「……いじめは、裁けるって本当なの?」
あの後、立ち話するような場所でもないため、河川敷近くの公園のベンチで秋羽と菊乃は腰かける。喫茶店などは、逆に自分がパパ活などのあらぬ疑いがかけられそうなため、やめた。
四月初旬のため、満開の桜が風に揺れて時折花弁を落とす。
青と桃が混じり合った空を見上げながら、秋羽は答える。
「まあ、法的には可能だ。誰もやろうとは思わないだろうけどな」
「……」
思い当たる節があるのか、菊乃は黙った。
「いじめられている。その事実を隠そうとする奴らの方が多い。だから、いじめられても、大抵の奴らが泣き寝入りだ」
これはいじめに限らず、近年話題になっているセクハラや痴漢、ストーカーなどもそうだ。被害に遭いながら、被害に遭うような自分が悪いと考える者が大半であり、訴えを起こすという発想まで行き着かない。
しかし秋羽は思う。
「悪い事だよ。いじめも、セクハラも、痴漢も……やった方が悪い。当たり前の事だろ」
「そんな事、みんな知っているよ。だけど……言えるわけないじゃん」
「それは……恥ずかしいから、か?」
秋羽の言葉に、菊乃は握っていた拳をさらに強く握った。何かに耐えるように、或いは怒りをぶつけるように。
「いじめのターゲットになるのは、弱いから。弱いから、つけいるスキがあって……いじめられる。セクハラや痴漢も、相手に好意を抱いていると思わせる行動をとったから。でなければ、そんな事はしないだろう……って。だから、みんな口を揃えて言う。そんな所か?」
「やられる方にも、問題がある」
秋羽の次の言葉を続けたのは、菊乃だった。
「刑事さんに言われなくても、知っているよ。散々言われてきたからね」
自嘲気味な笑みを浮かべ、菊乃は言う。
「うち、町工場って言ったじゃん?」
「ああ」
そういえば、そんな事を言っていた気がする。
「白桜に通う生徒って、大抵が大企業の令嬢とかお嬢様が多いわけ。まあ、スクールカーストってやつだよね。だから、私みたいな一般家庭、いやそれ以下の貧乏くさい子って、それだけで目立つんだよ」
彼女は初等部から通っていると聞く。
――二年や三年言われたって程度じゃねえな。
もっとずっと前――大人が純粋だ無垢だと言っていた、年端のいかない少女時代から、きっと彼女は言われ続けてきたのだろう。
どこか虚ろで無感動な所や、大人を小馬鹿にした態度も――長い間、悪意に晒され続けたせいのかも知れない。そんな感じがした。
家庭だけが世界じゃない。どんなに両親が愛情を注いで品行方正に育てても、それ以外の場所で悪意をぶつけられれば、簡単に染まってしまう。特に、年端のいかない子供など、影響を受けやすい。
そして、そういった悪意が、また新たな悪意を育てる。そして、それは学校も同じだ。学校だけが世界じゃない。家庭や学校で教育されても、それ以外の場所で影響を受ければ、人は簡単に悪に染まり――或いは、善に染まる。
印象的な人との出会いが、子供を悪い道にも、良い道にも、導いてしまう。
――まあ、俺の勝手な想像だが。
「ていっても、最初に言い出したのは、お母様連中だけど」
「え……」
「子供だから分からないとでも思って、好き勝手言いまくっていたよ。あの家の母親は貧乏くさい、あのうちの家庭は貧相だからきっとろくな教育も出来ていない。あの先生は悪い、この先生は嫌い、って……そんな風に、悪口で繋がった関係を長く見ていれば、子供だってそれに倣う。母親が悪く言っていた家の子を、子供は親に倣って仲間外れにして、“貧乏くさい”って罵って……今思うと、それがいじめのきっかけだったんじゃないかな」
菊乃は、言う。
「お母さんが言っていたら、子供からしてみれば、それが本当の事だって思う。だから、いじめている自覚もなければ、悪いという認識すらない。小学校上リ立ての子供ですら、そうなら……もう、どうしようもないじゃん」
――ああ、知っている。
秋羽は隣で話を聞きながら、思った。
――よーく知っている。
集団の心理。
あの子がやっていたから。あの子が言っていたから。
そうやって自分で判断しておきながら、人はあらかじめ逃げ口を作っておく。
――そういえば、桃太郎がそんな事を言っていた。
『いいか? 白いの。もっとも恐ろしいのは、悪人が掲げる信念ではない。集団が持つ信念だ。アイツは悪い奴だから、追っ払ってやった。そうやって、クズが正義という大義名分を持つ方が、タチが悪い。半グレの方が可愛いものだ』
