『やっぱり、君に似ているね、アキ君』
心臓の鼓動の音に混じって、母親が囁いた。
『貴方も、私に盲目でしょ? お母さんとしたら、嬉しい半分心配かな』
――そうだな。
だから、秋羽は彼女と似ていると感じたのだろう。
他者から見れば歪なものでも、当人にとっては世界の全てで常識であり、絶対的な思考。やはり宗教に似ているな、と秋羽は感じた。
「なのに……私達は、四季さんを、裏切ってしまった」
菊乃が拳を自分の太股に叩き付けた。
「四季さんが事故だって聞いた時、疑わなかった! 今思えば、不審な所ばかり! なのに私達は、気付いてあげられなかった! あんなに、四季さんに助けてもらったのに! 四季さんだけが、私達の世界で、あの人がいるから、生きてこられた! あの人は、私達にとって光だったのに」
嗚咽が交じった声で、彼女は叫ぶ。
「その後に知った。四季さんに対して悪い噂があったの。安部恵介と肉体関係があった、とか。妊娠していた、とか。認知して貰えなかったから、腹いせに飛び降りた、とか……死んだ後、四季さんの事をよく思っていなかった子達が四季さんを貶めるような噂を立てた。死んだ彼女を悪く言った所で、学校は咎めもしなかった。なのに……その事すら、私達は気付けなかった」
「え?」
「学校で噂が立てば、普通気付くって思うじゃない? でもね、他人に全く興味のなかった私達は、そんな噂の存在すら知らなかった。気付いた時には、噂が校内全体に広まった後で……保護者の人達が面白可笑しく噂するまでに広まった後だった」
傷つき、自殺した少女。
その死後も、彼女の尊厳は傷つけられた。そして、その事に――四季を中心に世界が廻っていた彼女達は、気付かなかった。
四季が自殺したのは中学の時だ。そして、彼女達が「鮮血ずきんちゃん事件」を起こしたのは、高校に進学してから。それまで彼女達は全く気付かなかったというわけか。
――何て、言えばいいんだ。
情けない話だが、かける言葉が出てこない。
「何が起きているのか知った時は、もう手遅れだった……友達なのに、何も出来なかった」
「学校側には……」
「言ったわよ。だけど、誰も面倒事はごめん。まして死んだ生徒なんて、守る価値なんてない。誰も、相手にしなかった。それどころか、もう過ぎた事、終わった事って感じで、誰も四季さんの死を悼む事すらしなかった」
「……それで、鮮血ずきんちゃん事件か」
「……っ」
菊乃は唇を噛んだ。
そして涙が溜まった瞳で、顔を上げた。
「……」
後悔と憎悪、決意。そして――。
――やっぱりか。
秋羽は彼女の目を見て、そこから漏れ出る感情を観た。
「なあ、この世で最も重い罪って何だと思う?」
「え? 重い罪? えっと、大量殺人とか?」
「まあ、それもあるな」
殺人も殺した人の地位や関係、そして数によって罪の重さが変わる。
「殺した人によって、罪の形は変わる。だから、俺はこの世で最も重い罪は、親殺しだと思うんだ」
「親? ああ、確かに」
「だから……」
秋羽は静かに微笑むと、自分の胸に手を置く。
ドクンドクンと確かに脈打つ心臓。命の鼓動が手を通じて、全身に伝わる――悲鳴のように。
「だから、俺は罪深い」
「え……」
「俺の心臓は、母親のものだ」
驚く菊乃に構わず、秋羽は続ける。
「俺の心臓は誰かの心臓と替えないといけなかった。そして……母親が名乗り出た。結果、俺は母親の心臓を食って、生きている。だから俺は……この世で最も罪深い。最も愛された心臓を持ち、憎まれた命を持った――忌み子としてな」
――『秋羽、お前が憎い。私から最愛の人を奪った、お前が、私は憎い。だが、その心臓はあの人のもの』
―ー『だから私に、お前は殺せない。せいぜい、憎まれたその命を背負って生きていけ……』
幼い時にある人物に言われた言葉を思い出し、秋羽はフッと笑う。
秋羽は、自分の心臓に触れる。
どくん、どくん――という鼓動と共に、時折現れる母親の影。
『アキ君』
