
茉莉は窓を見上げながら答える。
「先輩? どうかしましたか? いつもなら、『くそ! またアイツに負けた!』とか『これで勝ったと思うなよ!』って、俺にご褒美を……」
「した記憶はないが……いや、少し思う所があってな」
「え?」
「未成年が事件を起こすと、被害者だろうと加害者だろうと、必ず家庭環境や学校での態度について報道される。だが……どう成長し、何に影響を受けるかは家庭や学校だけとは限らない。普通の両親に育てられた、普通の家庭の普通の子でも……腹に怪物を飼っている事だってあるのに」
家庭環境だけが、世界ではない。学校だけが世界ではないように。
何をきっかけに世界に絶望するか分からない。そして、先に自殺した三人は思い留まる事なく――いや、誰かが気付いて止めてやる事が出来なかった。
――嫌な仲間意識だな。
四季が自殺したと知って、それを見抜けなかった自分達を責め、同じく死を選ぶ事で自分達に罰を与えた。そして一人が実行した事で、あの子が自殺したなら自分もやらなくてはいけないという一種の義務感が生まれ――それが連鎖する事で、鮮血ずきんちゃん事件が生まれた。
菊乃以外の子も、死にたくないと思っていたのかも知れない。
しかし、歪な友情と絆が、逃げ場をなくし――仲間意識が背中を押した。
あの子が死んだのだから、自分も、と。
そして、死んだ友達に手招きされて、自ら命を絶った。
やらない事は、仲間でない烙印を押されるようで――だから、彼女達は自殺した。姫崎四季の仲間である証明のために、死んだのだ。
彼女達は、仲間意識のせいで余計に連鎖自殺から抜け出せなくなっていた。
ならば、逆に、一人でも「やめよう」「死にたくない」「他の方法がある筈」と冷静さを取り戻していれば、それが伝染し――逆に思い留まる事が出来たかも知れない。
しかし、また歪な仲間意識が、それを妨害した。
――もしかしたら、みんな思っていたのかも知れない。
本当は死にたくない、と。だが、仲間意識がまた妨害した。「それを言ったら仲間ではない」と思わせ、誰もが本音を隠し、義務のように死んでいった。
――歪んだ友情だな。
「もし、あの子達にも……冷静さを取り戻すきっかけさえあれば、あるいは……いいや、これ以上は、野暮か」
泣きじゃくる菊乃と、それを泣きそうな顔で見つめる秋羽を見て、茉莉はそっと視線を逸らした。