彼の場合は、捻くれ者の王者レベルの捻くれっぶりだから、極端すぎるが。
しかし、彼が言わんとしている事が、今はっきりと分かった。
先程の女子もそうだが、あの子達は「悪い事」をしている自覚がない。クラスで浮いている「悪い奴」。悪目立ちする「いけない奴」。そういった害となるべき存在に石をぶつけて追い出す――それが「正義」の行いだと思い込んでいる。それが、もっとも恐ろしい事で、それを良しとする環境がもっとも憎むべき敵だと気付かずに。罪を罪と思わず生きていき、そして、これから先も誰からも指摘されないまま生きていくのだろう。
だけど彼女達はその事に気が付いた。だから、大人に頼る事も相談する事も出来ず、自分達で決めたんだ。悪意から、友人の尊厳を取り戻す方法を。
「それでもね、最初の頃は気にしないで、打ち解けるように頑張ったんだよ。自分から遊びに誘って、挨拶をして……だけど、駄目なんだよ。一度、バッテンつけられたら、もう……呼吸する事すら、許してもらえない」
泣き出しそうな声で、彼女は言った。
「そんな状態だったからかな。四季さんは、私からしたら、聖人みたいな存在だった」
正しすぎる程、正しかった少女。
この事件の発端である、美術室から飛び降り自殺をした。
――そういえば、姫崎四季について、こいつの口からちゃんと聞くのは初めてだな。
「四季さんは、嫌われた事が一度もないってくらい、みんなに好かれていたんだ。そのくせ、スクールカースト上位のお嬢様達じゃなくて、私達みたいな下位の子達ばかり構って……少し変わっていたけど、みんな、彼女の事が大好きだった。まるで、ドラマや漫画に出てくる、主人公みたいな女の子だった。まあ、いい所のお嬢様だし、人の悪意に当てられる事がなかったんだろうね。人に嫌われた事も、人を嫌った事もない、って感じの……異常な程に正しい子だった」
異常な程に正しい、か。
――何となくだが、分かるな。
何事にも度合いというものが存在する。正確な人間は好かれるが、完璧を追求しすぎると、敬遠される。
正しいが、多少のミスをする。そういった不完全な人物を、人は好く。
間違いすぎると嫌われ、正しすぎると敬遠される――人の社会は、そういう所がある。
正しすぎてはいけない。悪すぎてはいけない。
中途半端な正しさと悪さが必要とされる。そして、どちらかが多すぎると、人はその人物を異分子として認識し――悪い奴は裁かれ、正しすぎる奴もまた裁かれる。
ふいに脳裏に
「孤独な子に手を差し出し、四季さんは身近で起きているいじめを食い止めてきた。詳しく聞いたわけじゃないけど、多分エリカやユリも、同じだったんだと思う。だから、縋るように、みんな四季さんの元に集った」
ふいに菊乃は秋羽を見上げた。他愛もない会話でもするように。
「学校の友達ってさ、いくつかあるじゃん?」
「いくつかって……クラスと部活とかか?」
菊乃は、小さく首を振った。
「本当に仲が良くてつるんでいる子と、学校生活を上手く過ごすための子」
「上手く、過ごす?」
「一人でいれば孤立しているって思われて、いじめのターゲットにされやすい。だから、私は一人じゃないよってアピールするために、一緒に行動する子。同じクラスの時だけつるむの。だから、その子が腹に何を抱えていようと、どうでもいい。だって、一年だけの付き合いだもん」
――俺が想像している以上に、女子校は複雑そうだ。
自分が上手く立ち回るための交友関係。高校生が、そんなものに気を遣って生活しているという事実に、正直面食らった。
「だけど四季さんは違った。クラスが違っても、私達はどこかで繋がっていた。“本当の友情”だって思った。クラスが離れても、進路の関係で会う事が少なくなっても……私達は繋がっていた。四季さんがいる事で繋がっていた。四季さんを中心に、私達の世界は廻っていた」
酔いしれるように、恍惚とした表情で菊乃は言った。
その強い絆は異常とも思え、背筋が凍る何かがあった。
――四季さん、か。
他の生徒は呼び捨てだが、彼女に対してだけは敬意を込めているように思える。そして、それは菊乃だけではなく、死んだ生徒達も同じだったのだろう。
そう思うと、やはり彼女達の語る友情は強くて固く――そして歪に、秋羽の目には映った。
――友情っていうよりも、宗教だな。