そう言って、秋羽が間違えそうになった時に現れては叱り、秋羽が落ち込んでいると励まし――母親の影は、常に秋羽の傍らに佇む。それが心臓の影響なのか、秋羽の思い込みでただの妄想なのかは分からないが。
そもそも秋羽はその母親の影を必要としているため、正体などはどうでもいい。
――俺は、母さんに愛されている。
その事実だけあれば良い、と秋羽は考える。
「だ、だから、何ですか? 同情誘って、私が自白するとでも?」
「そんなつもりはねえよ。ただ、お前ばっかり話させちまったからな。絶対に、人に触れたくない場所を……だったら、俺も話さないとフェアじゃないだろ」
「……」
菊乃は黙って秋羽を見上げた。
「まあ、俺は少し特殊かも知れねえけど……だからこそ思う時がある」
秋羽は腰を屈め、菊乃の視線に合わせる。そして、胸を指差した。
「お前の心臓を動かしているのは、お前一人の力じゃねえ。色んな奴が関わって、その心臓は動いている」
――俺に、常に母さんが寄り添うように。
「お前の人生は、もうお前一人の物じゃねえ。お前の命も、お前一人の物じゃねえ。お前と関わった、全ての人の物だ」
「そんなわけ……」
「ある」
秋羽は、断言した。
「どいつも、こいつも、簡単に死ねや殺すや言いやがる。どいつも、こいつも、簡単に死にたいやら生きたいやら言いやがる……その命が、自分の物だと思い込んでやがる」
「何を、言っているんですか? 自分の命は自分の物でしょう」
「確かにな。その心臓はお前の物かも知れない」
「……っ」
秋羽の事情を知ったせいか、菊乃は複雑そうに黙った。
秋羽は続ける。
「生まれるのも、生きるのも、死ぬのも全部やるのは自分だ。だけど俺は、自分の人生が自分だけの物とは思えない。今の俺を形作っている全ては、俺一人で築けたものじゃない。だから、俺の人生は俺だけの物じゃない。お前の人生も、お前だけの物じゃないんだよ」
「やめて」
菊乃は小さく拒絶した。
「何も知らないくせに、私の人生を語らないで。私には、私達には、
「嘘つくんじゃねえよ」
震える言葉で語る菊乃を、秋羽がばっさり切った。
「お前も、死ねない理由があるんだろ?」
「……っ」
菊乃は、絶句した。
「目を見りゃ、分かる。お前の瞳には、複数の感情がある。憎悪と後悔、苦悩、迷い……そして、生きたいという生への渇望」
「何で……そんな事あるわけ、ないじゃないですか。私には、私達には、四季さんしかいない。四季さんを中心に世界が廻っていた。だから、四季さんを失った今……」
「あるだろ、まだ」
秋羽は狼狽している菊乃の前にまで歩み寄ると、驚いて後ろに下がりかけた彼女の肩を掴んだ。
「お前には、まだ……お前自身が、あるだろ」
「!」
無感動だった彼女の瞳に、色んな感情が流れ込むように映った。
怒りや哀しみだけではない。嬉しさや愛おしさ――冷たい物から温かい物。数多の感情が一気に巡った。
「私は……」
菊乃が膝から崩れ落ちた。
「私は……死にたくなかった」
ぼそり、と言った言葉が、やけに重く響いた。
「分かっているの。やらなくちゃ、いけないって! だって、みんなで決めた事だもん。私だけが、裏切るわけにはいかない。それに、これはきっと罰だから……」
「姫崎四季が自殺した事を見抜けなかった事と、自殺するまで姫崎四季が思い悩んでいた事に気付けなかったからか?」
「……っ」
こくり、と彼女は頷いた。
「全部を知ったのは、高等部に進級してから……四季さんを失った後、私達は、互いに疎遠になった。だって私達は四季さんを中心に繋がっていたから。その四季さんがいないなら、もう繋がりはない。だから、それぞれ高校生になって、普通の女子高生を演じていた……多分、エリカやユリ達は満たされる事はなかったと思う。あの子達は、私以上に四季さんを慕っていた。それこそ、彼女がいなければ、生きていけないってくらいに」
彼女達の友情は、とても歪なものに思える。
