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第11話

 時刻は、午後九時。

 白石秋羽は、自宅に戻ると、脱力するようにソファに転がった。

「はぁ……久々に、疲れたな」

 一人で使うには、少々大きめの一軒家。一階のみの造りだが、広いキッチンに、六畳ほどのリビング。奥にも、和室の部屋や寝室もある。リビングは大きめのソファと液晶テレビのみであり、広さに関して家具が少なく、それが余計に質素に感じる。

 実際、桃瀬太郎には「引きこもるに最適すぎる!」と絶賛された。

 ――まあ、当然か。本来は三人で使うために、あの人が建てたものなのだから。

 秋羽は、首元からロザリオのペンダントを取り出す。

 そして、神に祈るように額にそれを掲げながら、心臓に触れる。


 どくん、どくん――


 と、手の皮を伝って、心臓の鼓動が全身に伝わった。

 ――生きている。

 秋羽は、その鼓動を感じながら、そう思った。

 ――生きている、音がする。

 ――ああ、生きている。俺は、生きている。あの人も、生きている。

 そんな事を考えていると、どくん、どくん、という心臓が高鳴る音に交じって、『彼女』の声が聞こえた。


『駄目でしょ、アキ君。そんな所に、寝転がって。お巡りさんなんだから、しっかりしなさい』


 ――母親の声だ。


 この家において、母親の言う事は絶対である。

 母が全てであり、誰も逆らう事が出来ない。最後に会ったのが小学生の時だったため、記憶が曖昧だが――父親もそうだった。彼女には、母には、決して逆らえず、いつも観念したように困ったように笑いながら、最後には彼女に従っていた。


 ゆえに、母親の言葉は、正しい。


 それは秋羽の信条のようなものであり、何人もそれを否定する事は許さない。


「なあ、母さん」

『なあに? アキ君』

「あの子、少し妙だったよな」

『妙って、どこらへんが?』

「なんか、俺っていうより、大人に対して不信感があるっていうか、空気で俺達を拒絶していた。それに……言動一つ一つも、まるで用意された台本を読んでいるようで」

 最初はよく分からなかったが、菊乃は恐ろしい程に冷静だった。それこそ、脚本通りに動いているようで――目の前にいるが、その瞳は別の何かを映しているようにも思えた。

「あの子は、俺を見ていなかった。なら、誰を見ていたんだ?」

『さあ、そこまでは分からないよ。でも……』

 そこまで母が言った時。玄関のチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だよ」

 秋羽は重い身体を起こし、玄関に向かう。そして外の人物が誰か確認せずに扉を開けると、意外な人物が立っていた。


「よ、よう」


 と、赤西茉莉は相変わらず怒ったような顔で、軽く手を上げた。

「赤西? どうしたんだ?」

「別に大した用ではないが、お前は一人暮らしだろ? 今日は色々と立て込んで、疲れているだろうと思って……」

 と、茉莉はタッパーを差し出してきた。

「カレー、作り過ぎたから……その、お前さえ良ければだけど。別にいらないなら、いいんだが」

「あー、いつも悪いな」

 秋羽と茉莉の実家は近くにあり、学生時代から彼女には世話になっている。何度か気にしなくていい、と言っているのだが、何かと理由をつけて茉莉は秋羽の世話を焼いている。

 ――後輩にも慕われているし、きっと面倒見がいいんだな。

 そんな事を考えながら、秋羽はまだほんのり温かいタッパーを受け取る。

「それはそうと……話し声が聞こえた気がするんだが、誰かいるのか?」

 茉莉が怪しむように目を細めて奥を覗くが、玄関先にある靴は秋羽の物のみだ。

「いいや、いつも通り……母さんと、話していただけだよ」

「……っ!」

 茉莉が絶句した。

「母さんって、お前の母親は……」

「生きているよ」

 茉莉の言葉を、秋羽がやや強めの口調で遮った。

「たとえ十年経とうが、母さんは生きているんだ。生きて、いつも俺の成長を見守ってくれている」

「……」

 それ以上、茉莉は何も言わなかった。

「だから、俺はそれに応えなくていけないって思うんだ。母さんが愛情注いで育ててくれたから、今の俺はあるんだ。だから、母さんが間違っていないって、俺は自分の人生をもって証明しないと……」

「お前は……歪んでいるな」

 茉莉はそう呟いた後、秋羽を押しのけて乱暴にハイヒールを脱いだ。

「おい」

「少し邪魔する」

「え? 俺の許可なく」

「お前の言葉を借りるならば……許可なら、葉菜はなさんに貰った」

「……」

 まさか茉莉がそんな事を言うと思わず、秋羽が目を丸くして茉莉を見ると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。

「線香くらいはあげさせろ」

「赤西……」

「否定はしない。受け止め方も、生き方も、それぞれだからな。特に、お前はそれを受け入れて、あえてそのように振る舞っているのだろう? なら私からは何も言うまい。ただ……お前は、歪んでいる」

「否定しないって言っておきながら、それかよ」

 秋羽は乾いた笑いを零しながら、首元のロザリオと自身の心臓に触れた。


『茉莉ちゃんは、いい子ね』


 ――ああ、俺もそう思う。

 母親の言葉に、秋羽は頷いた。その時、窓ガラスに映った自分の姿が見えた。怒ったような茉莉の顔と困ったような自分の顔――その二つが、映っていた。自分の傍らに佇んでいる筈の母親の姿はない。

 ――そうだよな。この家に、俺と赤西しかいないのだから、当然か。


『どうしたの? アキ君』


 心臓の鼓動に混じって、そんな声が聞こえた気がしていた。

 しかし、その声の主がこの場にはいない。それを理解した上で、秋羽はいつも心臓の鼓動を聞いて、母親との会話を続ける。

 ふいに、先を進む茉莉が立ち止まり、こちらを振り返らずに問うた。

「お前の母親が亡くなって、父親が行方をくらまして、何年経つ?」

「……分からない。数えていないから」

 少し考えた後そう答えると、茉莉は「そうか」とだけ呟いた。


 四月三日、「鮮血ずきんちゃん事件」取り調べ一日目、終了。

 タイムリミットまで、あと六日。


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