一人を中心に廻る世界。その一人が欠けたら、全員が疎遠になる。固くて強いようで、その絆は切れやすくて脆い。
「そして、ある日、私達は知ったの。四季さんの死の真相を……」
そういえば、菊乃達はどのタイミングで四季について知ったのだろうか。
太郎のように情報通ならともかく、疎遠になった彼女達は一体どうして――。
秋羽はそこが引っかかったが、気にしすぎだと思い、すぐに頭の片隅に追いやった。
「言い出したのは、エリカだった」
「もう随分と月日が経過していたから。今更騒いでも、誰も相手にしてくれない。だから絶対に忘れられない方法で、四季さんの死を世の中に広めよう、って」
「世の中に、か……」
成程な、と秋羽は頷いた。
「
もし当時から自殺として報道されていたら、世間はもっと騒いだだろう。不注意の事故ならば、悔しいが、遺族としても納得はいく。だから学校側も警察もあまり騒がれないように、世間の注目を浴びないように、事故として処理した。その結果、のちに真相を知って傷ついた少女達が出てきたわけだが。
「そう……不運な事故ならしょうがないって、誰も気にしなくなった。もし自殺だったら、叩いていただろうに……。四季さんを死に追いやった奴らだって、今はのうのうと暮らしている。きっと彼女が死んだ事すら覚えちゃいない」
茉莉の調べだと、当時関与した人物は主犯である元美術教師の安部恵介の他に、彼と成績と引き替えに肉体関係を持っていた女子生徒が複数。
「だから、絶対に忘れられない形で、記憶に刻んでやろうって……」
「それで、猟奇殺人に見せかけた自殺か」
「あの方法なら、世間は猟奇殺人として注目をする。現場に、四季さんの作品を置けば、あの男も注目される。そうなったら、後はマスコミと世間が勝手に曝いてくれる」
「もし曝かれなかったら、どうするつもりだったんだ? それじゃあ、お前達は……」
「無駄死になんかじゃないよ」
菊乃は、言った。
「彼女達の死は、私達の死は、無駄にはならない。私がそうさせないもの」
「お前、何を……」
菊乃がポケットから折り畳みナイフを取り出した。
「やめておけ。そんな小さなナイフじゃ、致命傷にはならないぞ」
秋羽は嘘をついた。
仮に菊乃が自分を刺したとしても、応急処置と言える程のものが出来る自信はない。
警察学校を出てからずっと「自白させる」事だけを業務にしてきた秋羽は、素人なみの応急処置しか出来ないだろう。
――だけど、相手がそう思わなければ、そうならない。
「そんなチャチなナイフじゃ心臓には到達しねえ。せいぜい軽く血管を傷つける程度だ。俺なら応急処置が出来るからな。そのまま救急車に運ばれて、一命はとりとめるだろうな」
「そうかも知れませんね。だから……」
菊乃は自分に手を伸ばす秋羽に近づく。そして――
「……っ!」
秋羽の足を、刺した。
鈍い痛みが徐々に広がり、全身に広がった。
――大した深さじゃない。
刺されたといっても女子高生の不意打ちだ。致命傷にはなってはいない。それが不幸中の幸いだ。
「ぐっ……」
秋羽は刺さったナイフを握り、細胞を傷つけないように動きを止めた。
ナイフによる刺殺で致命傷になるのは臓器の破壊だ。ナイフを刺し、それを回転するように動かせば致命傷となる。
自白刑事ではあるがその程度の知識はあり、秋羽は刺された箇所を抑えながら地面に膝をついた。必然的に菊乃を見上げる形となるが――
「あはは、刑事さんの事、刺しちゃった……」
菊乃は笑っていた。泣き声のような乾いた笑い声が響く。
「刑事さんを刺すなんて、私、やばい子だな。悪くて、やばくて、イカレてる……。当たり前をだよね。友達を、あんな姿に出来たんだから。刑事さんだって刺せるし……きっと、今の私なら、出来る」
「……っお前、何言ってんだ」
秋羽の言葉には応えず、菊乃はそのまま空を見上げるようにある場所を見つめた。
その方角にあるのは――
「待ってて、今から私も行くから」
そう言って菊乃は、中学校のある方向へ歩き出した。